不思議な水晶地蔵
このままどっかヘ行ってしまおうか、とまで思いつめていた。しかし、失踪したら、ゲームができない。映画が見られないではないか。そんな人生なんて終わったも同然だ。
会社が終わっても帰りたくなかった。どこをどう歩いたのか覚えていなかった。いつもの駅で電車に乗らず、ずっと歩いていた。どこかのガード下をくぐって薄暗い一角を通り過ぎる。
その角に赤い蝋燭を立てた易者がいた。
こんなところにいても商売にはならないだろうな、と思った。オレがその前を通り過ぎようとしたときだった。
「ちょいとお待ち」
声がした。
しかし、オレに向かって発せられた言葉ではないと思っていた。そのまま歩いていた。再び、今度ははっきりと呼び止められた。
「お待ちったら、困ってるんだろう。あたしゃ、お助けの女神さ」
足を止めた。困っているのは確かにオレだった。なんでわかるんだろう。一体、場末のお助けの女神って・・・・。
オレは女神を振り返った。疑問? どう見ても女神には見えなかった。若向けの化粧をたっぷりとしているが、たぶん、その素顔はオレの母親の年に近い。しかし、オレが困っていることがわかるってことは、本当に助けてくれる人なのかと思った。
「はい、困っています」
この婆さんが、ライバル社の竹内を呪い殺してくれるというのか、それとも旅行が中止にできるとでも?
それじゃ、女神じゃなくて魔女だろう。
でも、何らかの方法でオレがお泊り接待に出なくていいのなら、大助かりだ。
そんなオレの心情を読んだかのように、魔女、いや、女神は笑った。
その時のオレは実に冷静だった。この婆さんに相談するのはいいが、一体いくらかかるのだろうと思った。シビアに現実を見ていた。あまり高かったらやめておこう。クビになったら節約しなければならないから。
「いくら?」
単刀直入に尋ねた。
婆さんは意外そうな顔をした。
きょとんとしたかと思うと、「ああ、相談料のことだね。一晩、私の値段を聞かれたかと思った」などと、どつきたくなるようなことをつぶやく。
「大丈夫、ぼったくりはしないさ。あんたにはこれを貸してやる」
婆さんはゴソゴソとテーブルの下から、紫色の袱紗に包まれた小さな物を取り出した。
それは透明な三センチほどのお地蔵だった。
こんなに小さくてもにっこり笑っている。渋面の人でも思わずつられて笑顔になる、そんなかわいらしさだった。
「これは身代わり地蔵という。かなり上質な水晶でできているんだ。今からあたしがこの地蔵に、あんたの魂の一部を取り入れる。そしたら必要な時にこの地蔵があんたになり、三日間を過ごしてくれる。普段のあんたのように、でもかなりましな行動をしてくれる」
マジマジと見ていた。
こんなものがオレの身代わりとして三日間も行動する? 何とかしてくれるっていうのか。本当か。そんなこと、すぐに信じられるわけなかった。
オレがぐずぐずしているのを見て、婆さんは顔を歪めた。
「じれったいね、時間がないんだろう。あたしにはわかるんだよ。今夜からこれを使わないと時間がない、そうだろう」
そうだ、明日の朝にはもう空港へ行かなくてはならないのだ。
「いてっ」
婆さんが、勝手にオレの髪の毛を抜いたのだ。その髪の毛を水晶地蔵に巻き付けると、不思議なことにすっと髪の毛が地蔵の中へ入っていた。
「さあ、これでいい」
それを見て、ようやく信じる気になった。
「でもさ、入れ替わってこの地蔵が失敗をやらかしても、オレの責任になるんだよね?」
気になることを聞いておく。
「今のあんたよりはうまくやれると思うよ。この地蔵は今までにもいろいろな人の身代わりになって、窮地を助けている。いわば経験豊富ってとこだね。どうせ数十年しか生きてないあんたよりはうまく切り抜けられるだろうさ」
そう言われるとなるほど、と思う。
「リスクは何にでもついて回るものさ。大丈夫、きっとうまくいく。特にこの水晶地蔵はね、ベテランなんだよ」
他にもいろいろなキャラのアイテムが有りそうな言いぐさだったが、もうすでにオレの魂、つまり髪の毛を取り入れられてしまったから、この地蔵でやるしかない。
「で? 代金は?」
ドキドキした。
「レンタル料金三千円」
耳を疑った。そんな大それたことをしてくれるのだから、数万円はするだろうと覚悟をしていた。
「へっ、たったの三千円で身代わりをしてくれるって、マジ?」
「そういうこと」
婆さんは、ニンマリと笑った。
改めてよく見るとこの薄暗がりに赤い蝋燭、その婆さんの不気味な笑いは鳥肌が立ちそうなくらい怖い。
「あんたの経験が、この地蔵の透明度を高めてくれるんだよ。こっちにも利益があるんだ。だから、その金額でいい」
ふぅ~ん、と思ったが、水晶地蔵を見て、こいつもこの婆さんに騙されていいように利用されているかわいそうな身の上なのかもしれないなと思ったりした。
「いいね、今から大事なことを言うよ。この地蔵に身代わりを頼む時、その前日の夜から準備をしなければならない。そうするとあんたは今夜にもやらないといけないね」
そうだ、そこのところ、よく聞いておかないといけなかった。
「今夜から使うと三日目の真夜中に効果が切れるから、気を付けるように。その時は一人になるか、寝ていることが望ましい」
オレは宙を見て考えた。
今日は水曜日、もうそろそろ木曜日になる。ってことは、土曜日の真夜中に元に戻るんだな。大丈夫、旅行は明日から金曜日の夕方まで。土曜日は休みだから家でゆっくりしていられる。楽勝だ。
「まず今夜中に、あんたが入り込む身代わりの体を探さなけりゃならない。いいね」
「え? オレが入り込むって・・・・・・どういうことだ」
全くこの婆さんは気が短い。オレがぽかんとした顔で聞き返すと、またまた顔を歪めた。
「水晶があんたの体に入って、あんたの身代わりに行動するだろっ。あんたもその間、誰かの体に入ってその人として三日間過ごすんだ」
「え、ええっ」
てっきり地蔵が身代わりになるから、オレが地蔵の中に入り込んで三日間、寝ていられるのかと思っていた。
婆さんはため息をついた。
「わかってる。これが身代わり地蔵のいいところでもあり、悪い所でもあるんだ。地蔵はね、人の身代わりになるけど、その間、あんたがのほほんとして過ごすことを嫌う。その間、誰かの体に入って何かを悟ってほしい、学んでほしいらしい。どうして身代わりを立てるほど自分の人生が嫌なのか、なぜ、こうなってしまったのか反省してもらいたいのかもしれない」
黙り込んでしまった。奥が深いというか、そう簡単にいかないというか。それも当然だと思う。しかし、オレも誰かの体に入り込むなんて、冗談じゃない。
「いいね、まず入り込む人の髪の毛を手に入れる。引き抜かないといけないよ。抜けているものだと誰のものかわからないし、毛根がついていないとお前さんは入り込めない」
なんだか、大変そうな話になった。真剣に聞いている。
「その髪の毛をこの地蔵に巻き付け、この袱紗で包む。短い髪の毛でも地蔵と一緒に包めば大丈夫。それを大事に保管しておいて寝る。そうすると朝には入れ替わってる」
オレは頭の中で婆さんの言ったことを反芻していた。
地蔵がオレになるが、オレも誰かの体に入って三日間を過ごすってこと。その人の髪の毛を手に入れて、この地蔵と一緒に包めばいいんだ。
誰の体に入るかが問題なのだ。
オレはさっと浮かべた顔があった。オレと同じ年だが、独身のイケメン、女をとっかえひっかえして遊んでいる奴。あいつと入れ替わったら、三日間楽しい思いができるかもしれない。自称引きこもりとは思えない考えが浮かんでいた。
婆さんは、咄嗟にオレが邪な事を考えたことを悟ったみたいだった。押し殺した怖い声で言われる。
「悪いけど、あんたが他の人の体に入って悪いことはできないようになってる。その体の持ち主のいつもの行動とあんたの思考範囲内でしか動けない。人の体に入って犯罪を犯そうとかその人を陥れるために悪さをするってこともできない。そんなことをしたら、地蔵の効果はなくなる。突然、地蔵は愛想をつかして出ていくだろう」
「あ、ごめんなさい」
オレはつい謝っていた。
「いいよ。最初は誰でもそういうことを考えるものさ」
誰でもって、割とここは盛っているようだ。
「で? オレがその人の体に入って身代わりをするけど、その人はどうなるんだ?」
「そうそう、その人こそが、この水晶地蔵の中で眠る。三日間、その人の休息となる。すっきりするよ。ちょっとした病気とか怪我も治っちまう。体に戻ればその間の記憶もあるし、その人も得をするんだ。体を拝借したお礼とでも言おうか」
へえ、と思った。本来ならその休息の役が欲しかった。
でも、こんなにすごい水晶、猫糞する奴もいるんじゃないのか。
「もし、オレがこの水晶地蔵、返さなかったら?」
怖いことを聞いていた。
それもよくある質問なのだろう。
「大丈夫、この地蔵は任務を終えると勝手に帰ってくるから。あんたが自分の体に戻るとこの地蔵は消えているよ」
「じゃあ、返しにこなくてもいいんだ」
「そういうことさ。そう言う手軽さもあって、リピーターも多い」
婆さんは、頬のあたりの化粧の壁が崩れそうなくらいの笑みを浮かべた。
「五回以上のリピーターには割引もするよ。二千五百円」
わずか五百円だが、うまくいけば悪くない。
それに五回以上身代わりをしてもらうというつらい人もいるってことなのだ。それを聞いてなんだか胸が熱くなっていた。オレだけじゃないんだ。人生、つらくなって投げ出したくなること、できれば回避したいこと、オレだけがそんな甘いことを考えているわけじゃないんだ。それがわかっただけでもうれしい。
「ありがと、婆さん、いや、女神さん」
オレは三千円を支払った。その地蔵が入った袱紗を受け取る。大事に胸のポケットにしまい込んだ。
「あ、いけない。大事なことを言うのを忘れた」
えっ、おいおい。大丈夫か?この婆さん。
怪訝そうな目で見てしまった。
「入れ替わる体は異性ってことになってる。だから、あんたは女性と入れ替わらないといけないんだよ。同性じゃ何の変化もない。気を付けるように」
「え、異性?」
茫然としてしまった。
オレは今からあの独身イケメンのところへ繰り出そうと思っていたからだ。いきなり行って、髪の毛を引き抜いて帰るつもりだった。
冗談じゃない。女になる、しかも三日間だ。
婆さんは、オレの背中を押した。
「さあさ、早く身代わりを見つけて入れ替わらないと明日に間に合わないよ。できれば家族がいいかもしれないね。奥さんとかお母さんとかさ」
なんか、誤魔化されたような気分だった。
電車に揺られていた。
どうしよう。今夜中に身代わりを見つけないといけないのだ。でも女になるってことが二の足を踏んでいる。
電車が駅で止まり、ドアが開いた。
二十代前半くらいの若い女の子たちが五人、乗り込んできた。みんな飲んだ帰りのようで上機嫌に笑いあっていた。
その中の一人、目を引く可愛い女の子がいた。その子だけは声を張り上げず、みんなの話に合わせて笑っている。控えめなところがいい。
艶のある長い髪、化粧も濃すぎず上品だ。痩せすぎないそのスタイルも女性の魅力を引き出していた。
変わるのならあんな子がいい、あの子の中に入りたい、と思った。
しかし、オレは次の駅で降りた。そのまま家に帰る。そんなことはあり得なかった。
きっと小説なら、突然電車が急停止したりして、オレが彼女を抱きとめて、偶然、彼女の髪の毛が手に入るんだろう。そしてあの子に成りすまして三日間を過ごす。
でも・・・・・・。あんなに可愛い女の子なんだ。彼女は記憶にないとしても、こんなオレがあの子の体に触れることになる。オレにはあの子の身代わりになる自信はなかった。第一かわいそうだろう。
オレってこんなにいい人だっただろうか、と思った。もしかしたらこの水晶地蔵のせいかもしれない。悪いことはできないと言っていた。