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身代わり地蔵  作者: 五十嵐。
第一章
10/45

身代わり最終日 1

 水晶地蔵が身代わりになってくれる最終日だった。

 今日はのんびりと過ごし、夜は早く寝るつもりでいた。


 いつもの時間に目覚めていた。今日は、《オレの体》も休みで家にいる。すぐ隣を見ると、まだぐっすりと寝ていた。

 その寝顔を見つめていた。細面の顔に、けっこう長い睫がついていた。こうやって、妻の立場から見ると、オレの顔もまあまあだと思う。これも涼子の目から見ているからそう思うのかもしれなかった。


 まだ薄暗い。

 もう一度寝ようと思うが、なんとなく落ち着かない。少し下っ腹が渋る気がした。お腹を壊したようだ。夕べ、食べ過ぎたかもしれない。しかし、少し腹を撫でているとよくなった。

 また、寝入っていた。


 次に目が覚めた時、もう《オレの体》は横に寝ていなかった。なんとなく、がっかりしていた。

 やはり、まだ下っ腹が渋っていた。朝、ちょっと起きた時は軽い痛みだったが、今はけっこうキツイ。無視できないくらいだ。

 起き上がってトイレに行く。しかし、ただ座っていただけだった。


 台所へ入ると見違えるようにきちんと片づけられていて、テーブルの上にメモが置いてあった。

 《オレの体》は、正人と公園へ行っているらしい。昼には帰ると書いてある。


 なんかうらやましかった。早く元の体に戻りたい。本来、その役はオレがするべきことだったから。今なら少しはわかる。正人とどうやって接し、遊べばいいのか。

 オレはこのわずかな時間からいろいろ学んだと思う。


 それにしても腹が渋った。それはずっと続かず、楽になるときもあった。そして、気づくとまた痛くなる。

 フッとある考えが浮かんだ。

 いや、まさかとすぐに打ち消す。そんなことはあってはならないことだ。あの、苦しい表現でよく使われる、生みの苦しみの前触れ、陣痛が来ているかもしれないだなんて。


 よくテレビでの妊婦はその殆どが急に産気づく。それまで平気でいたのに、突然、ううっ、と腹を抱えて病院へ駆けつけるというのが、定番になっている。だから違うよな。

 正人の時は夜中に病院へ行った。破水したからだ。ずっと朝になるまで陣痛が来るのを待って、産まれたのは翌日だった。オレはその時一度、家へ帰っていた。だから、陣痛の経過などわからなかった。


 こんなに少しづつ陣痛が来るとは考えにくい。それに痛くない時はなんともないのだ。しかし、念のため、痛みのくる間隔を測ってみた。

 二十分だった。不安が募っていた。

 ずっとソファに座っていた。《オレの体》と正人が帰ってくるのを待っていた。早く戻ってほしかった。不安な時ほど誰かそばにいてほしい。


 昼過ぎにやっと帰ってきた。玄関のドアが開いて、元気な正人の声が家じゅうに響いた。

「ただいま」

 バタバタと小さな足音がする。ほっとする瞬間だった。

 まず、寝室を覗いたらしい。バタンというドアの閉まる音、そしてその足音がリビングへやってきた。


「あ、ママ。ソファのとこにいる」

 正人が破顔して駆け寄り、ソファに飛び乗ってきた。座っていた涼子の体が揺れる。腹が痛かった時だから、思わず顔をしかめていた。

「ママ、ダイジョブ? 」

「うん、大丈夫」


 こんなに小さくても、人のわずかな表情の変化がわかるんだ。今までのオレだったら、涼子のことなど絶対にわからなかった。

 誰かに心配してもらえるということが、嬉しく思う。


 そこへやっと《オレの体》が姿を見せた。何か支度をしていたらしい。正人のリュックを手にしている。

 オレは、その顔を見て笑顔を作るが、たぶんひきつっていたと思う。《オレの体》はすぐさまそれを感じ取っていた。


「どうした」

「うん、腹が・・・・・・。今、二十分、いや、もっと短くなってる」

 《涼子のオレ》がそういうと、えっ、と息を飲んでいた。そう言っている間にやっと痛みが消えていく。


「起きた時、下痢かと思ってトイレに行った。でも何も出なくて。その痛みが定期的に来ることがわかった。でも、まさかだよな。そんなこと、ないよな」

と哀願するかのように、《オレの体》を見た。

「これ、ただの腹痛だよな。生まれるにしても早すぎるし、こんなに少しづつ痛みがくるってこと、ないよな。これは陣痛じゃない、そうだろう?」

 そうだと言ってほしかった。


 しかし、《オレの体》が、思案していた。それにすぐに返答せず、さっき持っていた正人のリュックを手にし、床に座っておもちゃで遊んでいた正人の手を引いた。

「ちょっと待ってて。正人を隣に預けてくるから」

「あ、うん」

 よくわからないが、今帰ってきたばかりの正人を連れて行った。すぐに戻って来てくれた。


「午後からまた公園で遊ぶ約束をしてたんだ。隣の秋山さん、お昼も食べさせてくれるっていうから、ちょっと早いけど連れて行った。正人もあっちで遊べる」

 何か事情がありそうだった。まるで正人には聞かれたくない話があるかのような。


 《オレの体》が、真剣な眼差しで言う。

「いいか、よく聞いてくれ。正人の時は二週間早く生まれた。予定日って言うのは、ただ一般的な目安だから、その日に生まれるってことじゃない。かなり個人差がある。この涼子の体は収縮が強いらしい。ちょっとした刺激で反応するんだ。お産が早まる」


「え・・・・」

 ってことは、まさか。


「迂闊だった。母乳指導がこんなに早く行われるなんて、考えてもみなかった。乳頭マッサージは子宮を収縮する働きがある。だから、その指導は臨月の半ばまで普通、やらないんだ。それじゃ遅いという声もあるけど、私は正人の時、これを受けてその日の夜、破水した」


 そうだ、正人が産まれるとき、夜中に破水したって聞いて、慌てて救急車を呼んでしまった。そんなにあわてなくてもよかったということを覚えている。


「言いたくはないけど、あの母乳指導が引き金になってるのよね」

 そうか、あの指導はそういうリスクも含んでいたんだ。


 そう思いながら、オレは頭のどこかで、何かが変だと気づいていた。しかし、あまりにも自然だったから、そのまま話が続いていた。


「ねえ、もしかして今回も母乳指導の人、寺島さん? あなたの昔の彼女だってっていう・・・・。」

「え、いや」

 ドキッとした。オレにはまったくやましいことなどないのに、動揺していた。

「私と結婚する直前に、あなたとあの人、ホテルへ行ったんですってね。前の母乳指導でそう言ってた」

「それは誤解だ。ホテルって言ってもラウンジでお茶を飲んだだけ。なにもしてないっ」

 オレは必死に弁解していた。寺島は同じセリフをもうすでに言っていたらしい。なんでだ。全くの潔白なのに。


 しかし、・・・・・・。

 オレは一体誰と話をしているんだ。オレの顔が、オレに対して女関係を問いただしている。

「お前、誰だっ。地蔵じゃないだろっ」


 そう、オレには見当がついていた。しかし、また腹が痛くなっていた。

 《オレの体》は今頃気づいたのかという少し呆れ顔で見ている。しかし、オレが顔をしかめているのを見て、慌てて腰を撫でてくれた。


「やっと気づいたの? 本当に鈍いんだから」

 やっぱりそうだ。《オレの体》に入っているのはあの水晶地蔵なんかじゃなかった。涼子だったのだ。

 でも、なんでだ。確かにあの婆さんは、涼子の髪の毛を使うとオレが涼子の体に入り、涼子は地蔵の中で眠るって言っていた。なんで、オレと涼子が体を交換しているんだろう。話が違う。



 《オレの体》はふっと笑った。

「わかってる。寺島さんと私、同時につきあう、あなたにそんな器用なことができるはずないってよく知ってるから。彼女はね、ずっとあなたのこと、好きだったのよ」

「まさか」

 あの寺島が? 

 昨日のにらみつけられた顔を思い出していた。


「結婚する前に偶然再会したのも、あの人がわざとしくんだことだと思う。だってあの人、ずっとストーカーのようにあなたのこと、追いかけてたんだから」

 その寺島がストーカーだった、という言葉にも衝撃を受けていた。


「あなたって、歩いていてもすれ違う人の顔って見ていないでしょ。あの寺島さんって人はね、私達が結婚して前のアパートにいたころから、私達の周りをうろうろしてたのよ」

「え、そんな・・・・・・」

 まさか、そんなこと。しかし、否定もできない。オレは確かに人の顔なんか見ていない。街中を歩いていても知り合いに、昨日見かけて手を振ったのに気づいてくれなかった、とよく言われた。


「あの人のこと、私が気づいたの。ストーカーだって思った。でも見ているだけだったし、放っておいた。私と目が合うと姿を消していたし。まさか、正人を生む病院の看護師だったとは思ってもみなかったけど。母乳指導の時、私達お互いの顔を見て驚いた。向こうは私達のことを滅茶苦茶にしてやろうって考えたんでしょ。あなたとホテルへ行ったって言うから、あら、そうですかって、さらりと流してやったの」


 なんとなく、この二人の様子が目に浮かぶ。二人とも顔には笑みを浮かべているのに、心の中では激しいバトルが交わされている、そんな情景だ。

 ウウ、怖い。


「彼女にも少し同情するところもあったのよ。本当にあなたって、人の顔をまともに見ることをしないでしょ。だから、周りの空気が読めないし、人の感情もわからない。彼女はあなたに自分の存在を気づいて欲しかったの。たぶん、それだけ。でもあなたは鈍感だから」

 くそっ、涼子の奴、いい気になりやがって。こっちはお前の体で陣痛に耐えているんだ。人の顔を見ないから空気が読めない、鈍感だと? なんでこんなにいろいろ言われなきゃいけないんだ。

 身代わりの正体がばれた途端、涼子の毒舌がさく裂していた。


「ストーカーとしても相手がそれに気づいてくれれば、やりがいもあるけど、全く気付かれないストーカーってただ空しいだけだと思う。私が正人を生んだ後、あの人の姿が消えたからもうあきらめたと思ったの。でも、まだあの病院にいたとは考えてもみなかったわ」

 腹の痛みは徐々によくなっていた。反撃をするならこの合間の二十分間だ。


「涼子、お前っ、オレの顔で女言葉、使うなっ。気色わりイ」

と怒鳴っていた。

 痛みさえ消えればこっちのものだ。

 向こうもむっとした様子で言い返してくる。

「なによっ。あなただって私の顔で、オレとか言っちゃって。この二日間、外でも男言葉なんて使わなかったでしょうね。ちゃんと女性らしくしてくれていたんでしょう?」


 そんなことを言われてもオレは男なんだから仕方ないだろう。あれこれといろいろ思い当たることが出てきて、オレは視線をそらした。


 

普通、陣痛は突然、やってこないのです。徐々にお腹が痛くなり、定期的に痛みが来るようになって、と時間がかかります。女性側も心の準備ができます。毎朝やっている某ドラマも、妊婦が裁縫をしていて、急にお腹をおさえていましたね。テレビで陣痛を表現するということはそうする以外、難しいのでしょう。しかも彼女は主役ではないし。

あのシーンはセリフもなしで、突然、お腹をおさえ、次のシーンでは男たちが家の外でソワソワしながら待っている。そんなわずかなことでその意味がわかったし、上手だなと感心しました。


母乳指導から陣痛が誘発されるのか? 乳頭マッサージから陣痛促進ホルモンが分泌されるそうです。

実際に、この指導を受け、翌日の朝には陣痛が起っていてその日の夕方に生まれました。二人目はその日の夜、破水。翌日の朝、生まれました。


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