表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
身代わり地蔵  作者: 五十嵐。
第一章
5/45

子供という、したたかな生き物の扱い方

 何もしていなかったのに、夕方になると猛烈に腹が減った。何か食べたくてももう冷蔵庫にはなにもなかった。

 オレ用の夜食のカップラーメンが、パソコンデスクの下に隠してある。しかし、カップラーメンなんて食べたら、またリトル涼子(正人のこと)がうるさいだろう。


 確か、妊婦はインスタント食品は食べない方がいいとも聞いたことがある。インスタントはリンが多いのだそうだ。リンが多いとカルシウムが減るということらしい。カルシウムは骨や丈夫な歯を作るから、涼子も気を付けていた。

 仕方がない。買い物に行かないと、夕飯にありつけなかった。


 しかし、異様な雰囲気に気づく。物音がしないのだ。

 さっきまでリビングで物を投げながら遊んでいた正人が、トイレに行ったことはわかっていた。どこにいても正人の醸し出すノイズ、それが聞こえなくなっていた。

 それは決して平和な静寂でないことが、オレにも段々わかってきていた。

 また、テーブルに手をついて、どっこいしょとつぶやいて立ち上がった。


 洗面所へ行く。その先にあるトイレの戸が閉まっていた。まだトイレに入っているのか。いや、鼻歌が聞こえる。座っている? なんだ、なにをしているんだ。

 ドキドキしながらそっとトイレの戸を開けた。

「げっ」

と声を出してしまった。正人が振り返った。全く悪びれてはいない表情。ものすごく無邪気な笑顔をむけてきた。


 なんと正人は、便器の中におもちゃを浮かべて遊んでいたのだ。しかもトイレの床は水浸し。当然、正人もびしょびしょだった。


「お前はぁっ」

 さすがのオレも叱った。

 さっきまでおもちゃを放り投げて壊しても、観葉植物の鉢植えを倒してその土で遊んでいても黙っていた。

 しかし、時には親として、きちんと叱らなければならないと感じていた。黙っていれば子供は親を舐めるということがわかった。叱られないとわかると、このように悪戯がエスカレートするのだ。

 

 正人はまるでほんの出来心でしたと言わんばかりに、ごめんなさい、と泣きべそをかきながら謝った。

 また正人を着替えさせなければならない。こいつは一日に何回着替えればいいのだ。


 トイレの床もびしょびしょだから、そこらへんにあるタオルを床に放り投げ、足でふきふきしてみた。この体では座って床を拭くことはできなかった。それならば這いつくばってやるしかない。そこから立ち上がることも、ものすごいエネルギーを必要とすることが想像できた。

 泣きじゃくる正人を無理やり着替えさせた。




 オレ達はやっと支度が出来て、スーパーへ出かけた。いつもなら徒歩五分ほどのところにある店だ。しかしその道のりに二十分かかった。

 なにしろ妊婦の体は重い。十キロものおもりを腹に付けているようなものだ。

 それに・・・・・・元凶は正人だった。

 たまにド突きたくなるような生意気な口を利くくせに、行動は三歳児そのものだった。


 正人はマンションを出ると、すぐに走りだしていた。その目的物はなんでもよかった。近所の家の鉢植え、路上駐車してある車、散歩中の犬、何かがあると走って直行する。その様子はまるで、昔遊んだチョロキューというおもちゃの車を連想させた。


 オレは、正人が車道に飛び出すのではないかとハラハラしていた。

「正人、正人」

と、注意しても無視される。

 正人も叱られ慣れているらしく、多少のことでは動じなかった。振り返りもしない。

 自分の体さえままならないのに、なんでこんな野生児を連れて歩かなければならないのか、泣きたくなった。

 《涼子のオレ》はふうふう肩で息をしながら、正人を見失わないように小走りになっていた。


「くっそーっ正人の奴。勝手に走り回りやがってっ。捕まえたらただじゃおかねぇ」

とぶつぶつ言っていたら、すれ違ったおばあさんが驚いて振り返っていた。


 正人の行動がふと止まった。あいつが車の行きかう道路の反対側に視線を向けていた。その向こうでは顔見知りの男の子が手を振っている。

 やめろっ、そのシチュエーションはまずい。

 飛び出しそうだった。ヒヤリとし、思わず叫んでいた。


「まさとっ、動くなっ」

 喉の奥で押し殺した、ドスの利いた声を出していた。高い声だと空中で散ってしまい、子供の耳には届かないからだ。

 正人も、そして反対側にいる子供とその母親も凍り付いたように涼子のオレを見ていた。

 やばい。涼子の知り合いだったらしい。

 取り繕うように、にっこり笑って見せた。

 オレは正人の手をしっかりつかみ、その場を足早に去った。

 

 こういう奴は手を繋いでおくのに限る。本当なら首輪でもしたいところだ。以前、外国で子供の体に取りつける迷子防止の綱を見たことがある。犬でも連れているかのように見えた。今のオレにはそれが欲しかった。


 しかし、手を繋いでも普通に歩くのではないのが三歳児だとすぐにわかった。今度は繋いだ手をぶんぶんと振り回したり、《涼子のオレ》の手に体重をかけてぶら下がろうとしたり、鬱陶しいことこの上なかった。


 男の子の凄まじいエネルギーに舌を巻いていた。その反面、男の子なんてこんなものなんだろうとも思う。


 以前、涼子が正人と一緒に遊んでやってほしいと言ってきた。公園に連れていけ、とオレは言ったが、涼子はそういう事ではない、と言っていた。その訳がやっとわかった。

 公園で遊ばせるだけではなく、手を繋いで引っ張ったり、押したり、ふざけ合う、追いかけっこをするという触れあいのことを言っていたのだとわかった。涼子は身重だからそれが思うようにできない。それでオレに頼みこんだのだろう。しかし、その時のオレはゲームをしながら簡単に突っぱねた。


 正人は実に楽しそうに手を繋いでいた。市販のおもちゃで遊ぶ時よりも愉快そうにしている。涼子の細い指を数えたり、引っ張ったり。こんな他愛のない事でも子供は楽しいんだと感じた。オレ自身ちょっと反省していた。


 こうしてやっとスーパーへたどり着いた。かなり長い道のりのように感じた。

 正人のことが少しわかってきたのはいいが、もうへとへとに疲れていた。それでも買い物をしないと食うものがない。カゴを取り、何を買おうか店内を見て回る。


 正人が店内を放し飼いのフリーレンジのように、ちょこまかと走り回っていた。オレのところに戻ってきては一つ、また一つと商品を入れている。

「なんだ、これ」

 よく見るとしめじのパック、生姜のチューブ、大根一本が入っていた。そこへまた正人が来て、一リットルの水のペットボトルを入れた。ググッとカゴが重くなった。

「おい、よせ」

 そう言ったが、正人はもうそこにいなかった。

 あいつは自分の目につく商品を片っ端から入れているらしかった。


 くっそ~、と思う。冗談じゃない。またしても正人にやられっぱなしだ。トコトン振り回されていた。たったの三歳児にだ。しかし、その後、正人だけが特別な知恵者ではない事がわかった。


 ふと別の子供が目に入った。正人と同じくらいの男の子が、陳列されているチョコレートをじっと見ていた。そして別の物を見ている母親をちらりと見た。

 オレにはわかった。何かが始まろうとしていた。

 その男の子は、決心したかのようにチョコレートを手に取る。そして母親のところへ駆け寄り、差し出した。

「ねえ、これ買ってぇ」

 それまで子供とは思えない大人びた表情をしていたのに、母親に物をねだるその顔は、甘えたかわいらしいあどけない子供の表情だった。さっきとは別人だった。まるで舞台に立つ俳優のようだ。


 その母親はそんなことも知らずにのんびりと答えていた。

「あら、だめよ。もうご飯になるから、また今度ね」

 いつもの会話なのだろう。子供もそう言われることがわかっていたようだ。そして母親の、また今度、というセリフは、お化けと同じで出そうで出ない、ありそうであり得ないということがよくわかっているのだろう。


 だから、子供は次の作戦に移った。

「ええっ嫌だぁ。チョコ買ってくれないとご飯、食べない」

 周りがちょっと振り返るくらいの声を出す。なるほど、母親が周りを気にして怯むコトを計算に入れているとみた。


「しーっ、そんな大きな声、出さないの。ね、また今度」

 この母親は困った表情で、周りを気にしている。

 オレにはわかった。この母親は簡単に落とせると。


 子供は調子に乗って、わめいた。

「嫌だ嫌だ。チョコ買ってぇ、買って、買って、買って」

 地団太踏んでいた。そして少しづつレジに近い方へ移動していく。オレはその意図がわかり、おお、と呻りたい気分になった。


 レジの周辺には大勢の客が順番待ちをしていた。つまり人の目が多いのだ。そんなところで駄々をこねられたら、大人はたまったもんじゃない。恥ずかしさに耐えきれず、あの母親なら買う、とオレは予測していた。


 子供はステージでのクライマックスを演じていた。

 皆によく見える床に座り込み、足をバタバタさせて泣きまねをした。

「わあん、チョコレート、チョコレート。ご飯も食べるよ。お願い、ママ」


 周りの大人たちの視線を浴びていた。皆がうるさそうに、そしてチョコレートくらい買ってあげたらいいのに、という顔で見ていた。

 案の定、その周りの視線を浴びた母親は子供を立たせて、持っていたチョコをカゴに入れた。

「じゃ、ご飯を食べてからよ。いいわね」

 平静を装い、そう言った。

 落ちた。完全に母親の負けだった。子供はもう何事もなかったかのようにすっくと立ち、うん、とうなづいていた。


 恐るべき子供の知恵だった。オレは、そんなことをさせないと、正人の行方を目で追った。

 だが、もう正人は、さっきの男の子と同じチョコレートを手にして走ってきていた。

 くっそ~、やはり見ていたんだ。そしてそれがそのままお手本になっていた。学びが早いというか、特に自分が得をすることに関しての身変わり方はとんでもなくすごいことに気づいていた。


 オレは素早く考えてた。さっきのようなことはやらせない。正人をうまくコントロールして好奇心をあおり、誘導して言うことを利かせることができたらオレの勝利、もしコントロール不可能になれば負け。

 さあゲームの始まりだった。


「ママ、これ買って」

 さっきの子供と同じように甘えた声を出した。オレはフンと鼻で笑った。

 甘い、これが三歳児だ。そっくりそのまま真似をしてくる。コトがそのまま進むと思っているのだ。そこが高だか三年しかこの世を経験していない甘さだ。オレはその上をいくとする。


 《涼子のオレ》は、差し出されたチョコを見てニンマリ笑った。

「あら、ママもこれ好きよ。買ったらすぐに食べちゃおうか」

というと、正人の顔も同じようにニンマリ笑った。

 うまくいったと思ったのだろう。

「でもチョコなんて食べたら、お夕飯食べられなくなるわね。じゃ、作らなくてもいいわよね。どうせ食べないんだから」

 逆手にとっていた。

 正人は何を言われているのかわからない表情で、笑顔が凍り付いていた。シナリオが違う、と言いたげだ。


「いいじゃない。本当は今日、正人の大好きな焼き鳥を買おうと思っていたの。でも、チョコ、買いたいんでしょ。食べたいんでしょ。じゃあ、今夜は夕飯いらないわよね」

「やきとり・・・・・・」

 正人が究極の選択をしていた。チョコを取るか、焼き鳥を取るか。

「それに・・・・・・」

 オレはちょっと悲しそうな顔で持っているカゴを見た。

「それにね、買い物カゴもいっぱいでしょ。ママ、こんなお腹だからたくさんは持って帰れないから」

 正人は自分が勝手に放りこんだ商品を見ていた。


「じゃあ、今夜はチョコとしめじの生姜炒め、大根おろしと水ってとこかしら」

 自分でも気色悪いくらい女っぽく言ってみた。

 正人がチョコレートと大根、しめじを見ていた。敵は作戦に引っかかっていた。戸惑っている。その目が絶対にそんな夕飯は嫌だと言っていた。

「ねえ、ママ」

 意を決したようにいう。

「ん? なあに」

「えーと、えーと」

 正人が困っていた。助け舟を出してやる。


「これが必要なかったら戻してきてくれると助かるわ。そうしたら代りにマカロニサラダとか買っちゃおうかな」

 これも正人の大好物だった。それを言うと正人は即座に返してくるといい、チョコレートも大根も、しめじも全部、元の棚に戻していた。

 すべてリセットされた。うまくいった。オレの勝ちだ。顔がほころぶ。


「じゃあ、焼き鳥、買おうか」

というと正人の顔が輝いた。

 本当に不思議なくらいオレと正人の好物が似ていた。オレの好きなハムとキュウリがふんだんに入ったマカロニサラダもカゴに入れた。

 ついでに明日の夕飯用に、鯖の味噌煮の惣菜も買っておく。これで明日は家から出なくてもよさそうだ。


 ゲームの勝利者の歌が聞こえるようだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ