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冒険者ギルドを後にしたアッシュはその足で商業ギルドへ向かう。
商業ギルドは冒険者ギルドからさらに南――朝市が行われる中央広場とは反対の方角にある。
時刻はまだ一〇時過ぎ。商業ギルドを寄ってから中央広場に向かえば昼の約束には十分間に合うだろう。
それからしばらく歩くと目的の商業ギルドにたどり着く。冒険者ギルドと同様に商業ギルドも三階建ての立派な佇まいの商館だ。同時期に作られたのか冒険者ギルドと商業ギルドの作りはほぼ同じのようだ。違うとすれば入り口に飾られているエンブレム。
冒険者ギルドでは勇敢さと自由の象徴であるグリュフォリスがエンブレムになっていたが、商業ギルドでは天秤を模したエンブレムが飾られている。これは商売の神であるゼニゲバースの持っている天秤が元になっている。意味は公正な取引を意味している。
アッシュが商業ギルドの重厚そうな扉を開けて中に入る。
中は冒険者ギルドと違ってどこか落ち着いた雰囲気が流れていた。商談の声などがあちこちから聞こえてきたが殺伐とした冒険者ギルドと比べると雰囲気は落ち着いている。
アッシュは冒険者ギルドと同様に入り口にある掲示板を見る。
「……」
掲示板の内容を読み終えるとアッシュは眉をしかめる。
ここの掲示板にもトーアク商会には逆らうなと書かれていた。
冒険者ギルドに引き続いて商業ギルドでも似た文言があることに不信に思う。
冒険者ならいいが商売をする者なら商会にはかなりの確率で関わることが多いはずだ。ましてやそれが都市一番の商会ならほぼ確実と言っていい。そんな商会に逆らうなとあってはまともな商売などできない。公正な取引を掲げる商業ギルドにしてはおかしな話だ。
だがさすがに獣人の店に行かないこととは書かれていなかった。
掲示板を確認したアッシュは解せないと思いつつも次の目的を果たすためにギルドカウンターへと向かう。
商業ギルドのギルドカウンターは冒険者ギルドのカウンターと違ってやや混雑していた。時刻的に朝市が終わり露店を出していた商人がその日の売上の報告にやってきていたため少し混雑していたのだ。
そんな混雑する中ポツンと空白となっているカウンターがあった。
アッシュはそれを見て幸いと思いそこに行く。
「ちょっと聞きたいことがあるんだがいいか」
アッシュが向かったカウンターの先に座っていたのは白雪のように肌が白い青髪の女性職員。女性職員の歳は一八くらいだろうか。まだ整った顔立ちの中に幼さがわずかに残っている。ただ、眠いのか女性職員は半眼でアッシュの顔を覗きこんでいた。
「……」
そして女性職員はアッシュが目の前で話しかけているのに口を開く気配がない。
聞こえてないのかと思いアッシュはもう一度呼びかけることにする。
「ちょっと聞きたいことがあるんだがいいか?」
「……」
だが相変わらず返事がない。どうしようかと思っていると女性職員はトントンとカウンターを叩く。
アッシュがカウンターに視線を送るとそこにはメモ用紙に『何の用?』というが文字書かれていた。
「筆談? 喋れないのか?」
「……」
アッシュの問いかけに首を横に振る女性職員。そしてメモ用紙に一言。
『嫌いだから』
「嫌い? 自分の声が嫌いなのか」
「……」
アッシュの言葉に女性職員は首肯する。
「そうか。それならまあいい」
このカウンターだけ空いていた理由をなんとなく察したアッシュ。
相手の機微を窺う商人にとって筆談はテンポが悪いし意志の疎通がしにくい。その上相手は表情も読み取りにくそうだからやりにくそうだ。しかも喋れないわけではなく意図して喋らないのでだから余計に性質が悪い。だから他の商人は彼女をさけているのだろう。混雑していると言ってもほんの少し待てば順番は回って来るからわざわざこんな偏屈な人物に相手をしてもらうこともないのだ。
当のアッシュは筆談でも聞きたいことが聞ければいいので特段構わなかった。
『理解感謝』
女性職員はさっさと文字で返事をする。
「へぇ。速筆なのに文字は整って綺麗なんだな」
女性職員の文字は女性らしい丸みのおびた文字ではなくきちっとした書体。それを速筆で形を崩すことなくきちっと書けていることにアッシュは感心する。
「……」
女性職員は褒められ慣れていないせいかアッシュの言葉に何て返していいのかわからず筆を彷徨わせる。だがその間も目はやはり眠そうな半眼だ。照れている様子もなく純粋に返答に窮しているだけのようだ。
アッシュもそれに気付き本題を切り出すことにした。
「ああすまない。さっそく本題なんだがこの辺りの酒の相場を教えて欲しい。」
『相場?』
「そうだ。普通に店で仕入れるとしたらいくらぐらいなのか知りたい」
『なぜ?』
「俺はこの街の人間じゃないからこの辺りの相場が知りたいんだ。それぐらいこの商業ギルドならすぐにわかるだろ」
商業ギルドでは不当な価格競争が起きないように相場価格の設定を行っている。相場よりも安ければ商業ギルドが処罰を行うこともある。逆に言えば相場より安くしないために商業ギルドに相場を確認することは特段珍しいことでもない。
『酒の品種は?』
「とりあえず火竜の火酒とエール、蜂蜜酒に葡萄酒の四つだな」
アッシュは事前にルチアから聞いていた酒場に置いてある酒で売れ筋の相場を訊ねてみる。
「……」
半眼の女性職員はほんの少し思索するとメモ用紙に相場の価格を書き記していく。
これにアッシュも驚いた。アッシュはってきり相場を記された表のようなものを持ってくると思っていたからだ。
相場と言っても常に変動しているうえに相場を扱う種類も一〇や二〇ではない何千とある。それを資料も確認せず暗記していたのだとしたら恐れ入る。
「本当にあっているのか? 相場の資料を見せてもらえるか?」
アッシュとて彼女が記した数字をそのまま鵜呑みするほどバカじゃない。彼女だって人間だ。間違いもするし勘違いだってあるかもしれない。なので念のために資料を見て確認させてもらうことにした。
『可能。しばし待つ』
メモ用紙にそう書き記すと女性職員は資料をとりに後ろにある部屋に引っ込む。それからしばらくすると彼女は戻って来るとアッシュに目の前に資料を広げる。ご丁寧に今の相場だけでなくここ最近の相場の資料も用意してくれてあった。
資料を見ると彼女が明記した金額が寸分たがわず記されていた。つまり彼女は相場を本当に暗記していたということだ。
彼女がたまたま酒の相場だけに詳しかったのだろうか。アッシュが資料を見ていると別の職員が彼女にいくつか相場を確認しにやってきたが彼女は少しだけ考える素振りを見せるとすぐにメモ用紙に相場を書き記していた。
他の物の相場も全部暗記していたのだろうかと勘繰るアッシュだったがさすがにそれはないだろうと考える。だが彼女のような変わった人物がここで職員を続けられるのはそれだけの知識量があるのだろうと推測する。
ともあれアッシュは酒の相場を確認するとやっぱりかという気持ちになる。
どれもこれもルチアに聞いていた卸値よりも相場の方が遙かに安い。最近酒の値段が上がっているとルチアは言っていたが過去の相場を見ても値段はほぼ横ばいだ。
つまりルチアは相場よりも倍近い値段で酒を買わされていたということだ。通りで昨日の売上に対して利益が低かったわけだ。
「相場より高く……倍で売ることに問題はあるか?」
『この街では問題ない』
「そうか」
相場はあくまで相場だ。相場よりも安くすることはできなくても高くすることに問題はない。もちろん高すぎれば問題もあるが倍程度ならまだ許容範囲内ということだろう。アッシュとして少し納得できないが商業ギルドが許可をしている以上そういうことなのだろう。
そいて商業ギルドが動かない以上こっちがいくら言っても聞いてはもらえないに違いない。
となると仕入れ先を変えるしかないのだが……。
「この街で酒を仕入れるとしたらどこがある?」
『トーアク商会のみ』
「トーアク商会だけか……。酒の仕入れで何かいざこざがあったということはないのか?」
『ない』
「……」
妙だなと思うアッシュ。
相場よりも倍の値段で売りつけられたら問題になりそうなのに商業ギルドにクレームが入ってこないなんてありえるだろうか。
ありえるとしたら倍の値段で売られているのはルチアの店のみということだろうか。
「……そうか。助かった」
『お構いなく』
「それと……」
トーアク商会のことについて聞こうとするアッシュだったがミシェルの言っていたことを思い返し今はまだ変に目をつけられない方がいいと考える。この街一番の商会なのだから商業ギルドに関係者がどこかにいるやもしれないから。
『何か』
「いや、なんでもない。じゃあ俺はこれで……」
聞けることはだいたい聞いたアッシュは席を立とうとするが、女性職員がトントンと机を叩く。机のメモ帳を見ると新たな文字が書かれていた。
『ギルドはダメ』
果たしてその言葉が何を意味しているのか真意を量ろうにも彼女は相変わらず眠そうな半眼でアッシュを見ているのみ。たが何か意味があるのだろうと判断するアッシュ。
「あんた名前は?」
アッシュは半眼のギルド職員に興味を持ち名前を訊ねる。
『メルクリア・ストルガー・アイゼンシュタット・ボルティーク・ヌボレーヌ・ヒポポタス』
メモ用紙一杯に名前を書きあげる女性職員にアッシュは思わず突っ込む。
「長過ぎだろ。長いからメルでいいか」
『許可』
「じゃあなメル。何かあったら頼む」
『了承』
メルはメモ用紙にそう記して眠そうな眼でアッシュを見送った。




