育児休暇の申請2
涼子にはめられて(?)、オレは育児休暇をとることになった。なんとなく、後ろめたいような気分が多かったが、休みがもらえる期待感もあった。
もうすぐ、休暇に入るという頃だ。
最初はオレに対して、無関心か、軽蔑気味だった女性社員の見る目が変わってきていることに気づいた。周りの目を恐れず、自分の人生を突き進む感じがして男らしいと噂する人もいるらしい。まさか、そういう展開になるとは思ってもみなかった。
他の四十代の男性社員も、わりと好意的だった。皆、自分ができなかったことを、オレがやるということに、好意の目を向けてくれていた。そして子供ともっと遊んでやりたかったという思いを、心に抱いていることがわかった。
むしろ、二十代の若い社員たちの方が否定的だ。オレのことを、奥さんに尻に敷かれているとか、同じ男として情けないといった意味合いの皮肉まで言われた。それはつい最近までオレがそう思っていたことだったから、特に腹はたたなかった。もうここまで来たら周囲の目を気にしても仕方がない。オレはオレなりに、休暇を楽しむことにした。
「中学生になって大人びると、もうこっちの顔を見てもにこりともしないんだ。避けられちゃってるようにも見える。今のうちにいい関係を築いておけよ」と、声をかけられた。
「主婦の大変さを思い知りなさいね」と、応援なんだかわからないようなお言葉も頂戴していた。
一番うれしかったのは、同僚から、「次は俺が続く。うちもそろそろ二人目を考えてるから、道を広げてくれてありがとう」と言ってくれたことだった。
そしてその時、誰かが口走った。
「社員の代りはいるけど、父親の代りはいないからね」と。
本当にその通りだ。しかも、子供の成長は待ってはくれない。本当に今、父親として、子供と向き合わなければならないと思う。
休暇を目の前にして、少し心が軽くなったことは、オレのいない三か月間、代わりの人員が入ることになったこと。もちろん、他の同僚たちがオレの仕事を分担してくれる。代りの人員は、彼らのアシスタントとして、雑務を主にやってくれるのだ。
その人は結婚退職した元社員で、三か月だけならと、快く引き受けてくれたそうだ。そして一週間に一度、営業部の流れをメールで教えてもらうことになっていた。そうすれば仕事復帰への不安も少しは解消される。
いよいよ育児休暇に入る前日、皆が退社した後も自分の机をきれいに片づけていた。皆に仕事の負担をさせてしまう申し訳なさはまだあるが、その反面、今後誰かが長期の休暇をとっても、お互い様ということで、決して愚痴るまいと決めた。
会社を出たのはもう夜、しかし、それほど遅くはなっていなかった。
いつもの駅を出ると、あの、中野と一緒に入った居酒屋が目に入った。ふと、中野が思い出される。また飲む約束をしてそのままになっていた。マンションでも顔を合わせなかったし、駅でも会わなかった。
この一か月間、休暇をとることになり、オレの出勤時間が大幅に変わったせいもある。今までよりもずっと早く家を出て、いつもより遅く帰っていた。
ちょっとだけ店を覗いて、中野がいなかったら帰ろうと思っていた。
ガラリと店の戸を開け、中の客を見回すと店長と目があった。彼は中野の友人だった。軽く会釈をし、再び中野の姿を探す。そこには中野の姿はなかった。
「いらっしゃい」
店長が声をかけてくる。
「あ、中野さんがいるかと思って来たんですけど・・・・」
後の言葉を濁す。中野がいないなら帰るという意味合いで言う。
店長の顔が輝いた。
「います。中野、奥にいます」
「えっ」
店長が手招きする。誘われるようについていく。忙しそうにしている厨房を抜けて、その奥の座敷に入っていった。たぶん、従業員用の休憩室なのだろう。そこに中野が寝ていた。
「おい、中野。ダメだ、こんなとこで寝てちゃ」
店長が大きなため息をつく。
「こいつ、ずっとこんな調子なんです。なにがあったのか、全然話してくれないし、力になりようがないんですよ」
まだ8時過ぎなのに、もうこんなに酔っぱらっているんだ。一体いつから飲んでいるんだろう。
仕方なく、オレも中野に声をかけた。
「中野さん、井上です。お久しぶりです」
中野の目が開く。
「えっ、井上?」
しかし、誰なのか思い出せない様子だった。目が完全に宙を見つめていた。再び寝入ってしまう。
これでは、話どころではない。オレは少しここで待つことにした。店長も忙しいだろう。
「あ、オレ、少しここにいます。頃合いをみてマンションへ連れて帰りますから」
「えっ、いいんですか。そんなこと、お願いしても」
店長は助かったとばかりに顔がほころぶ。
「同じマンションの同じ階に住んでますから、大丈夫です。それに中野さんとまた、一緒に飲む約束をしていたんですけど、都合がつかなくて果たせなかったんです。だから」
店長も納得したみたいだった。
「あ、じゃあ、ここへ酒とつまみを運んできます。こいつが起きるまでここで飲んでいてください」
言うが早いか、もう店長は厨房へ消えていた。
テーブルの上をみると日本酒だけ飲んでいたらしい。つまみにはまったく手をつけていなかった。これじゃ、酔うはずだ。
「お待たせしました。すみません。こんなとこで、なにしろ、こいつ、連日酔いつぶれるから、もう来たら、ここで飲むってことになっていたんです。こいつのことも心配なんですけど、こう連日だとこっちも閉口気味で。どうしていいかわからないんですよ」
店長は生ビールの大ジョッキーと、三、四皿のつまみを持ってきてくれた。
「他にも注文してください。こいつにツケときますから、遠慮なく」
「あ、じゃあ、マカロニチーズとスペアリブを」
前回食べて、特においしかったものだった。
「はい、かしこまりました」
店長の明るい声が飛んだ。本当に心配だったんだろうな。
そう思い、中野の寝顔を見ていた。




