中野のショックの理由
「で、中野さん。話があるんじゃないんですか」
オレはそう切り出していた。
オレ達は中野の仕事の話しかしていないのだ。
腹を満たす目的なら、もう達成している。充分食べた。帰ってもいい頃だ。しかし、この中野はますます浮かない顔をしていた。なにかオレに話したいこと、聞いてもらいたいことがあるはずだった。だから、ビールの消費が進んでいる。
「あ、すいません。僕が誘ったのに・・・・」
それでもなかなか口を開こうとしない。話しにくい内容なんだろう。
「中野さん、やりがいのある仕事をされているみたいでうらやましいです」
中野が意外そうな驚きの表情をみせた。
「え」
「生き生きとした顔をして仕事のこと、語ってたからそう思ったんです」
「ああ、仕事は好きです。今、個人的にもあちこちから仕事の依頼が入ってきていて・・・・忙しすぎるくらいで・・・・」
中野は笑顔で言うが、その顔が曇った。
「僕はフリーのデザイナーになりたいんです。今、会社に行って仕事をし、家へ帰ってから個人の仕事をしてます。それでもいいんです。好きな事だから、でも娘と一緒にいたい、遊んでやりたい、家のことももっと手伝ってやりたいんです。それにはもっと時間が必要で・・・・」
驚いた。オレと違うところを発見した。中野は子供、妻とも係わりたい派だった。オレはそうじゃなかった。家の事、子供のことは女がやるべきだと思っていた。
「会社を辞めて、フリーになればもう少し家での育児、手伝いなんかもできると思うんです。でも・・・・」
「えっ、でも?」
「妻が猛反対したんです。会社をやめることを。今のまま、毎日出勤していれば、毎月決まった給料がもらえるからって。フリーになって依頼が来るときはいいけど、もし来なかったらどうするんだって噛みつかれました」
ああ、わかる。女の先読みだ。
男の遣り甲斐よりも毎日の生活が大事だということ。安定した収入を望んでいる。その気持ちもわからなくもないけどな。
オレだって、あのマンションのローンをまだまだ払い続けなければならない。子供もいるし、先のことを考えるとやりたいことよりも、堅実にお金が入ってくる仕事をする方がいいと考える。
でも、この中野はやりたいことがはっきりしているんだ。人生の内にちょっとだけでもその冒険をさせてやってもいいんじゃないか。オレみたいに、だらだらしたり、ゲームができればいいって言うんじゃないんだ。好いた惚れたの仲だったら少しは理解してやってもいいかと思うが。
「翔子さん、あ、妻ですが、もっと僕のことを認めてくれていると思ってたんです。そんなことを言われて、すごくショックでした」
そこまで中野は熱く語ったが、すぐに下を向いた。
「ああ、そんなことを言うために井上さんを誘ったんじゃないんだ」
ブツブツと独り言を言っている。
独立を妻に反対されたという相談じゃなかったらしい。また、黙り込んでしまった様子を見ると、もっと言いにくい、シリアスなことを秘めているらしい。
中野はやがて意を決したかのようにオレを見た。
「あの・・・・・・信じてもらえないかもしれないんですが、一応、最後まで僕の話を聞いてください。たぶん、そんなことあるはずない、夢でも見たんだって言われるかもしれないんですが、それでもいいんです」
「はあ・・・・」
そんな前置き、ちょっと怯む。
「すいません。井上さんには親近感が湧くというか、話しやすいというか。今朝、初めて会った時から、この人なら僕の話を聞いてくれるような気がしたんです」
そう、オレ達は同類だ。オレもそう思った。しかし、オレも覚えていないがたぶん、今朝、初めて会ったんじゃないと思う。その皮肉な意味も含めて、オレは少し笑ってみせた。
「聞きますよ。オレでよかったら」
そういうと中野は子供のように破顔した。今時の大人がこんな表情をするのかとも思う。心が純粋なんだな。
「実は、つい最近、僕たち遅い新婚旅行へ出かけたんです」
ああ、それなら聞いている。松田もオレ達もハワイだったから、どこのビーチがよかったとかどこのレストランがおいしかったとか具体的な話をしていたんだ。
中野は半年になった子供を奥さんの実家に預け、五日間、ハワイへ行ってきたとのことだ。
「喧嘩でもしたんですか」
さっきの、奥さんから会社をやめることを反対されたという会話を思い出していた。
見ると中野は思いつめたような顔をし、首をぶんぶんと振った。
え、違うのか。じゃあ、なんだ。
思いつめたような表情の中野は意を決して口を開いた。
「実は僕、三日間、別人になっていました」
やっとそう言った。
中野はそう言って、オレの反応をみた。
「別人って?」
どういうことなのか。
「はっきり言いますと、僕は妻になっていたんです。朝起きたら、自分の体が横に寝ていて、僕は妻の体になっていました」
オレは息を飲んでいた。顔も強張っていたかもしれない。
まさしく、その現象は、あの身代わり地蔵だった。あのおかげで、男のオレが、出産などという人生で最大の産みの痛みを味わったのだ。
まあ、それがあったからこそ、オレ達は再び向き合えるようになり、今は仲のいい家族をめざしているわけだが。
あれこれ考えていた。中野はオレが黙ったことから、信じていないのだと感じたらしい。
「本当なんです。朝起きると僕が翔子ちゃんだったんです。目の前に僕の体がいて、翔子ちゃんのような口調で、あれこれ指図してくるんです」
中野は続けて言う。
「僕は、翔子ちゃんの洋服を着せられて、髪の毛も整えてくれておまけに化粧まで念入りにしてくれて。あれは絶対に僕じゃない。僕にそんなことできないはずなんです」
中野が少しパニックになっている。当時を思い出したのだろう。わかる気がした。何の説明もなかったら、オレだってそうなるだろう。
しかもこの現象は、涼子が思いついた同時入れ替わりのようだ。あの時オレも、涼子の中に入る覚悟をしていたからいいが、この中野は朝になったら入れ替わっていたと言っている。それは本人が知らないでそうさせられたということになる。それはルール違反にならないのか。




