出産後の入れ替わり
そうっとドアを開ける。家の中は静まり返っていた。
子供たちはとっくに寝ているはずだ。
しかし、すぐに奥から涼子がひょいと顔をだした。待っていたのがわかった。
「清乃は?」
「寝てる。さっき、おっぱい飲ませたから当分は寝てくれると思う」
ほっとする。
入れ替わったら夜中の授乳は、オレの仕事になるのだから。
「今夜は一緒に寝よっ。清乃が起きたら私も一緒に起きる。どんなふうにすればいいか、教えてあげるから」
「ん」
たかが、赤ん坊に乳をあげるだけで、いろいろと教えてもらわなければならないほどの手順があるとは思わなかった。泣いたらヒョイと乳を出して吸わせればいいんだろう。飲んだら寝かす、それだけのことなのに。
「ねっ、大丈夫よ。明日、私が家のこと、全部やる。あなたは清乃と一緒に起きて、寝ていてくれればそれでいいの。なるべく体を休めてね」
うん、とうなづくオレ。
別にそんなことをわざわざ言われなくてもオレなら大丈夫だ。
じゃあ、と涼子が自分の髪の毛を引き抜いた。それをオレに差し出す。
ポケットの中の袱紗にくるまった水晶地蔵を取り出し、オレは涼子の髪の毛を巻き付けた。涼子も、同じ袱紗を取り出した。オレの髪の毛を入れて再び、つつんでいた。
これを子供の手の届かない、寝室の本棚の上におく。そうしてベッドに入れば、お互いの体が入れ替わっているはずだった。
もしも起きているときに入れ替わったら、どんな感じになるんだろう。いろいろ頭で考えたが、そんな不思議なことは想像もつかない。
さっさと寝る支度をし、涼子と一緒にベッドに入った。
気づくとオレは、誰かに体を揺さぶられていた。どっぷりとつかっている深い眠りから、無理やり引きづり出されるような感覚に襲われていた。さらに強く揺さぶられる。
なんだ、なんだってんだ。それほど寝ていないのに。
起きようとしても起きられない。目が開かない。脳がドロドロに溶けてしまい、頭が働かない状況だ。
「ねえ、起きてよ。清乃が泣いてるの」
オレの声だ。その言い方は実に女っぽくて、気持ち悪い。まるでおかまのよう。
何が何だかわからなかった。
また少々乱暴に揺さぶられていた。
「なんだよっ」
そう言って、自分の声に違和感を感じた。
女の声、途端に目が開いた。そして、やっと赤ん坊が泣いているのが聞こえてきた。
ああ、そうだ。オレ達はまた、体を交換したんだ。今はオレは涼子の女の体に入っているんだ。
夜中の授乳だった。
《オレの体の涼子》が、泣いている清乃を抱いてくる。やっと目を開けた。かすかな光のフットライトでさえ、まぶしい。思わず顔をしかめる。
体を起こすと頭がくらくらしていた。これが涼子の体の現実だったのか。ずっと寝不足でいる、二、三時間おきに起こされる授乳する体なのだと実感していた。
すぐさま、ベッドの壁に寄り掛かれるように、背中にクッションを置いてくれる。そして、膝にも枕をおいた。
清乃は空腹を訴えていた。すごい勢いで泣いている。
オレがすぐに起きなかったからだと思った。《オレの体》の涼子が清乃を抱っこし、その枕の上に清乃を置いた。
「こうすれば授乳中、腕が疲れないの。でも寝ちゃだめよ」
「うん、わかってる」
《オレの体》の涼子が、《涼子の体》のオレに触れてきた。ちょっと顔を胸元に寄せて、パジャマのボタンを外そうとしていた。その動作にドキッとし、同時にギクリとしていた。
オレは咄嗟に中野の言葉を思い出していた。自分の体に襲われたということをだ。反射的に身をよじっていた。
《オレの体》の涼子が驚いていた。
「えっなに? 早くおっぱい、あげて。清乃が・・・・」
「あ、悪い。そうだった」
オレは清乃を抱きかかえながら、片手でボタンを外した。
で? そこから出てきたのは授乳ブラ・・・・。戸惑っていた。
「ほら、こうやって外すのよ」
ブラジャーを外さなくても授乳がしやすいようにうまくできているものなのだ。
「いい? おっぱいをあげた後は、新しい母乳の吸収パッドと交換してね」
ん、考えていた以上に面倒くさい。
結局、涼子のされるがままになっていた。
しかたがなかった。赤ん坊は、一体何をやってるんだ、乳はどこだとばかりに泣いていた。やがて、その声はまるで、車のエンジン・ターボがかかった時のように激しさを増していた。
〈オレの体〉の涼子の手ほどきで、乳首に赤ん坊が吸い付いた。
それまで、オレは本当に授乳というものを軽く見ていた。うん、こんなこと、簡単だと思っていた。ちょいっとおっぱいをあげて、すぐに眠れるものだと考えていた。
しかし、これはとんでもない体験だった。男のオレには、今までに経験したことのない感覚が走ったのだ。
赤ん坊の柔らかな唇の感触と、ものすごい勢いで乳首を吸われる感覚。
背中のあたりがゾゾゾとした。肌が粟立っていた。
「うわあ」
オレは思わず声を上げ、吸い付いたばかりの赤ん坊をひきはがしていた。
無理やりだったから、チュパという派手な音がして、ピリリという痛みが走った。
「イテッ」
清乃は、せっかくありついた乳から、無理やりひきはがされてしまい、今度は渾身の力を込め、抗議をするかのように、腹の底から声をあげてますます激しく泣きはじめた。
やばい、こんなに激しく泣く清乃は初めてだった。まるで今までコントロールしていた車のおもちゃが暴走しはじめるかのようだ。
清乃が壊れてしまうかもしれない勢いで、泣いていた。清乃は全身に力を入れて、見事にのけ反り返っていた。オレもパニックになる。オレはなんて情けない父親、あ、今は母親。
《オレの体》の涼子が慌てて清乃を抱く。そして部屋の灯りをつけた。
眩しさに目がくらむが、痛いと思った乳首から血が出ていた。
火がついたように泣く清乃をあやし、《オレの体》の涼子がそれを見てため息をついた。
「本当にもう、どうしたの。急に外すから、ああ、傷ついちゃったじゃない」
「うっ、すまん」
素直に謝る。
「仕方がないわね。じゃあ、こっちで」
涼子は、もう片方のおっぱいに清乃を近づける。
恐怖が走った。冗談じゃない。
オレは身をよじって抵抗する。
「もう嫌だ、あの感覚は我慢がならない。いくら赤ん坊でもだめだ。ぞくぞくする」
そう叫ぶと、《オレの体》に頭を軽くパシッと叩かれる。
「何考えてんのよっ。赤ちゃん相手にまったく、信じられないっ」
「いてえよ。叩くことないだろっ」
「いいじゃないの、私の体なんだし」
聞いた、今の問題発言。聞いたぞ。いいじゃないの、だと? 私の体なんだしって、今はオレの体なんだ。もっと尊重しろっ。
そう抗議したかったが、今は下手に出た。
「お願いだ。この慣れない感覚、耐えられない。これ以外だったら何でもする、これだけは勘弁してくれっ」
おねがいしますだ。勘弁して下せぇ、お代官様、と泣き叫ぶ農民と化したオレ。哀れだった。
「仕方がないわね。じゃあ、ちょっと待ってて」
ポンと清乃を渡される。
「左右に揺らしながら、背中をポンポンって叩いてあげて」
そう言って、《オレの体》の涼子は寝室を出て行った。
何をするつもりなんだろう。それも不安にさせた。
血が出ている乳首、泣き叫ぶ清乃。
オレはこれからどうなっていくのか。
もう金輪際、身代わりは嫌だ。涼子がやりたければ、オレの体を使えばいい。オレは地蔵の中で寝ているから。楽ができるなんて思って、入れ替わりなんかを承諾したからこんなことになったんだ。
きちんと身代わりができないのなら、最初からやるな。そう自分を戒めていた。
じゃあ、その場合、地蔵が授乳をするのかな・・・・。また変なことを考える。地蔵だったら、こんな反応をしないでちゃんとできたのか。地蔵は男女の区別がないはずだ。う~ん、できるのか、できるんだろう。
清乃は空腹と怒りを全身で現わせていた。こんな清乃をなだめることができるのか。ひきつけでも起こしそうな勢いで泣いている。
オレは、早く涼子が戻ってこないか、と待っていた。
女性の皮膚は、男性よりも10倍も敏感なのだそうです。




