逃げ場
流血描写と残酷表現が少しあります。
肩を竦めた男の姿を見て、一瞬呼吸を忘れた。
「ふーん、逃げ出したってか。なかなかやるなぁ……なんだ、いい匂いがするな。お前らからか?」
ニヤニヤしながら近づいてくる男。
くたびれた風体だが、目付きは鋭い。何より後ろの男たちには確認できなかった、鞘に入った長剣を下げている。
明確な武器を目にして、座り込んでいたカレンがガタガタと震え出した。
背後に土の棒、前方に誘拐犯。
自分で作り出してしまった袋のネズミ状態。
さっきまで私たちを守ってくれた土の檻が、あっという間に逃げ場を塞いでしまった。──そこで思い出す。
さっきの精霊がいる!
「ルクレーツィア!」
祈るように、今度は明確な意思で叫んだ。どうか応えてと、私たちを守ってとこれでもかと祈りを込めて。
……………。
何も起こらなかった。いっそ清々しいまでに。
さっきの光も少女めいた姿もなし。空しく木霊する私の声が風に吹かれて飛んでいった。
ルーカスの背中で、両手を突き出して叫んだ私が馬鹿みたいだ。
結構ある私の魔力ほとんど吸い取っていって、そしたらもう用なしな訳? 気紛れだと聞いてはいた。いたけど! そりゃさっきは助かったけどどーするよ……どうすればいい?!
左右の木々に目を走らせ他の精霊はいないか探す。
いない。こういうときに限って見えない。
肩に剣をかけた男がゆっくりと近づいてくる。ならばと息を整え、もう一度魔法陣を構築しようとしたら──唐突に体の力が抜けてくったりとルーカスに凭れる結果となった。
体に、力が入らない。
「なんだ、何かの呪いか?」
一瞬身構えた男が拍子抜けしたように肩の力を抜く。
辛うじて残っていた気力が一気に抜けるのがわかった。
隙を見て逃げ出して、捕まる寸前でその手を逃れることができたと思った矢先にまた新たな敵が現れて。
もう大丈夫だと安心した時にその希望を叩き潰されて、それでももう一度逃げよう、という気力はあっても体力が残っていなかった。
あと私の状態。
現実感がないような、どこか頭の中がふわふわとしたように感覚が遠くて、体が熱くて重い。
──多分これ、魔力枯渇一歩手前だ。
「残念だったなぁ、あともう一息だったが。ま、あんまり気落ちするな。なるべく高く売ってやるからな」
「おい、いいからさっさとそいつらを捕まえろ! 稀に見る上玉だぞ」
「うるっせぇ、まんまとガキに出し抜かれて。回り込むしかねえならとっとと馬車こっちに持ってこい。そろそろ街で騒ぎになってくるぞ」
私たちが逃げ出したことに対して不快感も、苛立ちも見せない男が返って怖い。
檻越しの男たちとの会話の内容に一瞬希望を見い出したけど、その可能性を自分から消さざるを得なかった。兄様がお母様に私がいなくなったことを運良く伝えられたとして……それでどうしてこの場に来れるだろう。なんの手掛かりもないのに。
けらけらと笑いながら、なんの気負いもなく近づいてきた男が不意にカレンの三つ編みを掴んだ。鷲掴みで、気遣いも遠慮もなく。
「い、痛い痛い!」
「もう二度とこんな気を起こさねえようにしとかねえとな」
抜かれた剣に、カレンの喉がひくりとひきつった。怯えた少女の視線に、男はまた笑った。
「刺しゃあしねえよ。ただお前たちの主人がこれから誰になるか教えてやるだけだ──髪の長さで印象は大分変わるしな」
押し当てられた剣先。乱れているけれど、大事に伸ばされている、女の子の髪にぴたりと押し当てられた。
「や、やだやだ、やめ、てぇ……っ」
何をされるかわかった時、ボロボロと涙を流しながらカレンが力なく抵抗する。その様子を、私はただ見ていることしかできなくて。
首の辺りで切られると思った時──空気が変わった。
トンッ、と体重を微塵も感じさせないしなやかな動きで、白猫が動いた。
輝く毛並みの尻尾をくねらせ、首を一つ振る。ただそれだけで、風の音が変わった。
白猫を中心として周囲を風が吹き抜けていき、木々の枝葉がちぎれるんじゃないかと思うほどなびく。
……何が起こったのか、すぐにはわからなかった。
弧を描いて飛んだ細長い何か。一瞬だったけど、何か赤い飛沫が上がったようにも見えた。
ぺしゃっと場違いな音を立てて落ちた物を、ポカンとした表情で眺めた男の顔が、みるみるうちに赤黒く染まる。言葉にならない喚き声が響き渡り、慌ただしく飛び去る鳥の羽音が遠ざかっていく。
前のめりに伏した男の姿が脳裏に焼き付いた。地面に飛び散ったどす黒い何か。
さっきまで男が手にしていたはずの剣が転がっていた。
喉に絡んだ呻き声が耳をすり抜けて、私は別の意味で力が抜けた。
腕が、切り落とされている。
「う、うわあああ!!」
「なんだこいつ!!」
次いで上がった背後からの叫び声。
それをきれいに無視し、優美に尻尾をくねらせた白猫が小首を傾げる。
細く長く、鳴き声が響く。
その度に空気が震え、風を切る鋭い音が数回駆け抜けた。巨木の枝が地響きを上げて地面に落ちる。
土埃に怒声がかき消され、視界にうっすら膜がかかる。
お、思い浮かべると吐き気がしてくるけど、あの腕上手く神経が繋がればまだ間に合うんじゃないの。
「フミャアァァン」
どうしたの? と言うように白猫が振り向いた。緊張も、気負いもなく自然体で立つ片目の猫の姿はあまりにも異質だったけど……綺麗だった。薄汚い埃が舞う中、白い毛並みが光を反射してきらきら光って見える。
……ただし、そう思ったのは私だけだったらしい。
「こ、こっちに来るな!」
震える声を上げたのは、フレッドだった。
尻餅をついたまま、下がろうとして爪先が地面を引っ掻く。間一髪髪を切られずに済んだカレンは、ぐったりと木に寄りかかって浅く息をついている。そんな二人に白猫が静かに顔を向けた。
「お、おかしいと思っていたんだ、ずっと馬車から一緒についてきて。何が目的かと思えば、お前も僕たちが……!」
「フレッド?」
「ルーク、こいつ魔物だ!!」
白猫は動かない。育ちのよさそうな印象の強い彼の剣幕に圧されてルーカスが目に見えてたじろいだ。
その動きが背中の私に伝わって危うく落っこちそうになる。力の入らない両手を震わせながらしがみつきながら、不穏な空気に思わず眉が寄った。
「魔物? 魔物って……」
「最果ての森からやってくるおぞましい生き物のことですよ! 僕らの魔力が目当てなんだ。ずっと隙を見て僕らを食らおうと……」
「いえ、してないですよね?」
「これからそうするんですよ! そうに決まっています!」
思わず突っ込んでしまった。おかげで一瞬地面に落ちた腕のことを思い出さずに済んだけど……少なくともあの子は私たちのことを助けてくれたんじゃない?
そうでなければ今頃カレンの髪は、無惨な長さになっていた。
「それなら馬車の中が一番好都合だったのでは? それに貴方は魔物を見たことがあるんですか? ともかく今は助けられていますし、断定するのは……」
「実体を持って魔法を使う存在は魔物以外に精獣しかいませんよ! こんな風に姿を現す精獣がいるとでも? 魔物以外にあり得ない!」
完全にパニックに陥っている。
咄嗟に白猫寄りの意見を口にしたけど、ちょちょちょ、ちょっと待った待った。
ここでこんな言い争いしている場合? 剣を向けてきた男が動けない今が逃げる、今度こそ本当のチャンスなのに。
口を開くのも億劫になってきた。続けざまに起こった出来事に、声も出せそうにない。
体からどんどん力が抜けていく。
ルーカスの服を引っ張りやっとのことで前方を指すと、彼ははっと我に返った。
ただそれには、道の先にいる白猫の側を通らなければならない。
当の白猫はフレッドから顔を背け、体を丸め呻いている男を見ている。規則的に地面に叩きつけられる尻尾が、不機嫌そうに見えるのは私だけ?
魔物と呼ぶからには外見からしてわかりそうなものだと想像していたけれど、目の前の白猫は瞳の色が珍しいことを除けば、どこからどう見てもただの猫だ。……魔法を使える猫にただのをつけていいものかは別として。
「っ、この……クソガキどもがあぁぁ!」
血走った目で男が喚く。
四つん這いになった姿勢から向けられる殺気に肌が粟立った。怖い。
利き腕を切り落とされた男が、獣のように唸りながら私たちの顔をぎらぎらした目付きで睨み付けてくる。恩人を売るつもりは微塵もないんですが、貴方の腕を落としたのは私たちじゃありませんよ!?
想像もつかない激痛があるんだろう、膝をついたまま動かない男の様子に新たな冷や汗を掻きつつ、背後では二人の男が尻込みをし始めているのに気がついた。
「なんだありゃあ……あの猫取っ捕まえても良い値がつきそうだ」
「馬っ鹿あんな化け物誰が捕まえるんだ!? お前か? お、俺はもう下りるぞ!」
「な、何言ってやがる! こんな薫りの魔力持ち滅多にお目にかかれねぇぞ!! 猫はともかくガキどもは動けねぇだろうが。今捕まえねぇと苦労損だ!」
「わ、わかったよ……だが俺は猫にだけは近づかねえぞ! 冗談じゃねぇ!」
今私たちの側に来るということは、白猫の側に寄るということにもなるんだけど……そこに頭はないのか。
「行って……早く、街へ!」
「!」
もつれる口を動かし、早く逃げようと声を出す。もう捕まりたくなんかない。精霊が力を貸してくれて作った、この土の檻だけが今の私たちを守ってくれる最後の砦だ。
ふらふらと立ち上がり、涙で汚れた頬をそのままにカレンが前を行く。ルーカスだってもう走れない。
それ以上に……立ち上がれなかったのはフレッドだった。
「く、くそっ、動け、動けよ!」
自分の足を叩いて叱咤するフレッド。その足は力が入らないようで……腰が抜けてしまったらしい。
カレンが懸命に彼の腕を引いたけど、下半身がついていかない。焦る彼の目は街の方角と呻く男と私たちと、それから白猫を行ったり来たりした。
馬車の音が近づいてくるような気がする。
また縛られて乗せられるのは嫌だ。冗談じゃない。行かなきゃ。どうしてこんなときに魔力がないの。魔力の回復が出来ればこんな風に追い詰められることもなかったかもしれなかったのに────!!
「何事かと思ったら……下衆の集まりか」
ぎゅっと目を瞑ったとき、冷ややかな声がした。
土の檻の向こう……私たちを追ってきた男たちの後ろに、すらりとした仕立てのいい服を着た男の人が立っていた。離れていて顔立ちはよくわからないけれど、明るい髪色をしている。
道は相当通りにくかったと思うんですが、抜けてきたんですか? と思って足元を見たらきれいに元通りになっていた。いつの間に。
……そうじゃない、そっち側には二人の誘拐犯がいる!
「なんだてめえは……」
「同業者か? あれは俺たちが先に見つけた物だ、手を出すんじゃねぇ!」
殺気だった男たちに剣を突きつけられた男の人は、薄く笑った。
「語るに落ちるとはこのことだな……今の私は機嫌がよくて胸くそが悪い。今なら見逃してやるからとっとと失せろ」
全く正反対なことを口にし、心底面倒くさそうに手を振った。当然男たちが引くわけもなく、剣を振りかぶった。
危ない! と声を出す暇もなく、男の人を中心に透明な水がぶわりと広がった。大小様々な水の刃に変じたそれが、一直線に男たちへ襲いかかる。
瞬き一つ。
その間に水を全身に被った男たちの喚き声が変化した。初めは怪訝そうな、次に痛みと恐怖の混ざった悲鳴に。
硬質な音を立てて、気温とは関係なく彼らの体を歪な氷が這っていた。
「オルトヴァ様!」
高く澄んだ声がして、小さな影が新たな男の側へ駆け寄ったのが見えた。
ふわりとしたドレスを纏った少女で、ちょうど私と同年代くらい。遠目には蜂蜜色の髪としかわからなかったけど、いつの間にか二人の後ろに馬車が止まっているのが見えた。……私たちが乗せられていた馬車とは違う、もっと大型の馬車だった。
「ユー……シーリア様。危ないから出てきては行けませんとお話しましたよね」
「そんなこと言ったって……これからどうするおつもりですか?」
「埋めますか。邪魔ですしね」
「……さっき見逃すと聞こえましたが」
「気のせいでは? それにすぐ尻尾を撒いて逃げ出さなかった時点で時間切れですよ」
親子ほどに年齢が離れているようにも見える二人の会話はどこかちぐはぐで、あっけらかんと言い切った男の言葉に、攻撃を食らった男たちの額に青筋が立った。
「────っ、ふざけやがってっ!!」
「うるさい」
耳障りだとぼやいた男の人の手が振られる。途端に二人の男たちの姿が消えた。
「は……?」
確認できただけで、三つ。空中に魔法陣がパッと浮かんで消えたかと思った瞬間に魔法が発動した。どんな集中をしているんだ。
土の檻の一部が崩れ去り、少女と男の人の後ろでずっと待っていた馬車が通れるほどのスペースが作られる。その手前──それまで男たちが立っていた場所にぽっかりと穴が空いていた。呻き声はふつりと消え、沈黙が降りた。
「こんなものか……おい、大丈夫か?……そんな薫りをさせていたら、狙われるのも無理はないな」
きれいに切り取られた視界で、男の人が近づいてくる。思ったより背が高い。
近づいてくる緑色の瞳。静かな表情でしばらく見つめられて、なんだかどこかで見たような瞳だとぼんやり考えた。
──ああ、そうだ。
いつも鏡で見る自分の瞳に似ているんだと思い当たって、ゆるゆるとルーカスに掴まっていた手から力が抜けていく。
その時、唐突に馬車で感じた違和感に手が届いた。
薫り消臭の魔道具を身につけていた私が、どうして彼らに魔力持ちだと知られたんだろうって。
一緒にいた兄様は拐われなかったのに。
変なの。
どこか遠くで名前を呼ばれながら、心の中で首を傾げた私の意識はあっという間に沈んだ。
読了ありがとうございました。
やっとお父様出てきたー。