とっても草食な中野
そんな中野の恐怖の告白を聞いた後、オレ達は黙りこくってしまった。何も話す気になれなかった。
中野も当時の恐怖が蘇ってきたらしかった。怯えたような顔をしている。そんなことを他の人に告白してしまった罪の意識も感じているのだろう。また、ビールを煽るが、酔い切れないみたいだ。
そんなオレ達の方を、カウンターの後ろにいる店長らしい人がチラチラとこっちを見ていた。中野の友達だから、心配しているらしい。
新たな惣菜が運ばれてきた。
から揚げと大根サラダだ。きっと中野の好物なんだろう。
中野が、やっと店長の方を振り向き、無理やり笑顔を作る。大丈夫だというように。中野が再び話し出す。
「あいつにも気を使わせてしまって・・・・。妻とは、この居酒屋で知り合ったんです。もうその時、僕は広告の仕事をしていたんですけど、たまたまここへ来た時、大わらわで臨時で僕が手伝いに入ったんです。その時、ここでバイトしていた妻と話すようになって。ちょっと気は強いけど、かわいい人でした」
過去形で、妻を褒めた。じゃあ、今は違うのかと突っ込みたくなる。でも、わからなくもない。
出会ったころは皆、相手が輝いて見える。普通にコーヒーを飲む仕草でもかわいくみえるものだ。拗ねた顔も愛らしいと感じる、それが恋の魔力。
ところが、つきあいが長くなればなるほど、魔法に慣れ、色あせた写真のようになる。顔を見た時のときめきもなく、気を使わなくなるから向こうも小言が増えるし、ため息も平気でつく。それはお互い様だろうけど、オレ達、好きあって結婚したんだよなって疑問に思うこともある。
そういう魔力を長く保つには、お互いに常に変化をしていく努力をないとダメなんだろうな。
「店長さん、随分と心配されているみたいですね」
「はい。僕、新婚旅行から帰ってきてから、誰とも話をする気になれなくて、ずっとふさぎ込んでいたから」
「あの方には相談しなかったんですか」
中野がなんてことを言うんだという目を向けた。
「いくら友達でも言えることと言えないことがあります。しかもあいつは妻のことも知っているし。これは同じ波長を持った井上さんだから、言えたんです」
そうか、同じ波長か、うまい言い方だった。
「それから僕たちは時々、ここ以外で会ったりしました。食事とか映画とか、誘われるままに出掛けていたんです。でも、僕にはそれが恋人同士のつきあいだっていう意識がなくって」
なんだ、そりゃ。
「中野さんは、つきあってるとは思っていなかったってことですか」
普通、誘ったり誘われて、一緒に出掛けるようになれば、お互いを意識しているってことだろう。普通の友達以上だから一緒にいたいと思うんだ。
「はあ、僕にはそんな自覚はなかったかな。彼女、たまたま目の前にいた僕を誘ってくれたんだとばかり思ってましたから。何回か飲みにも誘われて・・・・、ある日突然、酔っちゃったみたいだから休んで行こうって言われて、ホテルへ連れ込まれました」
「えっ」
聞き間違いかと思った。中野の言葉は全て、受け身だった気がしたからだ。
誘うのは向こうからでも、飲みに行き、ホテルへ連れ込んだのは普通、男である中野だろうと思った。
「あの時、翔子ちゃんが、もうこうなってもいい頃だって言って、それからも会うたびにそういう関係になっていったんです」
やっぱり、オレの聞き間違いなんかじゃなかった。そうか、女性の方に積極的に誘われたんだ。
その翔子ちゃんって、すごい。どんな感じの奥さんなんだろう。興味が湧いてくる。
中野はかなりの草食男子ってやつだとわかった。女性と出かけても特別な事とは考えずに、同性の友人のように接することができる。というか、肉欲をあまり感じないタイプなのだろう。
たとえ女性の方が誘ったにしても、最終的には男の方もその気になるはずだ。それが中野は連れ込まれたという言葉に、無理やりなニュアンスが込められている。
奥さんも、ただ食事や映画に誘われるままにつきあう中野に、やきもきしていたに違いなかった。何のアクションもしてこないから、業を煮やして強引な手段に出たのだろう。
「そんなことが何回かあって、妻が妊娠を告げてきました」
ぎょっとした。
そんなことがあってもいいのか。ホテルに連れ込まれ、無理やりその気にさせられて、挙句には相手が妊娠したって。
「気づいた時にはもう向こうの親に紹介され、結婚式の日取りまで決まってました」
愕然とした。
いくらボーっとした中野でも、もう少ししっかりしろよとその体を揺さぶりたい衝動に駆られた。
同じ波長を持つからなのか、庇ってやりたい、そんな仲間意識が湧く。これは絶対に奥さんに仕組まれて結婚させられた感じだ。
「でも中野さんは奥さんのこと、どう思っていたんですか。好きだったんですよね」
恐る恐る聞いた。これで別に、なんて言われたら、この結婚は悲劇になる。
「はあ、好きって言うか、気づくといつも一緒にいてくれて、世話を焼いてくれる親切な人って感じで、嫌いじゃありません。そういうことを好きって言うんでしょうね、きっと」
いまいちよくわからない反応だが、とりあえず好きなんだろう。
この人は自分の趣味や関心が向くこと以外は考えられないんだと思った。オレもそういう傾向はあるけど、涼子とは好きで一緒になったと断言できる。
「僕、あの夜以来、あのことがトラウマになってるんです。朝、目覚めた時、また妻の体に入っていたら、どうしよう。そしてまた、襲われたらっていう恐怖・・・・。同じベッドに寝るときもドキドキして恐怖なんです。だから、妻が先に寝入るまで待って、僕も寝る、そんな生活が続いています」
トラウマか、厄介なことになった。このオレがそんな中野の力になれるのか。これはオレだけの判断じゃ、解決なんてできないだろう。
その時、オレの携帯がなった。もう十一時をすぎるところだった。
涼子がオレに帰って来いと促していた。
中野も時間の経過に気づいた。
「あ、すみません。こんな時間になってしまって」
「いえ、今日はこれで失礼しますが、また後日、飲みませんか。今夜の話、僕なりに考えてみます」
オレがそういうと、中野はまた救われたという難民のような嬉しそうな表情を浮かべる。
「ありがとうございます」
こういう子供のような笑顔が女性の母性本能をくすぐるのだろう。
中野も立ち上がった。オレは財布から一万円札を出した。
「あ、いえ。ここは僕が」
「でも、結構オレも飲んだし、」
この人と対等な立場でいたかった。
しかし、中野はきっぱりと首を振る。
「本当に大丈夫です。ここの店長、酒代しか取りません。それに今夜は僕の話を聞いてもらったお礼です。本当に気になさらないでください」
そう言われて、じゃあ、とご馳走になることにした。
一緒に店を出る。マンションへの道のりを歩きながら子供の話をした。
それでわかったのは、この中野は生まれてきた子供をすごくかわいがっていることだ。時間さえあれば、もっと家で育児もしたい、家事も手伝いたいと思っている貴重な存在だった。
オレに何ができるだろうかと考えていた。身代わり地蔵に係わっているから、涼子に相談してみようと思った。
草食男子、一度書いてみたかったんです。




