《オレ》とオレが過ごすひと時
《オレの体》が、再び寝室に入ってきてもまだ涙が止まらなかった。
昨日買ったスーパーの惣菜、鯖の味噌煮の匂いがした。夕食を摂っていない《涼子のオレ》のために、持ってきてくれたのだ。
ご飯とみそ汁も、マカロニサラダもあった。気の利いた、できた夫だった。そう思う。
《オレの体》がティッシュを渡してくれた。それで涙をぬぐう。
「なんで泣いてるの? どっか、痛いのか」
そう言って、背中をそうっと擦ってくれる。しゃくり上げていたから、今擦ってくれている部分がちょうどそれを落ち着かせていた。その温かい手と体の揺れが心地よかった。
「ん、もう大丈夫。ありがとう」
やっと正面から《オレ》の顔を見ることができた。《オレの体》も微笑み返してくる。いい笑顔だった。オレにもそんな顔ができるんだ、と他人事のように思った。
「かなり疲れてたみたいだ。今日、病院だったね。どうだった? 正人の話だとゲームに夢中だったみたいで、全然わからなかった。ただ、最後に看護師さんと二人で、ホテルへ行ったって言ってたけど、どういうこと?」
それを聞いて、さっきまで平和な気持ちでいたのに、チィッと舌打ちしそうになった。
正人めっ、覚えていなくてもいい事だけ、報告しやがった。さっきまで可愛いと思っていた存在に、悪態をつきそうになった。
「ああ、母乳指導の時、そんな世間話をしたかもしれない。どこの旅館がいいとか、ホテルがきれいだったとかね」
何とか誤魔化した。
しかし、《オレの体》は意外なところで意外な反応をした。
「母乳指導? あれってまだ早いんじゃ・・・・・・。もう受けたのっ」
その言葉に思わず目を丸くする。その言い方はまるで女性、そのものだ。水晶地蔵って、おかまだったのか。いや、仏像に男も女もないはずだ。でもいろんな人の身代わりになっているから、つい、そのうちの誰かの口真似が出てきていたのかもしれない、と思い直した。
《オレの体》も自分の口調に気づいた様子だ。また男言葉に変わる。
「で? 何をしたんだ。三十八週目くらいからマッサージをしろって言われただけなんだろうな」
前と口調が違っていた。正人といるときの《オレの体》は落ち着いた、かなり大人の口調だった。しかし、今、目の前にいる《オレ》は、切羽詰ったような、焦っている感じを受けた。なにがそうさせたのかわからないが。
「何もやってなかっただろうって怒られたよ。胸を見せたら乳首をグリグリされた」
「え、そんなこと・・・・・・」
絶句している様子。
「あ、うん。痛かったけど平気な顔をしてた」
どうだ、偉いだろうという意味で誇らしげに言った。しかし、《オレの体》は褒めるどころか、もう笑みも浮かべてはいなかった。
とんでもないことをされたと考えているようだ。水晶地蔵も今、オレの体の中に入っているから、夫としての感情があるのかもしれない。それで自分の妻の胸にそんなことをされたということが許せないのかもしれなかった。
「大丈夫だよ。看護師さん、女性だったし。それはほんの一瞬だったし。なんともないよ」
そう言った。するとやっと《オレの体》はその表情を緩めた。
「そうか、飯、食うか」
「うん、腹減った」
上体を起こす。《オレ》も背中を支えてくれて、夕食のお盆を膝の上に乗せてくれた。
「いただきます」
味噌汁は、ワカメと油揚げが入っていた。うまかった。
「油揚げなんて、冷蔵庫に入ってたっけ」
つい、出た言葉だ。まるで主婦のような。
「冷凍庫に入ってる。安売りの時にたくさん買っておいて、切って冷凍しておくといつでもすぐに使えるんだ」
ふう~ん、と感心する。
水晶地蔵がそんなことまで知っているって、世間じゃかなり常識なんだろう。料理のこと何もしらないオレにとって、それが一般常識なのだと思っていた。
スーパーの鯖の味噌煮は少し味が濃かった。オレの大好物だが、それはいつも涼子が料理しているあの、味噌煮なのだと感じた。いつもゲーム誌なんかを読みながら食事をしていた。出されたものを何も考えずにただ、口に運んでいたにすぎなかったが、涼子の料理がオレに味覚に浸透していたんだ、と感じていた。
妊婦は大きな腹が邪魔をして、一度にたくさんは食べられない。
半分くらい残していた。
「鯖の身をほぐして、ゴマを振り、海苔でおにぎりにしておくよ。そうすれば、いつでも腹減ったら食べられるだろう」
「うん」
そのおにぎり、うまそうだ。食えたら、今、食いたい。
まだ疲労感が残っていた。
腹が張っているからだろう。体全体が痛い気する。腰もズンと重かった。バスでの外出はきつかったかもしれない。結構揺れていたし。
「寝れば治るよ」
そう言った。
「なあ・・・・・・」
《オレの体》が、《涼子のオレ》を見つめながら言った。
「今夜はここで、一緒に寝ないか」
そんなセリフにまた、ドキリとした。
なんだ、この感情は。どうしていちいち反応をするんだ。オレ達はもうずっと夫婦だった。子供まで作ってるんだ。たかがキスくらいで反応し、今は一緒に寝る、という言葉にドギマギしている。オレは今、小学生程度の初恋を再体験しているようだ。
それか、涼子の女の部分が、その台詞を聞いて感情を高め、反応しているのかと考えた。
どっちにしても、オレはうなづいていた。
一緒にいてくれる、と考えただけで嬉しくなっていた。忘れていた、そんな感情を。
涼子とつきあいはじめた頃や、結婚した当初は幸せいっぱいだった。毎日が輝いていた。しかし、その輝きにも慣れてしまうとあたりまえになり、色あせて見えた。
共働きでかなり収入もあったから、ゲームにハマった。そのうちに正人が生まれ、いつのまにか涼子はオレの妻ではなく、正人の母になっていた。
嫉妬していたのかもしれない。涼子を子供に取られたと思ったのかもしれなかった。なんとなく、そのころから人と係わることが億劫になっていた。会社でも同僚としか口を利かない。気を使うことが嫌だった。
それが段々エスカレートし、家でも涼子がいろいろ言ってくることがうっとおしかった。何か言うと向こうが顔をしかめる。オレは嫌われている、と感じていた。そして家の中で、涼子は別居を選択した。家庭内別居となる。
世間ではオレ達は普通の家族とみられている。外ではそういう普通の夫という仮面をかぶり、家では自分のことしか考えず、子供の面倒もみない別の顔を持つ男。そしてそれを全部、涼子のせいにしていたのかもしれないと気づいた。
あいつがオレのことを見てくれていないから、あいつが正人ばかり心配している。家へ帰ると二言目には正人のことばかりだった。情けないことに、オレは涼子の関心を最大限に集めている正人に嫉妬していた大人の体を持つ子供だったんだ。
《涼子のオレ》は風呂に入り、寝る支度をした。そして奥の部屋で一人寝ている正人の寝顔を覗いていた。《オレの体》も後ろに立ち、一緒に眺める。
「よく寝てる」
「うん、大丈夫。夜中にまた様子を見に来るから心配ない。ところで・・・・・・」
《オレの体》が風呂場の横にある洗濯場の乾燥機に視線を移した。
「なんだ、あれ」
その声はちょっと冷たい響きがあると感じた。気のせいかもしれないが。
「あ、乾燥機? 二人目も生まれるし、第一、時間がもったいないだろう。縮みそうなものや正人のものだけ外に干せばいい。あれなら洗濯したものを移してスイッチを入れれば、いいんだ。雨の日は重宝するぞ」
ちょっと得意げに言った。
「で、今日、買ったんだな。晴れていただろう」
「うん、そうだけど洗濯物の量が半端じゃなかったんだ。とても干しきれなかった。臭ってたしな」
オレを見る、その目は少し軽蔑した感じにも見えた。
「洗濯なんか、機械がやってくれるんじゃなかったのか。主婦なんて一日暇があるから、時間なんて有り余ってるんじゃなかったかな」
ギクリとした。なんで水晶地蔵がオレの言ったセリフを知っているんだ。まあ、今はオレ自身だから、そういう記憶があるとしても、今のは完全にオレに対する皮肉だろう。
確かにもし涼子が乾燥機を買いたいと言ってきたら、主婦業がこんなに大変だと知らなかったオレなら、絶対に買うことを許さなかったと思う。
しかし、《オレの体》はふっと笑う。
「まあいいや、これからは活躍してくれるだろうから」
と、《涼子のオレ》の腰に手をまわしていた。
オレの胸がどきどきしていた。触れられることがこんなに心を揺さぶるとは知らなかった。妊婦というものは、これから出産を控えているからいろいろと不安になることも多いと思う。だから、《涼子のオレ》はそんなに反応するのかと感じていた。
水晶地蔵のオレは実に頼りになる最良の夫だ。明日の夜、オレがもとに戻っても、このようなオレのままでいたかった。そう振る舞うように努力してみようと思っていた。
ベッドに横たわると、《オレの体》がその後ろから体を密着させ、抱きしめるようにしてベッドに入ってきた。その手は時々大きなお腹を撫ぜ、支えるようにする。夫に抱きしめられている安心感があった。
人を大事に思う心。
そうだ。思いやりを持つことが大事なのだ。見返りを求めない愛、慈愛。オレにはそれが欠けていた。そのことにやっと気づいたところだった。
今度は生まれ変わった気持ちで、涼子と正人を大事にしたい。これから生まれてくるこの子のためにも努力しようと決意した。
女性は、これから起こることを想像して、心をときめかせると言いますよね。あの人と二人きりで話ができたらいい、とか、デートの後は・・・・などを想像して官能的な感情を高めるそうです。その場の雰囲気にも左右されるのが女性。
ここが視的官能を求める男性との違いだと思い、ちょっと表現してみました。