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身代わり地蔵  作者: 五十嵐。
第二章
32/45

育児休暇、いや、育児業務の始まり

 さて、育児休暇の初日だった。わくわくする朝を迎えたが、休みなんだから、寝坊ができると思い込んでいた。いつもなら起きる時間だが、もう一眠りできると寝返りを打つ。しかし、そんなオレは突然、涼子に叩き起こされた。

「ね、もう正人が起きてるの。お腹空いたって言ってる。ご飯食べさせて」

「えっ」

 時計を見る。まだ、六時半だ。


 オレは正人と一緒に寝ていたが、気づかないうちに起きだしたらしい。

「ねっ」

「う~ん」

 オレはまだ布団の中でぐずぐずしていた。

 育児休暇とは休暇のことだと思っていた。休みがずっと三か月続くってことだ。育児をすればいいだけのこと。今日くらい、そうだ、初日くらい、だらだらしてもいいだろうと考えていた。しかし、業を煮やした涼子が荒い声を出す。


「もう、起きてっ。今日から育児業務の始まりなのよっ」

 育児業務か、我妻ながら、実にうまいことを言うと感心する。

「わかったよ。起きればいいんだろっ、起きれば」

 そうブツブツ言って、起き上がった。

 やっと涼子の眉間の皺が緩む。それは雷が落ちる前兆。皺が、それ以上濃くなったら、申告してやろう。

「ありがと。私、もう少し寝るわ」

「うん」


 眠気覚ましに、バシャバシャと荒っぽく顔を洗う。目を覚まさなきゃならない。

 いつも出勤前は、目まぐるしいほどやることがあった。今日からそれはしなくていいんだ。正人と一緒に、ゆっくりと一日を過ごせばいい。そんな意識だ。

 朝寝坊はできなかったが、オレはこれからのことを考えるとなんだかうれしくなり、ニマ~と笑った。まるで赤ん坊の清乃のように。


 シャツとジーンズに着替えてリビングへ行くと、正人は勝手にテレビをみていた。正人はオレが入っていっても気づかず、テレビに集中していた。オレはそれをちらりと見て、台所へ行く。

 まず、オレのためのコーヒーの支度、それから正人の朝食を作ることにした。オレがなによりも満たされていなければ、人の世話などできないからだ。コーヒーがコポコポと音を立てて、いい香りを放つ。その間、新聞を開きもせずに、ぼーっとしていた。

 これから時間に追われることなく、適当に正人を遊ばせていればいいんだ。楽勝な毎日だと考えていた。


 しかし、次の瞬間、オレは台所の壁の一点を見つめていた。

 そこには見慣れないホワイトボードがかかっていた。昨日まではそこになかったから、目に入ったのだ。それを手に取った。

 そこには月曜から土曜日に分けられ、時間ごとに細かくなにかが書かれていた。それを見ながら、コーヒーを口にする。

 それを認識した次の瞬間、口に含んだコーヒーを吹き出しそうになった。


 それは、涼子がオレのために作った一週間の計画表だったのだ。何時に朝食、洗濯、それを干す、台所の掃除、トイレの掃除、リビングと事細かに書かれていた。

 それに午後は、正人の習い事へ連れていくらしい。英語教室だ。三歳児なのに、英語を習おうっていうのか。日本語もまともに話せない子供なのに、だ。しかも親だって、まともに英語なんか喋れない。いきなり、ハローって言われたらどうすんだよっと毒づいた。


 赤ペンは必須、その他は黒ペンで書かれていて、時間があったら風呂場の掃除、押入れのかたづけなどとも書かれていた。これらのスケジュールを見ると、営業部の仕事をするよりも過酷ではないかと思われた。ぼうっとする時間などないだろう。どうやら涼子はオレに、楽しい育児休暇を過ごさせるつもりはないらしい。

 しかし、夜八時以降は自由時間と書かれている。正人を寝かしつければ、後は自分の時間としてもらえるという意味。そして日曜日も休みとのこと。会社務めと変わりない。


 フン、まあいい。今日は洗濯してそれを干し、トイレ掃除をして午前中は公園。その帰りにスーパーへ寄って夕食の買い物をする。昼飯は涼子が作ってくれて、台所の掃除もしてくれるらしい。なるほど、家事分担制か。


 オレはそのスケジュール表をスマホに登録した。ゲーム制にして、一日にやらなければいけないことを全部こなしたら、ポイントがもらえる。さらに時間があって他にも家事をこなしたなら、もらえるポイントを高くする。一つ一つこなしていくと一日の達成率が表示される。一日の最後に「正人就寝」をクリアしたら、ボーナスポイント五十点がプラスされるように設定をした。そして、それを月曜日から土曜日までクリアしていくと、主夫のレベル1から2へと上がれるようにした。

 こういうゲーム方式なら、頑張れる。

 そんなことをニヤニヤしてやっていると、いつの間にか正人がそこにいた。


「ね、パパ。お腹空いた」

「おう」

 オレは慌てて立ち上がった。そうだ、まず正人だ。こいつは生きているオレのゲームの主人公。正人のハッピー度でレベルアップできることにしようとも思う。

「なにがいい? シリアルか」

 まず一番簡単なもので打診してみた。

「やだ」


「えっ、じゃあ、目玉焼きトーストか」

 オレも食べたいからだ。

「昨日食べた」

 あ、そうだったっけ。でもあれは、毎日食べてもいいだろうと思う。


「じゃ、何がいいんだ」

「ご飯とお味噌汁がいい」

「えっ」

 まず、難問をぶつけられていた。いつもはトーストかシリアルで過ごしていた。ご飯なんか炊いてないぞ。今から炊くのか。味噌汁・・・・・・学生の時、一度だけ作ったことはある。

 なんだって、初日からこんな課題をぶつけられなきゃいけないんだ。

 オレは正人を見た。知っている、こいつは一度言いだしたら、いくら諭しても利かないんだ。

 よし、オレはその挑戦を受けることにした。もしもこれをクリアしたら、ボーナスポイントをもらうぞと息巻いていた。一週間で一レベルじゃなくて、二段階アップできるかもしれない。


 一応、冷凍庫を見た。涼子のことだから、日頃多めに炊いたご飯を冷凍保存している場合が多いとわかっている。

 あった。案の定、一人分づつラップされた冷凍ご飯が入っていた。これをチンすればいい。後は味噌汁だ。スマホでその作り方を検索する。出汁をとって、ワカメと豆腐を入れ、味噌をとけばいい。案外、簡単だった。

「ふん、楽勝だな」

 オレも久々に和風の朝食を味わいたかった。後で涼子も起きてきて食べるだろうから、三人分作る。

 誇らしげに正人の前に味噌汁とご飯を出した。


 正人の目が輝いた。これは絶対にポイントは高いと確信した。

 が、正人が味噌汁の中を箸でぐるぐるかき混ぜている。何かを探している様子だった。

「なんだ、遊んでないでちゃんと食べなさい」

 オレは親らしく注意する。そう言いながらも味噌汁を口にした。

 ん、いつも涼子が作るのより濃いかな。でもまあいい。

 まだ正人は味噌汁の中での探索をしていた。


「なんだっ」

「お揚げさんが見つからない」

 言葉に詰まった。

 お揚げさん、つまり油揚げだ。それは入れてないんだから、見つかるはずがなかった。

「揚げは入ってない。今日はしょうがないだろう。いいから食べなさい」


 子供だって、たまには大人のために譲歩してもいいだろう。しかし、正人はオレの言葉に目を丸くして驚いていた。この世にそんな味噌汁が存在するのかという顔だった。

 そりゃオレも油揚げは好きだ。けど、ないんだから仕方がない。我慢するということも教えた方がいい。

 しかし、敵は一枚上だ。威嚇するかのように大きな声を出した。

「やだあ、お揚げさん、入ってないの、やだあ。お味噌汁じゃない」

 

 正人のこだわりだった。

 正人ルールでこだわることは、たとえ、相手が涼子であっても曲げない。そしてこれがこじれると、すべてのことを拒否することになる。つまり、ゲームで言えば、強制終了というわけ。これを初日の朝からさせるわけにいかなかった。だから、オレは一生懸命になだめることにした。

「お揚げさん、なくてもおいしんだぞ。パパが頑張って作ったんだ」

 その努力を認めてほしいとの願いを込めて言う。しかし、敵は妥協という言葉を知らなかった。

「やだ、やだ、やだあ」

 半泣きで叫ぶ正人。

 オレはこみ上げてくる怒りをぐっとこらえた。ここで深呼吸して、一句。


【耐えるんだ、子供相手に腹立てぬ】


 それは句ではなく、ただの標語。まあ、いい。かっとしそうになったら、標語を考えるのもいいかもしれない。考えている間に落ち着いてくる。そうなるとオレは冷静になり、今までの経験で思いついたことがあった。以前、涼子が油揚げを冷凍保存していたことを。

 冷凍庫をゴソゴソと探した。あった。奥の方にもうすでに油抜きされて、刻んである油揚げが入っていた。ご飯を取り出す時にこれに気づけばよかったのだ。

 戦う勇者が絶対的な剣を得たかのように、ニンマリと笑った。


 オレはその揚げを、正人の味噌汁の上からパラパラと浮かべた。まるでコーンポタージュスープの上のクルトンのように。凍っているのをそのまま振りかけたから、油揚げは当然、ぷかぷかと浮いたままで、どう見ても油揚げには見えなかった。

 さすがのオレもまずいと思った。が、その時はもう遅かった。それを見た正人の顔が、クシャㇼと歪んでいた。声にならない息を吐き、次は息をものすごく吸い込んでいる。

 それは大声で泣く前兆だ。やばい。オレは機嫌をとるために、正人を抱っこしようとしていた。


 わあ~んと大音響。耳元でのその声に耳がキイ~ンとなった。思わず、離れる。

 正人がこの勢いで泣くと、もうお手上げだった。

「パパが変な物、いれたぁ」

 そのまま泣かせるだけ泣かせておいて、泣きつかれるのを待つか、涼子を呼ぶしかない。まあ、この声を聞きつけて起きてくるだろう。パパも泣きたいぞ。たぶん、これはかなりの減点。オレもかなり落ち込みそうだ。


 オレは知っていた。

 涼子の奴、オレのいびきじゃ目を覚まさないくせに、正人や清乃の泣き声には敏感に察知して目覚めることを。

 早く涼子、起きて来いと願いながら、オレはこのことには一切かかわりはありませんと言わんばかりに、さっさと自分の飯を口に入れていた。きっと後で怒られるんだから。朝から散々なことになっているが、今日一日が始まったばかりだった。敵は手ごわい。きっとまだまだ想定外の行動をする。それに対応するには腹が減っていてはだめなのだ。


 オレが朝ごはんを食べ終わる頃、涼子が起きてきた。不機嫌そうだ。

 正人の奴は、涼子の顔を見るとすぐさま駆け寄った。体当たりをするかのような勢いで走る正人をさっと抱き上げる涼子。そしてオレを睨みつけていた。

「なんなのっ。せっかく寝てたのに」

「あ、うん。ちょっとな」


 現金な正人はもう泣き止みそうだった。しおらしいかわいい幼児を装って、涼子にしがみついていた。ずるいぞ、正人め。

「ちょっと、ってなによ」

「うん、意思の疎通がうまくいかなくてだな・・・・・つまり・・・・」

 いいにくい。


 すると正人が説明した。

「パパのお味噌汁、お揚げさんが入ってなかったの。そしたら、パパ、上からパラパラって・・・・」

 涼子の目が、正人のお椀を見た。今やっと、浮かんでいた冷凍揚げが沈んでいったところだった。

 涼子はそれを見てぷっと吹きだした。


「後から入れたのね。鍋に残っている方に入れて、かき混ぜればよかったのに」

 そう言われて、あ、そうかと思う。

「ものすごく大胆なことするのね」

 感心された。涼子が正人のお椀の中身を鍋に戻す。それにもう少し揚げを加えて、かき混ぜた。それを味見する。

「少し濃いけどおいしい、上出来よ」

 ほっとした。お褒めのポイントをゲットしたようだ。正人を泣かしたことは痛かったが、ポイントは回復した。これは面白いゲームになりそうだった。題して「イクメン計画ゲーム」としようか。


 涼子が再び正人のお椀に味噌汁を盛る。すると正人は今までの奮闘が嘘のように、喜び勇んで味噌汁を口にしていた。

「おいしい。ママのお味噌汁、おいしいね」

 えっ、それはオレが作ったんだろ、とばかりに睨みつける。それを悟った涼子。

「それはパパが作ってくれたのよ。おいしいね」

 涼子も一緒に食べていた。

 正人が改めてオレを見る。少しは見直したような表情。

 こいつは、ハナからオレの作ったものをバカにしていたらしい。オレは正人に、やればできるんだオーラを出して、にやりと笑った。


「さあ、食事が済んだら、洗濯物干して、お外で遊んできて」

 どうやら、朝食の後片付けは涼子がやってくれそうだ。

「わかった。今から洗濯するから」

 そういうと涼子は時計を見た。嫌なんだ、その仕草。そしてその後には呆れ顔。案の定、何やってんの顔をされた。

「あのね、まず洗濯機をまわしてから朝食の準備をするの。食べ終わって食器を片づける間に、お洗濯は、洗濯機がやってくれている。知ってるわよね。それをさっと干して、外へ出かけないとこのお日様、もったいないでしょ。一瞬の間も無駄にできないのよ。そうそう、出かけるときは必ずエコバッグを持って行ってね」


 出た。

 女は視野が広いんだそうだ。何かやりながらでも、もう他のことを考えて、順序良く効率的に行動できるらしい。男は狩猟型だから、一点だけを見つめて獣を追うことだけに集中するようにできているらしい。特にオレはその傾向のせいか、何かに集中すると周りが見えなくなるのだ。朝食づくりに没頭していて、洗濯のことはすっかり忘れていた。


「ああ、わかった。次からはそうする」

と、今から洗濯をしようとしていた。

「いいわ。今日は私がやる。あなたは正人を連れて公園へ行って来て。午後から初の英語クラブだから、その前にお昼寝させたいの」

 なるほど、午前中思い切り遊ばせて昼寝をさせる。リフレッシュしたところで英語クラブか。主婦という者はよく考えている。


「え、おい。今日が英語クラブ、初日なのか」

「そうよ。留美ちゃんとか他の子は先週から始まってるの。正人は今日、あなたの育児休暇を待ってからって決めてたの。先生もそれでいいって言ってくれたし」

「ふーん」

 他の子は先週からやっていて、正人は今日が初日。オレだったら、絶対に気おくれする。


「英語の先生、オーストラリアから来たんですって。すっごい美人よ。日本語もぺらぺらなんだけど」

 その一言で、オレのやる気がグンとアップした。しかし、わざと関心なさそうな顔をする。

「へえ」

 じっと涼子がオレを見ていた。

「なんだよ」


「すっごく、関心があるみたい」

「そんなこと、ねえよ」

「そう?」

 涼子にはバレバレだった。

 もっと皮肉を言われないうちに正人を連れて出かけることにした。公園の砂場用のバックパックと一応、クッキーを持たされた。



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