《オレの体》 帰宅
少しは家の中もきれいになっていた。それでも台所は手つかずのままだ。
しかし、疲れていた。腰も痛いし、腹も張っていた。無理したからかもしれない。腹の中の子供が動くとものすごく痛かった。
テレビを見ている正人に、少し寝ると言ってオレのベッドに横になった。少しだけ体を休めたら、また起きられると思う。
夕方には起きていないと、今日、《オレの体》が帰ってくる。一応、出迎えないとまずいだろうと思っていた。
何しろ、オレの代りに行ってくれたのだ。この涼子の微笑みで、出迎えたかった。涼子の笑顔が好きだった。水晶地蔵のオレもきっと嬉しいに違いなかった。
臨月の妊婦には、ベッドはらくだ。ちょっと腰かけるだけでそのまま横になれる。床に敷く布団なら、まず座ることが大変だった。起き上がるときも苦労していた。それになにしろトイレが近い。大きくなった子宮が膀胱を圧迫して、すぐにトイレに行きたくなるのだ。
明日、オレが元の体に戻ったら、このベッドを涼子と正人に明け渡そうと思っていた。その方が涼子にとっても楽だろう。パソコンはリビングに持ってくればいいのだから。オレが奥の和室に寝ても全く不自由はない。
オレはベッドに入り、張っている腹を撫でていた。
涼子が勝手に産む、とオレは言った。この子供にも愛情が芽生えていた。涼子の体だからなのかもしれないが、ポンポンと蹴ってくることにもその元気さに愛おしいと感じていた。
目を閉じると、たちまちのうちに睡魔に襲われていた。ほんの少し、寝るだけ・・・・・・。
****
オレが目覚めた時は部屋が真っ暗だった。すぐに自分がどこで寝ていたのか、いったいどのくらい時間がたっていたのかわからなかった。
頭の方向を変えて、枕もとの時計を見ることさえ億劫だった。第一そんなことをしたら、腹がまた攣る。
まだ疲れていた。動けない。動きたくなかった。しかし、この暗さは日が暮れてかなりたっている様子だ。
耳を澄ませてみる。
正人はどうしてるだろう。ママがいないって泣いてはいないだろうか。
わずかなテレビの音が聞こえてきた。それと正人の笑い声も混じる。少しほっとした。
すると誰かが廊下を歩く音がした。正人ではない。三歳児なら、スリッパを履いてもせわしなくバタバタと音を立てる。それは落ち着いた足取りで、大人のものだ。歩幅も長い。
そんなことを考えているうちに、その足音はこの寝室の前で止まった。そしてドアがそっと開く。
廊下の方から漏れている明かりでその顔は陰になり、見えない。しかし、そのシルエットは、そう、オレの体だった。
帰っていたのだ。そうするともう七時すぎていることになる。でも正人がまだ起きているのなら八時前なのか。
《オレの体》が部屋に入ってくる。慌てて目を閉じていた。何故、自分が寝たふりをしたのかわからない。なんとなく気恥ずかしかったのかもしれない。
《オレの体》は、そっと《涼子のオレ》の顔を覗き込んでいた。寝ているのか確認しているのだろう。
「涼子」
起きているか、呼び掛けたようだ。しかし、返事はしなかった。そのまま目を閉じていた。そうすればまた、寝室から出ていくと思ったからだ。
しかし、《オレの体》はすぐにそこから動かなかった。暗がりでじっと見ているようだ。
何をしているのだろう。目を閉じていてもすぐそこにいることは感じられていた。
ベッドのふちが少し下がった。《オレの体》がそこに座ったのだろう。思わぬ行動に戸惑っていた。
そして、《涼子のオレ》の髪をそうっと撫でていた。
それは、触るか触らないかのソフトタッチだったが、優しさが感じられていた。その手は再び髪を撫で、そのまま頬に移っていく。
なんだかドキドキしていた。なんだ、この感覚は。なぜ、こんな何気ない動作に胸がときめくのだろう。
そう、まるで、初恋の人が近くに来た時の感覚。好きな人と目が合ってにっこりされた時の昂揚感。そして好きな人と見つめ合うそのひと時。
そんなことを思い出していた。
少し間があった。
なぜ、ベッドのふちに座り、《涼子のオレ》を見つめているのか。
《オレの体》なのに何をしようとしているのか全くわからなかった。ちょっとだけ目を開けた。
もうその時は、《オレの体》のシルエットがすぐ目の前に迫っていた。
え?
驚いた。
目をパッチリ開けていた。鼻と鼻がくっつきあいそうな距離で目が合う。《オレの体》は少し微笑んでいた。そして、くちびるが重なり合った。
強引に押し付けるようなものではなく、触れるかどうかのタッチで、そして徐々に涼子のくちびるを割っていく。しっとりとしたキスに変わっていた。
どうしていいかわからなかった。オレが、《オレの体》とキスをしていた。いや、《涼子のオレ》なのだが、自分の体とキスをすることに驚きを隠せなかった。大体、水晶地蔵はオレ達が家庭内別居していることを知っているのか。
オレの戸惑いが伝わったのか、すぐに体を放してくれた。
「もう少し寝る?」
《オレの体》が言う。
なんだか照れくさくて目をそらした。
「うん、まだちょっとつらい。今日、かなり疲れた」
《オレの体》は、また髪の毛に触れていた。
どうしよう。心がざわめいている。何なのだ、この感覚は。
「ご飯は食べた?」
そう尋ねられ、首を振った。
腹は空いている。しかし、鯖の味噌煮の惣菜があるだけで、ご飯も炊いていなかった。
「正人は? つい寝ちまったから、ご飯を食べさせていない」
つい、照れ隠しのようにぶっきらぼうに答えていた。
《オレの体》は、何だそんなことか、というように、くすっと笑った。
「大丈夫。もう正人には食べさせた。風呂にも入ったし、後はもう寝るだけ。ママが起きたらお休みを言いたいって言ってね。今テレビを見てる。もう九時過ぎだ。呼んでいい?」
九時、かなり寝ていたのだ。それにしても正人がオレに・・・・。いや、正確には《涼子のオレ》におやすみを言いたいから待っていてくれたなんて、泣かせる。
「正人、ママにおやすみを言いなさい」
《オレの体》がそう声をかけると、正人がすぐに走って入ってきた。
「電気、つけるぞ」
明かりがついて、部屋が明るくなった。オレはその眩しさに思わず目を閉じたが、目の前に現れた正人の笑顔に、つられて笑った。
ママ、と抱き付いてきた。
かわいかった。顔がかわいいとかそんな理由ではない。正人の存在がかわいいと思った。思わずそのまま正人を抱きしめていた。
「正人、ごめんな。ママ、寝ちゃってて。寂しかったか? 腹減ってただろう」
そういうと正人は、じっと見つめてくる。
「うん、でもママがよく寝てたから、静かにしてたんだよ。一人で泣きたくなったけど、ママの寝てる顔、見てたの。そうしたらパパが帰ってきてくれた。ご飯も食べて、お風呂に一緒に入って、本も読んでくれた」
それを聞いて、オレはちらりと《オレの体》を見た。彼は少し照れた顔で目をそらしていた。
正人と一緒に風呂に入り、本を読むなんてこと、今までオレはやったことがなかった。
「よかったな、正人。いいパパで」
皮肉でもなく、思わずそう出た言葉だった。
正人はうん、とはじける様に返事をしていた。
そして、《オレの体》を見た。やはり複雑そうな顔で見ていた。
視界がぼやけてきた。《涼子のオレ》が目を潤ませているらしかった。なんだって女は涙腺が緩いんだ。何かあるごとに目をウルウルさせている。
「おやすみ、正人」
というと、正人もお休み、と答え、バタバタ足音を立てて出ていった。《俺の体》も正人を追いかけて出ていく。ドアも閉めてくれた。
《オレの体》はわかっていた。《涼子のオレ》が涙ぐんでいたことを。しかもオレがそれを悟られたくなかったことも。だから何も言わず出ていってくれた。
あの水晶地蔵が、ずっとこのままオレの中にいて、涼子が元の体に戻ればみんなが幸せになれるんじゃないのか・・・・・・。そうすれば、正人もいいパパが一緒で毎日が楽しそうだ。この井上家は本当の幸せな家庭になれる。
そうしたら、オレの居場所はない。もし、水晶地蔵にオレの体を譲ったとしたら、オレの魂はどうなるのだろうか。そんなことができるのかもわからないが、涼子と正人、そしてこれから生まれてくる子にもあっちのオレの方がいいって思うのに決まっている。
わかっていたはずだ。オレはいい夫じゃなかった。いい父親にもなれなかった。でも、この涙は、こんなオレでもこの家族の一員としてその仲間に入りたい、そういう事なんだろうと思った。
オレには水晶地蔵のように理想の男にはなれないけど、ここの家族として存在していたかった。
涙はどんどん溢れてきて、嗚咽の声がもれた。堪え切れなかった。一人にしてもらえたことがありがたかった。
最初はこんなはずではなかったのに、段々とシリアスになっていきます。