育児休暇二週間目
ゴミの日の朝、久々に中野とエレベーターの前で鉢合わせした。同じ階でもなかなか顔を合わせることは少ない。
向こうはオレを見てすぐに破顔したが、オレは中野の持っているゴミの量に驚いていた。うちのごみの三倍はあった。
「お久しぶりです」
「あ、はい。どうも」
中野はオレの視線を辿り、自分の持っているゴミ袋に気づいた。
「すごい量っすね」
というと、中野は恥ずかしそうに苦笑した。
「うちの翔子ちゃん、インスタント食品が好きなんです。あと、お菓子とかばかり買ってきて、だから・・・」
「ああ、なるほど」
「僕はなるべく、ゴミになるような商品は買わないようにしているんです。小袋に入ったお菓子とか、チョコレートなんかも。あれって無駄ですよね。大きな袋にドカっていれてくれて、小袋にする分を安くしてくれればいいのにって思うんです。でも翔子ちゃんは便利だって言って、そういうのばかり買うんでこの通りで」
「まあ、主婦は忙しいですからね」
オレの口からこんな言葉が出るとは思ってもみなかった。にわか主夫をやって、実感した言葉だ。
そのままオレ達は口をつぐんでいた。その後、どうですかと聞きたかったが、スムーズに出てこなかった。土曜日に奥さんの姿を見たからなのか、中野の話から、もっと自分勝手そうな傲慢な女性を想像していたのだ。あんなにかわいらしい女性だとは思わなかった。
「久々に飲みませんか。オレもやっと主夫業に慣れてきたし、夜なら出られますから」
「あ、井上さんからそう言っていただけて、うれしいです。また連絡します」
外へ出て、ごみ袋を指定の場所へ置く。雲が重いと思っていたが、ポツリポツリと雨が降ってきた。オレは出勤前の中野を見た。今からまた、傘を取りに戻るのは面倒だろう。
しかし、中野は持っていて当然という顔をして、傘を取り出した。そういう用意周到なところは細かい気配りが行き届いていそうな中野らしいこと。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
オレは中野の背中を見送っていた。雨は強くなりそうだった。
今日は涼子が、病院へ清乃の検診に行く。雨だから、公園は休もうと思う。少しほっとしていた。
公園は子供の発散になるが、オレにとってはその様子を見ていなくてはいけない。気を常に張っている。子供同士のトラブルも度々起こった。もうオレは、砂場では何も作らないことにしたが、やはり子供と一緒に外に出ることは疲れる。一人でのぶらぶら散歩とはわけが違う。
傍から見て、単純に子供が遊んでいる様子を見ていればいいと思うが、そんな単純なことではないのだ。
最近、知り合いになった人がいた。公園に六十代くらいの男性が、三歳くらいの男の子を連れてくる。あっちもオレが目についたらしい。平日なのに、母親の中の父親だったから。自然と話をするようになる。桜田省吾と言った。
嫁にいった娘が最近、働きに出たそうだ。保育園を申し込んだが、定員に洩れてしまい、仕方なく、キャンセル待ちとなった。けれど仕事場も来てくれないと困ると言われ、退職したその父親が子供のお守りを頼まれたらしい。
「初めは三歳の子供の面倒くらい、簡単だと思ったんですよ。二つ返事で承知したんですがね」
そう桜田が言葉を濁す。
「考えてみれば、自分の娘たちと遊んだ記憶がなかったんです。いつも亡くなった妻にばかり押し付けてた。女子供という言葉があるでしょう。それは女と子供は同レベルで、とるにたらない、簡単にあしらえるという意味だと思っていました」
彼は続ける。
「ところが、とんでもないことに気づいたんです。女子供は非常にしたたかで、扱いにくい人種だと気づいた時はもう遅かった」
オレは些か大げさな言い方に笑った。少し前のオレと同じ意見だったからだ。
三歳の彼の孫、三富弘樹は、すごく活発で、うちの正人といい勝負だった。水たまりを見れば、目を輝かせて突進し、水の中で足踏みをするから靴やズボンまで濡らす。落ちている棒を拾えば、侍ごっこと言わんばかりに、そのまま辺りかまわずに振り回す。石があれば、ターゲットはどこだと当然投げる。この桜田も、孫の世話で、この公園にいる時だけで、「こらっ」「やめなさい」を連発している。
「うちは女ばかりの子供だったので、男の子がこんなに大変な生き物だとは思ってもみなかったんです」
今までは公共の場で騒いでいる子供を見ると、親のしつけがなってないとすぐに憤慨したが、今は自分がその睨まれる立場になっていると言っていた。
オレはその桜田が気の毒になった。オレの場合、正人は自分の子供だから、その世話、しつけは当然、オレのやることだと思っている。しかし、桜田は違う。娘の子供だ。本来なら、その娘か、夫がしつけをおこなうべきなのだ。三歳という年齢は微妙だ。まだ幼いが、大人の言うことはわかる。さらに世間の大人の様子もよく見ていた。公園でのマナーや、その叱り方も親と違うと孫の弘樹が戸惑うだろうと思う。桜田はしきりにダメ、こらっを連発していた。おふくろと同じで、怪我をさせてはいけないと思うから出る言葉だと思うが、あれでは子供には全然耳には入ってこない様子だった。オレも気をつけなければ、と自らを制した。
今日みたいな雨の日は、桜田はどうしているんだろうか。ちょっと気になっていた。
「じゃ、行ってくるね。昼頃には帰る」
涼子が清乃を抱っこ紐に入れて、傘を取り出した。
「タクシーで行け。雨が降ってる」
涼子が破顔する。
「いいよ。行きはバスで行く。帰りはもしかすると甘えちゃうかもしれないけどね」
そんなことを言って、バタンと玄関のドアが閉まった。
まあ、涼子のことは心配することはない。二人目の母親、ベテランなのだ。本当に頼もしい限りだ。
さて、問題はオレ達だった。雨の日。家の中で遊べることをする必要がある。テレビばかりだと体を使わないから、昼寝を思うようにしてくれない。今日はいつもの英語教室がある。その前に昼寝をさせなくてはと思っていた。そんな不安と裏腹に、内心ではあの美人先生に会えるかと思うとわくわくしていた。
掲示板を見る。
明日は風呂場の掃除だ。いいことを思いついた。普通なら天気のいい日にやろうと思うが、今日、しかも正人をうまく使って掃除しようと思いついた。
「お~い、正人。海水パンツを着てウォーターシューズ、履くぞ」
するとテレビを見ていた正人の目が輝いてこっちを見ていた。
「えっ、なにすんの? プールへ行く?」
「まあ、似たようなもんだ。着替えるぞ」
風呂場の掃除にはゴム手袋を使用しなければならない劇薬が多いが、オレはそんなものは使わない。チラリと見かけた豆知識によると使いかけのシャンプーを洗剤代わりに使うといいとのこと。うちには安売りしていて、つい、買ってしまったが、涼子が使いたくないと言ったシャンプーがある。オレが使っているが、なかなか減らなかった。それを利用するのだ。
掃除用のスポンジにシャンプーを染み込ませ、泡立てる。もうそれだけで子供は目を輝かせる。泡だけでも遊べる体勢だ。滑って転ばないように、椅子に座らせて、下のタイルをこすらせた。滑りにくいシューズを履いているが、オレは正人が転ばないように細心の注意を払って、浴槽を磨く。
シャンプーはおもしろいように湯垢が落ちた。そして、香りもいい。髪の毛を洗うためのものだから、手にもやさしいはずだ。白い泡でいっぱいになった時、暖かいシャワーで流すとキャッキャ言って喜んでいた。
そして、正人が飽きる頃、オレは綺麗になった浴槽に温水をはり、中で遊ばせていた。そこへ浮かべるおもちゃもゴシゴシ洗えと言ってある。オレたちは二時間くらい浴室にいて、あらゆるものを磨いていた。
一度、このくらい手をかけておけば、さっと水に流すだけでもきれいになるだろう。後は換気をよくすればいい。
正人の風呂用のおもちゃを見た。買ったばかりのようにピカピカになっていた。正人も古びた歯ブラシをつかうテクニックを覚えた。三歳児がそんなものを使って掃除をするなんて、家庭の主婦も真っ青だろう。
しかし、そんなオレの笑顔も引くことになる。正人が持っていたのは、涼子の洗顔フォームだった。シャンプーとは違う、別のいい香りがするとは思っていた。確か最近、涼子がネット購入したばかりだ。まさか、いつの間に正人がそんなものを使っているとは思ってもみなかった。
「おい、もうよせ。それを掃除に使ったら、ママが怒るかもしれない」
オレがそれを取り上げる。時は既に遅し。半分以上がなくなっていた。やばいかもしれない。
「まあ、わからないかな」
そうだ。何気なく使っているんだから、それほど気にしないかもしれない。そんなふうに気を取り直す。
「風呂場がこんなにきれいになったんだから、許してくれるよな」
オレがそう独り言を言うと、正人が満面の笑みで、うんとうなづいた。
さあ、昼食の準備だ。
オレは以前買っておいた輸入品を多く扱う店で買ったスープを温めることにした。ベジタブルスープだが、中にはアルファベットの文字を形どったパスタが入っている。それとガーリックチーズトースト、夕べの残りのポテトサラダだ。
案の定、正人はスープの中のパスタに歓喜の声をあげる。少しづつアルファベットを覚え始めていた。一つ一つをスプーンですくって、「A」「C」と言っていた。いいぞ、後は食べたら昼寝だ。
正人が昼寝のために和室へ入った時、涼子が帰ってきた。やはり、帰りはタクシーを使ったらしい。雨は本格的に降って、傘をさしていたのに濡れたとブツブツ言っていた。
「清乃は順調ですって。よく飲むし、機嫌もいいし。わかっていたけど安心したの。ああ、お腹空いた。久しぶりに出かけるっていいわね」
清乃をベッドに寝かしつけて、涼子が台所へきた。もちろん、オレは涼子の分も作っておいた。
涼子ががリリといい音を立てて、ガーリックチーズトーストをかじる。
「ねえ、午前中は何してたの? 外は雨だったから、どうせ、ゲームでもしてたんでしょう」
そんなちょっと意地悪な目を向けてくる。
オレはちょっと自慢げに言った。
「風呂場の掃除だ。ピカピカだぞ。正人も手伝ってくれた」
「えっ、掃除? 今日は英語教室があるから、他に掃除は予定していなかったのに」
意外だったのだろう。
オレはシャンプーを使うアイディアを暴露していた。
「へえ、それっていい考え。あなたのネットサーフィンもそれほど無駄ってわけじゃないのね」
「無駄ってなんだよ。世の中に無駄なんてことないんだ。それを知って、実行することに意味がある」
偉そうにそういうと涼子が吹き出して笑った。
そう、涼子が機嫌がよかった。正人も昼寝をし、オレ達は予定通りに英語教室へ行った。
しかし、その間に、涼子が清乃をお風呂に入れたらしい。そこでばれた。
「ねえ、まさか、まさか、私の洗顔フォームを、お風呂の洗剤がわりに使ったんじゃないでしょうね。今朝までたくさんあったのに、もうほとんどなくなってる」
今までになく怖い顔をしていた。
「いや、まだ半分くらい残ってるだろう」
オレはちょっと控えめに、訂正した。けど、涼子の怖い顔は変わらない。たとえ、ほんのちょっとつかっただけでも目くじらを立てていたに違いない。
「あれ、天然素材だけを使ったオーダーメイド品なのよ。高かったんだから。出産してから、肌荒れが目立ったから、友達に聞いて注文しての。それ、三本で一万円。そのうちの一本を殆ど使っちゃったなんで・・・・・・」
あんなに小さいチューブに入って、一本約三千三百三十三円。高いのか、高いんだろう。三百円の間違いじゃないか? そういう冗談が言える雰囲気ではなかった。平謝りする羽目になった。今日は大減点の失敗。




