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身代わり地蔵  作者: 五十嵐。
第一章
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妊婦の恐るべきミッション

ちょっと刺激が強いかもしれません。

「今日、病院の日だよ」

 そう正人が告げた。


 病院? なんだそりゃ。

 カレンダーを見る。赤く丸がついていた。確かに今日の十時半、三十六週目の検診と書いてある。

 しかし、オレは外に出たくなかった。


「具合が悪いってことで、パスできないか」

 病院の予約なのに、具合が悪いので行かれません、というセリフもおかしいと思い直す。

「行かなきゃだめか」

 正人に問う。

「あたりまえだよ。ママ、いつも赤ちゃんが早く生まれちゃうこと、気にしてたよね」


 おいおい、聞き捨てならないことを言う。早産の可能性があるというのか。


「僕も早かったからっていつもママ、ダイジョブかなって」

「え・・・・大丈夫だよな」

 オレの不安そうな表情から、正人は満足げな笑みを浮かべる。

「だからお医者さんに行くんでしょ」


 バスに乗って行くのか。こんな腹で。それを考えただけで気が遠くなりそうだった。いつも受診しているのは結構遠い大学病院の産科だった。もう出かけないと間に合わなくなる。

 正人の手を引いて、バスに乗り、やっと病院へ着いた時にはまたへとへとだった。帰りはタクシーに乗る、誰が何と言おうとタクシーで帰る。


 産科は混んでいた。時間を指定されていてもそれは大体の目安でしかないから待たされる。

 ソファにもたれかけ、だらしなく座っていた。皆がじろじろ見ている。

 なんだってんだ。妊婦がガニ股で座ってもいいだろうが。


 正人には小型のゲーム機を持たせてあるから、それに夢中になっていた。珍しくおとなしくしていた。こいつは病院の検診の時だけゲームをやらせてもらえるから、その検診を楽しみにしていたのだと気づいた。だからよく覚えているのだ。

 三十六週目の妊婦健診がどんなことをするのか、この時のオレはまだ何も知らないでいた。



****


「井上涼子さん、診察室へお入りください」

と受付の看護師に呼ばれる。

 はっとした。


 診察室、謎めいた言葉だ。オレ達の世界ではやはり18禁をイメージするだろう。

 大体、妊婦検診なんてどんな診察をするのか。尿を調べ、腹囲を測り、胎児の心臓の音を聞く、そんなもんだろうと高をくくっていた。


 中へ入ると、すぐに奥のカーテンがかかっている寝台の方へ誘導された。

 なんだ、なんだ、このミステリアスな世界は。そのカーテンの奥で何をしようっていうんだ。

 外から看護師の声がした。

「下着を取って、台に寝てお待ちください」


「し・・・・」

 下着って言われた気がした。よく見ると、そこには脱衣用の籠まで用意してあった。

「あ、あのう・・・・。下着って言いました?」

 そうじゃないって言ってほしかった。


「言いましたよ。早く用意してくださいね。先生も忙しいんですからっ」

 さっきほどのようにやさしい声ではなかった。明らかに、何言ってんの的な口調になっていた。


 オレはまだ、躊躇していた。自分の体じゃないにしても下着を取って、台に寝ることに抵抗があった。

 看護師がさっとこっちを覗いてみていた。目が合う。怖かった。

「早くっ」

 

 そう怒鳴られて、やっとオレは下着を取り、台に上がった。看護師が腹部のあたりに別のカーテンを引き、下半身から向こうの視界が遮られる。

 誰かが向こう側に現れる気配がした。無防備な姿だった。それでもオレは脚を閉じ、隠そうとしていた。

「子宮口の触診です」

という声がかけられ、看護師の手は涼子の脚を遠慮なく、大きく左右に開いた。


 胸の上で組んだ手に力が入る。目は上を見ている。天井を見つめているようで見てはいない。心、ここにあらず、の状態だった。この先、何が起こるのかが恐ろしかった。


 医者は、遠慮なく涼子の一番大事な部分に・・・・・・。

 

 悪いが、それ以上は語ることはできない。その異質な、今までに経験したことのない(あたりまえだ)感覚に、声を上げなかっただけでも褒めてもらいたいと思った。ショックを受けていた。そこはオレしか知らない神聖な場所だと思っていたから。


 着替えて医者の前に座る。先生はカルテを見ながら、順調ですよ、と言った。

「まあ、いつ生まれてもいい週に入ったので、まあいいでしょう。たぶん、大丈夫だと思うんだけどねぇ、お腹が痛くなったらきてください」

 意味ありげな言葉、いつ生まれてもいい? たぶん大丈夫? なんだそれは。腹が痛くなったら来いだと?


 しかし、すべてが終わった、これで帰れると安心していた。

「あ、井上さん。母乳指導を受けられますか?」

 看護師が《涼子のオレ》を呼び止めた。


「母乳指導? それって受けた方がいいんですよね」

 もう帰りたかったが、後でそれを受けなかったから大変なことになっても困る、と思っていた。もう触診を経験していた。なんでも来い的な投げやりな気持ちもあった。

「じゃ、受けます」と言っていた。


 すぐさま、別の部屋に通された。

 そこへ颯爽と入ってきたのは険しい顔の看護師だった。いきなり顔を見て、睨まれていた。そして涼子のカルテをじっと見つめて、座った。

 大きな目に、鼻筋の通ったきれいな顔をしている。派手な顔に似合わず、長い髪を無造作に束ねていた。オレはこの人を知っていた。


「どうも、寺島です。お久しぶり」

「はあ」

 涼子とも知り合いなのか。そうだとしたら、いやにつんけんしている。


 やはり、寺島という名前に聞き覚えがあった。中学の同級生だった。

 涼子と結婚する前に一度、道でばったり会い、お茶を飲んで近況報告をした覚えがあった。彼女は看護師をしていると言っていた。もう彼女も三十だ。ベテランの域に入っているだろう。名前がそのままなので、まだ独身でいることが推測できた。


「胸を見せてください」

と彼女は言った。

 ぎょっとしていた。さっきの触診の時のリアクションと同じだ。

「今、なんて? 」

 私にもう一度言わせる気?、と言わんばかりの怖い目が睨んでいた。


「母乳指導なんですから」

 あたりまえだということらしい。

 あの時、一緒にお茶を飲んだ時はあんなにかわいらしかったのに、何だろう、このギャップは。女性というものは、相手によってこんなに表情も態度も変えるのか。それとも時間がそうさせるのか。


 しかたなく、胸を肌蹴はだけた。今度は女性相手だから、それほど抵抗はなかった。

 それでも情けなくなった。さっきは下半身、今度は上半身を他人にさらけ出していた。女性としての部分を大ぴらに、さらけオンパレードだった。これが母になるということなのか。

 母は強し、という言葉、出産だけではなく、その準備段階でも強くならなければ務まらないようだ。


 寺島が、あらわになった胸を見ていた。またまた憎しげな視線。

 一体なんでこんなに不機嫌そうにしているのか、理由が聞きたい。

「これ、全くマッサージ、していないでしょ」

 そんなことを言われても、本当の持ち主がここにいないのだから、何と返事をしていいかわからずにいた。

「はあ」

 帰ったら言っときます、程度に返事をしていた。それも彼女の気に障ったらしかった。

 寺島は、イライラしたようにこっちを見る。

「こんな胸で・・・・・・しかも経産婦なのにこんな胸でいるなんて」

 そう吐き捨てるように言った。そしてその手が伸びていた。


 え?


 寺島の細い指が、涼子の乳頭をつまみ、グリグリとねじったのだ。

 男なら、そんなシーンを思い浮かべれば、女性はよがる、と考えるかもしれない。しかし、実際はそうではなかった。痛いなんてもんじゃない。

 ホルモンの影響もあって、涼子の胸はオレの記憶にある普通の状態よりもずっと大きくなっていた。パンパンに張っているのだ。

 そんな状態のところをつままれ、グリグリやられていた。痛くないはずがない。


「全くマッサージしていなかったのね。あなた、前もそうだった。安定期になったら少しでもやらないとお乳が出ないってわかってるはずなのに。それにこれじゃ扁平すぎて赤ちゃんがお乳を吸えないじゃない」

 わけもわからず、オレは叱られていた。

 彼女はカルテに何かを書いていた。そしてすっくと立ち、言った。


「私、井上くんとつきあっていて、その上、ホテルにも行ったのよ。そういう関係なの。あなたはまだ、二人目を産もうって言うのねっ。井上くんに捨てられるといいわっ」

 寺島はそう言って出ていった。わけがわからなかった。

 その部屋の片隅でおとなしくゲームをしていた正人が、ホテルって何?、と聞いてきた。オレがその言葉を無視したのは言うまでもない。


 寺島明日香とは中学の時、皆と一緒に映画に行ったり、遊びに行っただけだった。しかも、ホテルとは、あながちウソではないが、そこに含む意味はない。

 彼女とは、涼子と結婚する前にばったりと道で会った。それでシティホテルのラウンジで、お茶を飲んだだけだった。


 久しぶりに会ったからお互いの近況を話した。オレもその頃、結婚が決まり、ウキウキしていた時期だったから、いつもより饒舌になり、いろいろ話した覚えがある。あれからもう五年くらいたっているだろう。

 それを何故寺島が、涼子にそんなことを言うのだろう。疑問もあったが、同時に女は怖い、とも思った。

 言い方次第で、向こうが勝手に誤解してくれるように仕向けることができるとわかった。たぶん、寺島は涼子が嫉妬をし、オレと喧嘩をすることを考慮して言ったと確信していた。


 これを本物の涼子が聞いていなくてよかったと思った。ただでさえ、家庭内別居されている身なのに、こんなことで誤解されたら本当に別居される。


 帰りはタクシーで帰った。車の中で、正人は例の如く、エネルギーを補給していた。つまり、すやすやと寝ていた。

 でも、もたれかかってくる幼子の体温、あどけない寝顔。この天使のようなひと時があるから、泣かれてもわめかれても、言うことを聞かなくても、生意気な口をきいても、全てが帳消しにできるんだ。オレはそう母親らしいことを考えていた。


 マンションの自宅へ帰った。

 入るなり、部屋にこもった異臭に気づいた。いろいろな独特の臭い達が自己主張していた。それらが混ざり合い、不快なにおいとなっていた。

「なんだ、くさい」

 すぐさま窓を開ける。臭いの元を目で探していた。

「だって、ママ、お洗濯してくれないんだもん」


 そうか、洗濯物から発生しているのだ。昨日から正人の洋服が山盛りになっていた。とどめは今朝のおねしょをしたシーツだ。台所の流しにも洗っていない皿が置きっぱなしになっているし、生ごみもそのままだから、そこからも悪臭を漂わせているんだろう。


 家に帰っても一息つく暇などなかった。生ごみを袋に入れた。そして、今度は洗濯だった。

 シーツやらタオルやら、詰め込めるだけ入れていった。洗剤を入れて蓋をすれば、そうだ。洗濯機がすべてやってくれる。だよな?


 それを見ていた正人がまた、生意気な口を開いた。

「たくさん入れると回らないんだって」

 ギロリと睨みつける。


 なんでそんなことを三歳児のお前が知っているのだ。このオレでさえ、洗濯なんてやったことがないというのに。

 正人はニヤニヤしている。

「留美ちゃんのお母さんが言ってた。お父さんと喧嘩した次の日はね、お父さんのお洋服と雑巾、一緒に洗うんだって。その時、トイレマットまで入れたら回らなくなったって笑ってたもん」


 その時のオレには、主婦たちがそう言いながら笑い合う姿が目に浮かぶようだった。できれば聞きたくなかったと思う。オレだってそうされていたのかもしれない。そうされても仕方がないかもしれない。何も涼子に協力しようとしなかった。オレにとって涼子はなんだったのだろう。オレの給料で食わせている家政婦、子守役だったのかもしれない。


 悔しいが、確かに正人の言う通りだった。詰め込み過ぎた洗濯機は音だけは立てているが、洗濯物はまわっていなかった。これでは洗ったとはいえない。しかし、山のようにある洗濯物だ。こんな容量を守っていたら一日あっても終わらない。床が水浸しになるのも構わず、洗濯機の中の洗濯物を半分くらい取り出し、再びスタートさせた。


 なんとか一回目の洗濯を終えた。

 洗濯物を干すために、ベランダに立った。シーツを干し、正人の細々(こまごま)したものを干したらもうスペースがなくなっていた。まだまだ洗うものはあるというのに。

「う~ん」


 洗濯というものは奥が深いことに気づいた。

 主婦はその日に何をどう干すか、自分の家の物干し場にどれだけの物が干せるのか計算し、そのうえ、天気も読み、乾きやすいモノ、時間がかかりそうなものを判断してやっているのだと思った。

 これがゲームだったら、オレの負けだった。このベランダには全部上手に干しきれなかったからだ。日照時間と陽の角度まで考えて、影にならないように、小さいもの、厚手のもの、またはどれを優先するかなども考えないといけないのだ。


 正人はまだ、散らかしっぱなしのおもちゃの中で遊んでいるが、時々こっちを見ていた。オレがどんなふうに頭を使ってこの困難を乗り切るのか見物をしているかのようだ。


 よし、閃いた。それならオレは主婦の、洗濯の常識を覆すような奥の手を使うことにする。

 オレはすぐさま近所の電気屋に電話した。猫なで声を出す。こういう時に女の武器を使うべきだと思った。

 皆が大手の電気屋へ行く。こうした町内の小さな電気屋は修理などの細々とした商売で何とかやっていると判断していた。他の店と同じ値段に負けさせ、即座に取り付けさせていた。


 いつもオレには仏頂面の電気屋の親父は、デレッとした顔で配達し、すぐに取り付けてくれた。親父は風呂場の電球の取り換えやクーラーのフィルターの掃除までしてくれたから、オレは気を良くし、チップを含めてカードで支払った。


 オレが買ったのは、洗濯乾燥機だった。タオルは乾燥機にかけるとふわふわに仕上がる。子供のシャツやパンツは、陽に晒し、日光消毒をする方がいいとも判断。うまく両方のいいところを利用する頭脳的洗濯を選んだのだ。

 これは経済力のある大人、つまりオレだからできる。

 

 さて次は、リビングに散らかったままのおもちゃだった。これをどう片づけるか。中にはがらくたもあり、壊れたままのものもある。

 いっそのこと、一度リセットしてから、買い直そうかと考えた。


 リセットとは、もちろん全部捨ててしまうこと。どうせあんなに散らかしておいても構わないんだったら、なくてもいいはずだ。

 オレは万能モップでおもちゃを部屋の片隅に寄せた。そしてゴミ袋を取りだし、正人に告げた。

「いいか、今からこのガラクタを捨てる。もし、必要な物があれば、さっさと元の箱に戻すように。いらないのなら全部、ごみとして出すからなっ」


 正人が怯えたような表情で見ていた。そのことの意味がわかり、泣きべそをかいていた。

「いやだ、だめ。捨てちゃダメ」

 泣きじゃくりながら、おもちゃを両手にかかえ、箱に入れ始めた。壊れた電車のおもちゃも、片目がない像のぬいぐるみも箱に入れていく。その一つ一つを見て、思い出していた。


 ああ、あれは旅行へ行ったとき、買ってやったものだ、とか友人からもらったもの、おふくろが誕生日のお祝いとして買ってくれたとか、それぞれに思い入れがあることに気づいた。

 正人が、鼻水も涙も一緒になって泣いている。オレは床に座って、手伝うことにした。

 一つ一つ、必要かどうかを聞いていった。


 なんか、かわいそうになっていた。

 壊れていても、正人の気に入ったものは大切なのだ。こんなに物が豊富にある時代に、壊れたものなんか必要ないだろうと思うのは大人の浅はかな考えなんだ。

 結局、ほとんどのおもちゃが箱に収まった。

「きれいになったな」

というと、正人は満面の笑みを見せていた。


 オレはなんて大人げないんだろう。こんな三歳児にムキになり、泣かせていた。

 これで大人と言えるのか、それも疑問だった。年だけは取り、仕事もしている。しかし、いやなことがあればそこから逃げている。立ち向かおうという向上心もない。

 仕事から帰れば寝室にこもり、自分のやりたいことしかやらない。何か言われればムキになって怒る。後で後悔するくらいの暴言も吐いた。

 オレは三歳の頃から成長していないのかもしれなかった。

 


洗濯ですが、知人の家では四人の男の子がいて、毎日三回以上洗濯機をまわさないと間に合わなかったそうです。


扁平乳首とは、乳首が短くて赤ちゃんが吸いにくいことです。保護器などを使います。

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