育児休暇の前夜 中野と
オレはビールを飲みながら、ゲームをしていた。中野が起きるのを待つ。こういう所での時間つぶし、ゲームが手軽で最適だった。最近忙しくて、ゲームができなかったなと思う。もうすぐ休暇がもらえるってことで我慢していたこともあった。
涼子には遅くなるかもしれないと言ってある。明日からオレが家にいるから、向こうもいろいろ言わなかった。
一時間くらいしただろうか。中野がトイレに起きた。ふらふらして転げそうなので、一緒について行った。
その時、初めてオレを認識したらしかった。
「あっ、井上さん。井上さんじゃないですかっ。やっと会えた。よかったぁ」
そう言って、大げさに抱きしめられていた。そんなに喜んでくれると悪い気はしない。
中野は席に戻ると、再び酒に手を出そうとしたから慌てて酒を取り上げる。
「もう今夜はおしまいにしましょう。これ以上飲んだら、本当に帰れなくなりますよ」
そういうと中野は素直にお猪口から手を放した。
「あれからずっと井上さんに会えなかったから、僕のこと、避けてるんじゃないかって思ってたんです。どうしょうもない変な奴って、思われてるんじゃないかって、落ち込んでいました」
「そんなことありませんよ。避けてなんていませんでした」
子供に諭すような言い方になる。
「だって、マンションでも駅でも会えませんでした。いつもの時間に出ても、ちょっとずらしてもだめだった。同じ階に住んでいるんだから、会いに行こうと思えば行けたんですけど、そこまでする勇気がなくて・・・・」
中野がつらそうに笑った。
そこまでオレのことを意識してくれていたなんて、全然知らなかった。
「すみません。この一か月、仕事を片付ける必要があって、朝も早めに出て、帰りも残業していました。だから、会えないはずです」
「あ、仕事でしたか。お忙しいんですね」
「実はオレ、明日から育児休暇に入るんです」
「え? 育児休暇?」
「はい、妻の希望なんですけど、まあいいかって思って。明日から三か月、上の子の担当、主夫です」
いささか大げさに言ってみた。まだ照れがある。
「これからは夜なら、出られると思いますので、つきあいますよ」
それは、オレのセリフとは思えなかった。今まで誰かに合わせて時間を割くなんてこと、一番馬鹿らしいと思っていたから。でも今は余裕があるというか、ちょっとオレと、カテゴリーが似ているこの中野のために、時間を割こうと思っていた。オレも人間が少しばかり大きくなったんじゃないかな。
「うらやましい。僕も育児休暇、とりたい。取りたかったんです。でも、妻がだめだっていうんで」
また、あの翔子ちゃんか。しっかりしているっていうか、手綱はたまにゆるめてやらないと・・・・。
「収入が減るから駄目なんだそうです。いいな、井上さんは」
そう、中野は家のこと、子供の面倒もよく見る人だった。オレとは違う。
「うちも収入が減りますけど、まあ、三か月だけなら、なんとかやりくりすればいいからって、妻が」
確かにお金の問題は現実的だ。すぐに影響がくる。でも、電車の定期券も買う必要ないし、外での飲食も減るだろう。出先での、ちょっとした毎日のお茶代はバカにならない。旅行へ行って大幅に出費したと思えば、それほどでもないと思う。
「中野さん、あれから奥さんと・・・・あまりうまくいってないんですか?」
思い切って言う。
「え、ああ。表向きは今まで通りです。けど、僕はもうずっと仕事部屋に寝てるんです。最近ずっとここで酔いつぶれて、ここの閉店後、夜中に店長に送ってもらい、そのまま寝ちゃったり、起きたら起きたでそのまま仕事をしたりして、荒れた生活になっちゃいました」
これも家庭内離婚っていうんだろうな。そう思った。
中野がなんとか歩ける様子なので、帰ることした。中野の友達の店長は、何度も何度もよろしくとペコペコ頭を下げていた。いい人たちだな。人のことを思いやれるって、大事だ。
「僕なんて、結婚なんかしちゃいけない人間だったのかもしれない」
中野がマンションの前で、ぽつりと言う。その哀しそうな声にはっとした。
「僕は結婚に向いていないんだと思うんです。いろんなことに疎いし、翔子ちゃんもこんな僕、見限っていると思う。僕、それでも自分のことしか見えない。こんな人間でも、父親なんです。いいんですかね。こんな僕が親なんです。娘がかわいそう」
まだ少し酔っているらしかった。
「中野さんは、オレよりもいい父親だと思いますよ。もっといろいろしてやりたいって思ってるんだし」
「いえ、思っていてもできないんじゃ、やっていないと同じなんです。ゼロってこと。いいな、育児休暇だなんて、本当にうらやましい」
オレはそんなふうに言ってもらえてうれしかった。思い切って決断した甲斐がある。
「オレ、父親にかまってもらえなかったんです。だから、どうやって、子供と接したらわからなくて、ずっと妻にまかせっきりでした。けど、ちょっとだけ主婦の真似事をしたら、家のことをするって、大変だと実感したんです」
そうだ。身代わり地蔵を使って、涼子になった。楽だと思っていた主婦業が、とんでもない多忙で、孤独だと身に染みたのだ。
「偉いな、井上さんは。僕なんか、やりたいって思っても、やっていないんです」
中野は、再び同じセリフを繰り返し、力説していた。
こういうことを分かち合えるということは、心強いと感じていた。
中野のマンションの部屋は同じ三階の端だった。
「ありがとうございます。今夜会えて本当によかった」
「こちらこそ」
オレ達はメールアドレスの交換をしていた。これなら気軽にコンタクトが取れる。
さあて、オレはこれから育児休暇に入る。どんな生活になるのか、恐ろしくもあり、楽しみでもあった。




