育児休暇六日目のこと
六日目となると大体の生活パターンができていた。もう六日目、いや、されど六日目だ。
オレはもう正人が起きだすと一緒に目覚め、コーヒーを淹れながら、洗濯機を廻す。そして、正人と同じテレビを見ながら、コーヒーを飲むという生活になっていた。同じ幼児番組を見ると、後の会話がスムーズになるのだ。あの、テレビのヒーローがやったこと、こんなに悪い奴がいたなど、後で話題にもできる。子供との会話が盛り上がるのだ。
そしてオレ達は台所へ移動する。正人のリクエストの朝食を作るために。
最初は朝食が出来上がったとき、正人を呼び、一緒に食べたが、最近、正人はオレの台所での動きを見ていることが多い。オレがうまくできるか心配だったのかもしれないが、どうやら料理に興味があるらしい。涼子が料理するときよりも、男のオレが不器用にもなにかすることに親近感を感じるのかもしれなかった。
実際の話、父親が料理をするとその息子も抵抗なく料理をするようになると、何かで読んだことがあった。こんな子供になってほしいと思うのなら、親がまずその手本を見せることが一番の教育だと感じた。
親バカかもしれないが、もし、正人が手伝いたいと言ってきたら、オレは子供用の包丁を買ってやるつもりだった。そして毎週、日曜日には一緒に何かを作るんだ。
さて、今朝のお題は?
「んとね、玉子焼きみたいで、ホットケーキみたいなの」
みたい、ということは、それとは違うということらしい。
「どんな形してる?」
「んとね、四角かった」
手で、四角を描いた。それは目で見たことがある、ということ。
四角い玉子焼きか、それともホットケーキを四角に切ったのか。
「どんな色だ」
「んとね、玉子焼きみたいなホットケーキの色」
それ以上、発想が飛び出していかない。
「それ、どこで見た?」
「んとね、パパのテレビ」
オレのテレビということは、大型テレビ、映画だろう。
最近、見た映画のシーンにそんなものがあったかどうか、必死で思い出していた。
「誰が、どんなふうに料理してたんだ」
わからない。もっとヒントをくれ。
「んとね、お父さんが子供に作ってあげるの。お母さん、どっか、行っちゃったって」
それでわかった。最近、古い映画を見た。「クレイマークレイマー」だった。あの映画には、フレンチトーストを作るシーンがある。きっとそのことだろう。思い返すと確かに玉子焼きのようであり、ホットケーキのようである。しかも四角い。
「わかったぞ。作ってやる」
正人は目を輝かせた。
オレはいつものように、スマホで検索し、手早くフレンチトーストを作った。確か、冷蔵庫の奥に土産でもらったメープルシロップもあったはずだった。それをサイドにおいて、ナイフとフォークも出す。
以前のオレなら、正人の許可もなく、勝手にシロップをかけ、細かく切り分けて、目の前に突き出していただろう。普段の食事ならそれでもいいが、これは四角いということがキーワードだった。四角いままでだすことが重要だった。それを勝手に切ってしまったら、また、正人の大泣き嵐が吹き荒れることになる。
まず、大人と同じように完成品を差し出す。食べ方を教え、もし、うまく切れないようなら手を出してもいいか聞く。子供の、「自分でやりたい意欲」はものすごいから。そこで初めて食べやすいように切り分けてやれば、子供の満足感は百パーセントになるということ。
う~ん、オレってすごい。
案の定、正人はオレの完成品をうれしそうに眺めていた。その目の輝きを見れば、どれだけ正人の心が躍っているかわかる。
「シロップは、かけすぎるなよ。周りに丸を書くようにしてかけて、切って食べるときにつけていくといい」
「うん」
正人は言われた通りに、フレンチトーストを囲むようにシロップをかけた。次はナイフとフォークで切る。
「こう持ってごらん」
ナイフとフォークの扱い方を教えた。無理だろうと思っていたが、正人は器用に切り分け、落とさずに口に運んでいた。
その一口を食べた正人の笑顔を、オレは忘れないだろうと思った。親としての冥利に尽きる。
「うまいか」
「うんっ。パパ、すごい」
そのお褒めの言葉に、明日はどんな難問を吹っかけてくるのか、楽しみであり、恐ろしくもあった。
涼子には朝食のリクエストをしないらしい。正人は出されたものを黙って食べる。しかし、オレにはあれを作れと言ってくる。涼子は、オレに甘えているんだと言うが、そうなのか。どう見ても難問を押し付け、それをどう解決するかを眺めるのが好きなんだと思うが。
その日は土曜日。
オレがそのことを認識したのは、いつもの公園にお父さんたちの姿が見えたからだった。
今日はオレが公園にいても違和感はないぞ。どこの家も休みの日くらい公園へ連れて行けと奥さんに言われたのだろう。
正人は知り合いの顔を見つけ、そっちは走って行った。まあ、とりあえずはブランコで遊ぶだろう。
ほっとしていると後ろから近づいてくる人がいた。
「思い切りましたね」
振り返ると、以前、エレベーターで会った留美ちゃんのお父さん、松田だった。
そうか、松田も子守り休日か。
松田はきれいな紫のシャツにベージュのカーゴパンツをはいていた。ちょっとしたファッションモデルのようだった。スーツ姿とは違った雰囲気を醸し出している。相変わらず、目元パッチリの爽やか笑顔。
「僕には会社に休暇を言いだす勇気がありません。たとえ二、三日の休暇でも、北海道にいる父の具合が悪いみたいなことを言わないと、もらえないでしょうね」
そうか、思い切ったというコメントは、オレの育児休暇のことなのか。きっと他の父親たちも小耳にはさんでいたのだろう。チラチラとこっちを見ていた。
「はあ、まあ以前のオレもそんな感じでした」
そうだ、これはオレの体に入った涼子がすべて仕組んだものだったんだ。オレの意志から始まったわけではない。
「えっ、でもここら辺の奥さんたちの話題、トップスリーに入っていますよ、井上さん、自ら三か月の育児休暇をとるって言ったって」
うん、涼子がオレの体に入って、その話を勧めたんだから、確かにそうだ。
「うちの会社には前例が何人かいるんですよ。だから、それほど驚かれずに済みました。上司に一応相談したんですが、その人からも勧められまして。仕事の方もオレのいない分、サポートしてくれる臨時の人が来てくれるんで、助かりました。それらのどれかが欠けていたら実現しなかったでしょうね」
「へえ、そうですか」
松田は自分のことのように感心していた。
「うちもそろそろ二人目を考えていますが、そうなると家内も大変だろうって思うんです。それとなく打診されました。もし、二人目が生まれたら、井上さんみたいに休暇をとれるのかってね」
「はあ」
こんなオレでも、そうした影響を及ぼしているのか。
「でも・・・・そうしたいのは山々ですが、無理でしょうね。僕、今、海外の支社への企画チームに入っていて、ものすごく忙しいんです。今、いや、この一年くらいは臨時になんて休めないでしょう。たとえ、僕自身が病気になったとしても休むつもりはありません」
その気持ちはよくわかった。オレだってそうだ。けど営業になり、どうでもよくなった。
三十代から四十代は仕事の波に乗り、楽しくなってくる。責任もそれなりに重くなるころだった。家庭も子供が生まれ、大変な時期に差し掛かる。仕事も家庭も、大変多忙な年齢だといえた。その波から降りるということは、かなりの決意がいる。そしてそこから降りて、再びその波に乗れるのか、という不安。同じようにはいかないだろう。乗れるとしても時間がかかるかと思う。
しかし、オレは言った。これはオレにも与えられた言葉だ。
「実は、今の仕事は、自分だけしかできないと思っている人、多いんです。けど、きちんと引継ぎをすれば、他の人にもできるんです。つまり仕事の代りはいるけど、自分の家庭の父親は自分だけなんです」
松田はオレの言葉に目をむいた。
「えっ、でも、今やっている仕事は僕が手掛けてきたことで・・・・」
そう、それはできないんじゃなくて、他の誰にもやらせたくないんだ。
「それはやらせたくないだけ。それがわかったら、どっちが大切なのかわかってきました。子供は毎日、どんどん成長する。三歳の正人は今しかいないって感じたんです。大きくなってからさあ、ヒマになった。遊ぼうといっても寄ってきてはくれません。たぶん、相手にもされませんよ」
この言葉は、きっと松田の中にあった不安な心を揺さぶったのだろう。打ちのめされた表情で固まっていた。自分だけにしかできないと自負していた仕事、それをやっているから、子供のことを妻に任せていた。それが理由になっていた。
「はあ、さすがだな。井上さん、すごい」
オレのどこがすごいんだかわからないが、ちょっといい気分になった。
「で? 井上さん。そろそろですか」
「はあ、何がそろそろでしょうか」
意味がわからなかった。
「留美が、正人君のお父さんのサンド・アートがすごいっていうんで」
「サンド・アート? なんですか、それは」
オレの? なんだ、なんだ。そんなこと、知らないぞ。
オレが目を丸くして松田を見たから、松田も目を見張る。
「井上さんでしょ、毎日、ここの砂場でいろんなオブジェクトを作る人って」
オブジェクト? オレがそんな大それたものを作ったか?
「ほら、昨日はこれでしょ」
松田がスマホの画像を見せてくれる。
砂の彫刻と題されていた。高速道路、万里の長城、人を見下ろす巨大な犬、性格悪そうな目つきのペンギン、尻餅をついたドナルドダック。確かにオレがこの砂場で作ったものばかりだった。いつの間にか誰かがこの写真を撮り、SNSに流していたらしい。
「うちのマンションのお母さんグループで、話題になっているんです。たぶん、今日ここにいる人たちって、そのことを知らない人はいないと思いますよ。だから、今日はいつもより見学者が多いんです。その砂の彫刻を実際に見て見たいって」
オレは周囲にいる人々を見た。いつもの母親集団とその配偶者がいた。つまり、ギャラリーが二倍以上ってこと。
オレは一たび集中すると周りが見えなくなる。そう言えば、最初は五、六人の子供たちだけだったのに、いつの間にか見慣れない子供も増えていた。今は、母親軍団は三グループに分かれていたのだ。まさか、それはオレの砂遊びを見に来ていたなんて思ってもみなかった。しかも、こんなふうに画像が流れていたとは。
「井上さん、サンドアートキングって呼ばれているんですよね、知りませんでした?」
オレはぶんぶんと首を振った。
そんなこと聞いてない。
「あれ? 今日も井上さん、何か作ってくれるんですよね。僕たち本当は遊園地へ出かける予定だったんですけど、留美がどうしても今日のサンドアートを見てからじゃなきゃ、嫌だって、どうしてもきかなくて・・・・」
松田の目に、さっさとオレが作ってくれないと出かけられないという不安の色があった。
オレはかなりのプレッシャーを感じていた。適度に褒められるのは心地いいが、こんなふうに期待を去れるとプレッシャーを感じた。そんなことを聞かされたら、今までのようにホイホイ作ることなんかできない。
正人がブランコに飽きたらしく駆け寄ってきた。
「留美ちゃんが今日は魚がいいって」
正人の後ろから、松田さんとこの留美ちゃんも走ってきていた。
「さかな・・・・って」
皆が砂場に周りに集まってきていた。おいおい、勘弁してくれよ。オレは元々こんなふうに注目されることに慣れていないんだ。こういう時はこの松田が最適だろう。
「あ、いや、今日は遠慮しとくよ。代りに留美ちゃんのお父さんに何か作ってもらって・・・・」
「僕には無理ですよ。冗談でしょ」
なんてことを言うんだとばかりに、松田は大げさに首を振った。
「じゃあ、今日はお砂場は休み」
「ええ~っ」
正人が大げさに叫ぶ。
とたんに留美ちゃんの目が涙目になった。
「今日も見たかったのにィ」
ぎょっとする。
「パパ~」
正人も抗議の声を出した。
「わかった。作ればいいんだろっ」
もうヤケだった。こんなふうに皆から期待されていたとは思ってもみなかった。子供たちが楽しんでくれればそれでよかったのに。
「いいか。ここに宣言する。オレの砂場遊びは今日でおしまいにするぞ」
皆に聞こえるように言った。これから毎日、何かを作らなければならなくなったら困るからだ。
オレは砂場に大きな口を開けた鮫を作った。鋭い歯をむき出しにして海面の人を襲うかのようなジョーズのイメージだった。我ながら、上出来だった。見ている人たちの感嘆の声が漏れる。もうすでに数人が、スマホをかざし、写真を撮っていた。
「おい、正人。この鮫の口の中に入れ」
そっとそう言った。
正人はわけも分からず、その中へ身を入れ込む。
「正人っ、鮫だっ。逃げろ。助けるぞ」
そう叫び、オレは砂のジョーズを蹴って壊した。中にいる正人を抱き上げた。
周りから、「ああ」という声が漏れた。せっかく作ったのにという残念な声。
正人もびっくりしていた。
「パパ、壊れちゃった」
「いいんだ。わざとやったんだから。形ある物はいつかは壊れる。変わっていくんだ」
諸行無常ってこと。
松田も写真を撮る間もなかったと残念そうに言った。
「来週からは子供たちが中心になって砂場で遊ぶ、そうだよな」
オレは正人にそう言った。正人も元気に「うん」と言った。




