気になるマンションの住人たち
降りて来たエレベーターに乗り込む。
既にスーツ姿の男性が一人乗っていた。やはり、その人の手にもゴミの袋があった。
同じマンションの住人だから、皆、同じ状況のようだ。朝、夫が出勤の時、ごみ収集所へおいていく。
いつものように伏し目がちで、会釈をしながら乗り込んだ。そしてエレベーターの一番奥の壁にピタリと張り付いた。
オレはエレベーターが苦手だ。ここほど気まずい密室はないからだ。全く知らない人なら特に気にすることもないのだが、中途半端に顔を知っている者同士が一番気を使う。
親しければ話もできるが、オレにそんな存在がいるはずもない。だから、人の顔を見ずに会釈だけして、一番奥へ立つ。後は目を閉じるか下を向いて、《話しかけないでくれオーラ》をひたすら出すのだ。
だが、エレベーターのドアが閉まるかどうかの時に、それが打ち破られた。
「あ、待ってください。乗ります」
という声がして、走ってくる人がいた。
ドアの開閉ボタンの近くに立っていた男が、慌てて開ボタンを押した。再びドアが開く。
「ありがとうございます」
ハアハアと息を切らしている。エレベーターの中へ駈け込んできた。
その人もゴミ袋を下げていたから、オレは思わず吹きだした。もう一人の男もその笑いの意味がわかったのだろう。失笑していた。駈け込んできた男は、なぜ自分が笑われたのか気づいていないようで、きょとんとしていた。
オレが持っていたゴミ袋を見せる。もう一人も前に突き出して袋を見せた。それでやっとオレ達が笑った理由がわかったみたいだった。
さっきまで重苦しいエレベーターの空気が一変していた。笑いって、すごいと思う。このオレが笑うことによって、他人の顔をやっとまともに見たのだから。
先に乗っていた男性と目があう。向こうも笑顔を向けていた。
ものすごいクッキリとした眉、でかい目、ハーフのような高い鼻で濃い顔、イケメンだ。まるで中世の貴族のような高貴な感じがする。こんな人までゴミ袋を持たされるのかと感心した。庶民的な貴族という感じで親しみが持てる。
「おはようございます。井上さん。お二人目、おめでとうございます。清乃ちゃん、いかがですか」
オレはそのイケメンにそう言われて驚いた。
なんだ、なんだ。どうしてこの人は、オレのことをそんなに知っているんだ。清乃の名前まで、一体どこから洩れた情報なのだ。
今までのオレなら、そんな予期せぬ出来事に茫然としてしまっただろう。だが、涼子の体に入って少しは柔軟になったようだ。
一応、動揺を隠し、
「はあ、どうもありがとうございます。おかげさまで、まあ、新生児は大変ですけどね」
と返した。
顔は見たことはある。きっと何度かエレベーターで一緒になったのだろう。けど、オレはこの人のことを全く知らない。
ここで困るのは、向こうがこっちのことを知りすぎていることだ。オレは話をうまく交わさなければならない。うちの娘の名前まで知っている人に、どなたでしたか、なんて聞けるはずがなかった。
「正人くん。また今日もお祖母ちゃんのところですか。最近、留美がブーブー言ってるんです。全然、正人くんと遊べないって」
その留美という名前が、オレの記憶のドアをピンポ~ンと鳴らせた。
聞いたことがあるぞ。そうだ、確か正人がいつも一緒に遊んでいる留美ちゃんだ。おませで、いろんなことを教えてくれるらしい。
そうそう。五階の松田さんだ。涼子がそう言っていた。よし、わずかなキーワードで答えにありつけた。
正人が、留美ちゃんのお母さんはお父さんと喧嘩をすると、彼の洋服を雑巾と一緒に洗うと言っていた。極めつけはトイレマットと一緒に洗ったんだ。その衝撃的なことを鮮明に覚えていた。
改めて、この松田の顔を見る。
こんなにすごいイケメンなのに、とちょっと気の毒に思ったが、喧嘩をするたびに、洋服をトイレマットと一緒に洗濯されるんだと考えたら、吹きだしそうになった。
世の中、案外公平なのだ。いつもイケメンばかりがいい思いをしているわけではない。ちょっと嬉しい気分になっていた。オレ、かなり性格、悪いかもしれない。
笑いを押し隠して、わざと眉間にしわを寄せる。
「今朝、正人が大騒ぎをしまして、今日はおふくろがこっちへ来ることになったんです。涼子が外へ遊びに連れて行けるかもしれません」
と言った。
「そうですか。それはよかった。それなら今日は機嫌がいいかも。留美は正人くんと気が合うらしくて、遊んだときはうれしそうになんでも報告してくれるんです。最近、全然遊べないから、ぷりぷりしてて参っちゃいます」
「へえ、機嫌が悪くなるんですか」
「はい、うちのによく似て、性格がきつくて。気に入らないとプイって横を向くし、口はきかないしで」
松田も苦労しているらしい。そうか、奥さんはそんなにキツイのか。そうだろうな。雑巾、トイレマットだし。
オレはふともう一人を見た。オレ達が話していることも気にせず、ぼうっとしていて自分の世界に浸っている、そんな表情をしていた。
今度は松田がその人に声をかけた。




