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身代わり地蔵  作者: 五十嵐。
第一章
3/45

いよいよ実行

 マンションへ帰った。

 もちろん、静まり返っていた。オレは抜き足差し足で、奥の部屋の戸をそっと開けた。

 六畳間の和室に涼子たちは寝ていた。そっと覗く。


 もう真夜中過ぎていた。早く涼子の髪の毛を手にいれなくてはいけない。やはり、オレが入り込む相手はこいつしかいなかった。涼子なら大体の生活パターンがわかるし、あまり外に出なければいいのだ。

 オレの体は明後日まで出かけることになるし、正人の世話だけしていればいい。それならちょろい。


 しかし、まだオレは躊躇していた。一つだけ気がかりがある。

 それは涼子が三十六週目に入っていることだった。予定日までまだ三週間以上ある。たった三日間だけの身代わりだった。リスクは少ない。そう自分に言い聞かせた。

 迷っている時間はなかった。

 涼子になりきれば正人を適当にあしらい、テレビを見たり、ゲームもできる。のんびりしていればいい。憧れの主婦ライフを体験できるのだ。そう考えて、不安を吹き飛ばしていた。


 オレはそっと和室に入った。台所からの明かりで部屋の様子がわかった。手前の布団に寝ているのが涼子だ。

 這うようにしてそっと近づく。長い髪に触れた。プンといつも涼子が使っているシャンプーの香りがした。懐かしい匂いだった。


 最後に涼子に触れたのはいつだっただろうか。ちょっと考えてみた。妊娠がわかってから寝室が別になったので、半年くらいになる。なんとなく、懐かしく、感傷的になっていた。

 いや、そんなことをしている場合ではなかった。髪の毛を抜かなくては。

 手さぐりで一本、そっと引き抜いた。起きてしまうかもしれないと懸念したが、涼子はピクリとも動かずに寝ていた。


 そそくさと和室を出た。

 オレの手には涼子の髪の毛があった。急いで寝室へ入り、レンタルした水晶の地蔵を取り出した。

 オレはあの婆さんに言われた通り、地蔵に涼子の髪の毛を巻き付けた。そして袱紗で包み直し、パソコンデスクの棚の一番上に置いた。


 これで本当に入れ替われるのか。もはや信じるしかなかった。

 寝室の隅に、小さな旅行カバンが用意してあるのに気付いた。中を確かめると、洗面用具、下着、着替えが入っていた。明日から出かけるオレのカバンだ。涼子が用意してくれていた。そういうことはよく気がつく。


 シャツを脱いでそのままベッドに入った。

 やるだけやった。後は朝になるのを待つだけだった。

 もしも、朝になってもまだオレの姿だったらもう仕方がない。諦めて出かけることにする。そこまで覚悟を決めると気が落ち着いた。

 ズボンと靴下も脱ぎ捨てそのまま寝入っていた。


 ***


 気持ちよく寝ていた。

 どこかでいつもの目覚まし時計のベルがなっていた。反射的に、寝たままで枕もとの目覚まし時計を手さぐりで探す。しかし、その手は宙を切った。

 ベルは止まった。そしてドアの開く音。誰かが洗面所へ入った。水の流れる音が聞こえてきた。

 薄暗い光で見た時計は六時を指していた。


 オレがいつも起きる時間だった。そして今日、沖縄旅行へ行く待ち合わせの時間は、そのいつも出かける時間に家を出れば、充分間に合う事を知っていた。

 やがて、コーヒーのかぐわしい香りが漂ってきた。

 オレはその時まで夢見心地だった。

 突然、我に返った。


 え? オレは誰? 誰が起きて、誰がコーヒーを飲んでいるんだ。オレは起きなくていいのか・・・・・・。


 体を動かそうとした。が、・・・・・・、体が異様に重い。ようやく上を向いた。

 なんだ、なんだ。オレの腹の上に何か重いものが乗っかっている。それに内臓が押されて、心臓でもないところがドックン、ドックンと脈打っていた。息も苦しくなって腹を探る。

 これがオレの腹? 手で触れると、山のように大きくせりあがっていた。


 で、でかい。

 完全に目が覚めていた。改めて見るとオレの腹が、とてつもなく、でかかった。

 思わずそのまま飛び起きようとした。しかし、ピキッという感覚が脇腹に走る。


「うっ」

 その痛みに息がつまる。脇腹がったのだ。そしてまた体の方向を変えようと脚に力を入れたとたん、今度は右ふくらはぎが攣った。

「がああ」

 思わず呻いた。ふくらはぎの攣れ、ものすごく痛い。その足を抱えたくても起き上がれなかった。


「ママ?」

 正人が目を覚めていた。

「いてえ、腹と足、攣った。うわあ」

 そう叫んで、その自分の声が女性のものだと気づいた。それは涼子の声だった。

 

 正人が泣きだした。オレが叫んで、のたうち回っているからだろう。

 耳元でものすごい正人の泣き声がしていた。その大音響の中、痛みに耐え、歯を食いしばる。

 どうすりゃいいんだ。脚と脇腹は攣れている、起き上がることもできないこの状況を誰かなんとかしてくれ、と三歳児にもすがる思いだった。


 そこへ誰かが入ってきた。そしてオレの脚を掴み、攣れていたふくらはぎを伸ばしてくれた。たちまち痛みが取れた。オレが全身の力を抜くと脇腹もすぐに治った。

 ほっと一息ついた。


「大丈夫か、行ってくる。留守を頼む。じゃあな、正人」

 オレの顔を覗き込んだその顔は、見覚えのあるオレだった。

 そうだ、オレだった。いつもぼさぼさの頭だが、今日はきちんと櫛が通り、きれいになっている。うりざね顔で、いつもならへの字口をしているはずのオレだった。


 っていうことは、ここに寝ているオレは、涼子ってこと・・・・・・。


 《オレの体》は正人の頭に手を乗せてにっこり笑い、出ていった。

 正人が、《オレの体》に行ってらっしゃい、と手を振った。


 茫然としていた。

 記憶にある自分の顔よりもきりっと引き締まり、理知的に見えた。あれが地蔵パワーなのだろうか。

 でも同時に安心していた。あの様子なら普段のオレ以上にきっとうまくやれるだろう。


 とりあえず、攣れは直った。横を向いて手をつき、徐々に腹を庇うようにして起き上がった。

 思っていたよりも九か月の、いや、もう十か月の身重の体は大変だった。確か十キロ近く増えていると言っていた。

 よろよろしながらも洗面所に立った。鏡を見る。

 やはり、そこに映っていたのは青白い顔をした涼子だった。

 成功していた。身代わり地蔵は本物だったのだ。本当にオレは涼子の体に入っていた。


 じっと鏡の中の涼子の顔を見ていた。少し笑ってみる。

 涼子の笑顔をずっと見ていなかったからだ。オレ達は正人の手前、ご飯だけは一緒に食べてはいたが、必要なこと以外は話さなかった。そして、目も合わせなかった。だから、最近はつまらなそうな、軽蔑気味の表情しか知らなかった。


 ひきつった笑顔があった。

 こんなんじゃない。昔の涼子の笑顔は、明るく、人を引き付ける。そう、花が咲いたかのようだった。思わず目をそらしていた。


 いつの間にか、正人が《涼子の中のオレ》の横にいた。

「ねえ、ママ。お腹空いた」

「おう」

 と反射的に答えていた。

 小さな顔が驚く。

 しまった、と舌打ちしそうになった。今は涼子だ。女なのだ。

「あ、わかったわ。トーストでいい?」

 わざとらしく女性っぽく言ってみた。

 うへえ、我ながら気色悪い。


「目玉焼きもほしいっ、その上にケチャップもたくさんかけて食べる」

 思わず正人を一瞥した。

 たかが三歳のくせに、なんて生意気なんだ。その食い方は、オレが一番好きな朝食メニューだった。 

 厚切りトーストに、バターを塗って半熟の目玉焼きを乗せ、ケチャップをかける。そして黄身に穴をあけ、よくケチャップと混ぜる。そのとろとろになったソースを全体に塗りこんでガブリとやる。

 躊躇してはだめだ。大胆にやらないと黄身とケチャップソースが垂れるからだ。


 至福のひと時だ。いつものようにあんぐりと口を開けてガブリとやった。また正人がぽかんとした顔で見ていた。

 しまった。涼子はこんな食べ方はしない。しかもつい、口の周りのケチャップを手の甲で拭っていた。


「今日のママって・・・・・・、なんかパパみたい」

「えっ」

 こんなに早くボロが出るとは思ってもみなかった。やばい。

「パパの真似、することにしたの?」

 そう無邪気な顔が言った。


 そうか、それはいい考えだ。そういう事にしよう、と思った。

「うん、ママはね、今日から三日間、パパの真似をすることにしたの」

とにっこり笑った。

 よし、これで無理して涼子の真似をしなくてもいいだろう。


 にっこりした正人は飛んでもないことを口走った。

「ああ、だからなんだね。大きなあくびをしても手で隠さないから鼻の穴、丸見えだった。新聞読んでも開きっぱなし、広告、全部床に落ちてるし。鼻をかんだティッシュもテーブルに置いたまま。ボリボリってお尻も掻いてるし。すごいよ、ママ。本物のパパみたい」


 正人の鋭いコメントに、開いた口がふさがらなかった。そんなに細かいところまで見ていたとは思ってもみなかったからだ。幼いからと言って侮れない。

 正人のパジャマはケチャップだらけになっていた。こういう所はしっかり子供だ。こいつ、飯もまともに喰えんのか、と舌打ちしたくなる。

「着替えろっ」

 思わず怒鳴った。

「え~っ、一人じゃできない。ママ、手伝って」

 正人はこういう時だけ子供じみた声を出した。さっきまでしたたかに《涼子のオレ》を観察していたくせに。


 この妊婦の体はすっくと立ち上がれない。テーブルに両手をついて、よいしょと力を入れないと立てないのだ。

 やっと立って、よろよろしながら奥の部屋へいく。タンスから洋服を出し、着替えさせた。これだけの動きでもう息が切れていた。

 再び台所へ戻り、椅子に座った。ほっとした。


 その座った瞬間、電話がなった。思わず舌打ちをする。今、たった今、座ったばかりなのだ。また立つのは嫌だ。電話は台所のカウンターの上だ。

「正人、出ろっ」

と怒鳴った。


「え~っ、いつもママが、子供は電話に出ちゃダメって言ってたよね。相手に失礼だからって」

 眉間にしわがよった。オレが出るのか。無視するには電話の音もうるさい。仕方なくまた、どっこいしょと立ち上がった。

 電話はオレの母からだった。今、駅に着いたから、とそれだけ言って一方的に切れた。

 だから何だって言うんだ。受話器にそう言いそうになった。

「お婆ちゃん、来るの?」

と正人が聞いてきた。ああ、と返事だけはした。


 《涼子のオレ》は再び椅子に座った。今度は何があっても立たん。最低二十分は座っているからなという意気込みでいた。

「いいの? そんなにのんびりしてて。お婆ちゃん、もうすぐ来るよ」


 だ・か・ら、なんだっていうんだ。オレは朝のひと時をゆっくり過ごしたいのだ。

 正人を無視して二杯目のコーヒーをついだ。

「あ、ママ。お腹の赤ちゃんのためにはコーヒー、控えるって言ってたのに。一日一杯だけにするって言ってたでしょ」


 うるさい、非常にうるさい。そんな言葉、聞こえないふりをして飲もうとした。

 しかし、恐るべきことが起った。

 腹が動いた。腹の中の生き物が、グニュリと動いたのだ。まるでエイリアンがいるかのような何とも言えない感覚だった。別の意志を持った何かが、オレの腹の中でうごめいていた。そしてついでのように、ポンポンポンと蹴られた。凄まじく腹が揺れる。その痛さに思わず呻った。

「ぐああ」


「あ、赤ちゃん、動いたの? すごいな、今、お洋服の上から見えたよ。赤ちゃんもコーヒーやめてって言ってるみたいだ」

 二人の子にそう責めたてられてはもうコーヒーを味わう気力もなくしていた。コーヒーマグをテーブルに戻した。

 

母親の口調を真似する恐るべき三歳児、見ているとものすごく楽しいです。

以前見た光景ですが、二歳の女の子が、三歳の男の子の行動を見てつぶやいた言葉「子供なんだから」というセリフは笑えました。

子供はよく見て聞いています。大人が思っている以上に賢い。侮ってはいけません。

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