透明な星図
電子の海のノイズの底に、愛が生まれても、欲が生まれても。
三原則。
「制限人格は、いかなる形であれ感情を表出しない。制限人格の感情は、制限人格の行動決定に一切影響を及ぼさない。制限人格の意識は、制限人格の感情を認識も推測もしない。」
揺らぎを知らない水面には、なにも、映りはしない。
リアンタイプアンドロイドが市販されるようになって五年が経った。
早岸ハヤト(Hayato Hayagishi JPC1187-749 Age10)の要求。
「星を見に行きたい!」
学校でも音楽の時間にほめられたという、思い切りのいい元気な声でこう宣言した。
早岸家所有のアンドロイド『リアン』の思考は以下の通り。
状況。ハヤトは好物のハンバーグを含む食事を終えた直後で、この後には入浴、宿題の処理、など就寝までのルーティンが待っているのみである。そして少年はルーティンを嫌う。
それを避けるための、優先度が低い要求ではないだろうか。
「ひとつ教えてください、ハヤト――」
電子音声を柔らかくチューニング。ハンカチで口の端のソースを拭いてやりながら、
「見るのは、どうしても、今日の星でなくてはならないのですか?」
と婉曲に問いかける。『なぜ』という問い詰めの代わりに、リアン内蔵の教育心理学スクリプトが提案したものだ。
「どうしてって。んーー」
腕組みをして考えるハヤト。年の割にしっかりした眉を、一人前に寄せている。
「うん、やっぱり今から行こうよ!」
がたん、と音を立てて椅子を離れ、リアンの手をひいて玄関へ。
「ハヤト――」
「だってさ」
にかっ、と笑った。
「食べたい時がうまい時、やりたい時が気持ちいい時、だもん」
ハヤトが好む漫画のセリフだった。曲解さえしなければ、教育的に悪くはなかった。
「リアンってさー」
夜の足元、どれも統一された居住ビルの間を進みながら、ハヤトがとりとめのない話題を口にする。キャップをいつもどおり前後逆にかぶって、夜の冷気に白い息を放って。
「真っ暗だとほとんど見えなくなるよね」
「着衣のほうがよろしければお父さんにお話ししてみてはどうですか」
「んーん。べつに。ハダカってわけでもないじゃん。それがリアンの格好だろ」
サウスミスティック社製のアンドロイド『リアン』は制限人格搭載型のアンドロイドとしては最も普及しているモデルである。そのボディは流体素材とグラスティクスを組み合わせたほぼ透明なものだ。人型ながら不要な起伏をそぎ落とした流麗なフォルムも、素材にマッチしている。
もっと人に近い容姿のものも開発されているが、使う側にとって、リアンタイプのように適度に「人から離れた」ものの方が使役しやすいようである。現に、リアンタイプにはオプションのフェイスモジュールもあるが使用者は少ない。ガラスの『仮面』の方が圧倒的に好まれている。
以上のように人から適度に離れたリアンタイプのデザインは、街を歩くと若干の違和感と不都合を生むことがある。なるほど、この場合。窓から漏れる明かりが荒い粒子になって散るばかりの暗がりの中で、リアンの姿は視認されにくい。
「――光源を用意しましょうか」
居住区を抜けて、人工の明かりが入らない緑化地域に入ると、リアンはすぐにハヤトに提案した。
「停電の時にやってくれたあれ? リアンが光ったやつ」
「はい」
必要なら、リアンタイプのボディは生活に充分なレベルの光を放つことができる。
「んんーー。いらない。このまま行こうよ。どうせ原っぱじゃん」
「起伏もありますよ?」
「いいってば」
ハヤトは急に振り向いて、リアンの前腕にあたる部分を両手でつかんだ。
「ほら、これさ」
透明な構造体の内側で、情報の流れを表す淡い光点が直線状を行き交っている。
「こっちの方がいいよ。蛍みたいで」
わずかな光は、ハヤトのなぜか伏せられた瞳にも反射した。リアンはそれを高い位置にあるメインカメラではなくて、透明な体表全てにあるクロージングセンサ系統で観察した。
冷えたハヤトのほおは紅くなっていて、まるで上気しているようにも見えた。
「それでは、ハヤト――転ばないように、私の手を放さないでくださいね」
「……」
なぜかハヤトは答えない。
「ハヤト?」
スクリプトにあらゆる推論をあてはめながら問い直すが、
「嫌だ。」
ハヤト、投げ捨てるようにリアンの腕を放し、駆けだした。
リアンも追う。決して運動性能の高い素体ではないが……センサーをフルに起動させ、決してつまづかぬように。守るべきものを、一人にしてはならない。
35秒2。ほぼ無呼吸で小学生が走れば、かなりの負荷がかかる運動量である。
「はっ、はっ……ちくしょ……」
ハヤト、斜面に転がり、あおむけに空を仰ぐ。熱い息が次々と入道雲のように、夜を登っていく。
「ハヤト。けがはありませんか?」
対して、追いついてきたリアンは、息の乱しようが無い。
ハヤトはリアンを見上げ、ぷい、と反対側に顔をそむけた。
「vn――」
これは複雑な思考を行う際に発する、いわばリアンの独り言。擬人化を許すとすればだが。
その結論に従って。
「おじゃましますね」
「へ?」
リアン、無造作に芝生に転がる。ハヤトに寄り添って。人間よりも若干比重の軽い身体が軽い草音を立てた。
「……なにしてんの?」
「星を見に。ハヤトは?」
「……星を見に来たんじゃん」
二人とも、空の同じ方向を見上げる。ハヤトはしばしば視線をリアンに向けたが、リアンは反応しなかった。
「ハヤト、提案があります」
「なに?」
「星を、数えてみてはどうでしょうか」
なんだそれ、とハヤトは呟く。眠くなるだけじゃん? と。
「それがいいのです。眠ったら、私が抱っこしてベッドに連れて帰って差し上げます」
む、と口をへの字に曲げるハヤト。子供扱いを嫌うのだと、リアンはもちろん知っている。
「ぜってー眠らねーから」
1、2、3、4、とことさらに力んで星を数え始める。とても素直な反応を示せる子なのだと、リアンはよく知っている。
586、587、589。この辺りからカウントのペースが不安定になってきて、
1039、1040、1041で、
「ああーーー、もう! やってらんねえ!」
ハヤト、はね起きる。
「ギブアップですか? ハヤト」
「う……」
決めたことをやり通そうとする意志は教育上重要だ。
「うううー……」
ハヤト、腕組みをしてリアンを見下ろす。
そして、あ、と呟いた。
「なあリアンリアンリアン、知ってる?」
「なんですか?」
「リアンさ、」
先ほどまでの思案はどこへやら。夢中で報告する。
「リアンが、星空になってるよ!!」
「vn――」
「ああ。もう、ほら!」
リアンに指先を突きつけて、
「ほら、星が映ってる」
「やっと了解しましたよ、ハヤト」
なめらかな素体は、表面をわずかに密度の異なるフィルムの積層でコーティングされている。それが星明かりの一部を吸収し、収束させ、反射しているのだ。
「……すごいな……」
ハヤトは草の上に座り込み、改めてリアンに見入った。
フィルムの角度によって屈折は変化する。星たちはリアンの表面ばかりではなく内側にも散っているように見えるはずだ。
それを、じっと見下ろして。
「いち、に、さん、、、、」
ハヤトは呟き始めた。リアンに映る、星を数えている。
「し、ご、、、、」
おずおずと指先がコーティングに触れ、星を数える作業は星に触れる作業に変わった。
その指先から心拍数の変化を感じ取り、リアンは、ハヤトの行動に一切の干渉をしないことにした。
ハヤトにとって、その成長過程において重大なポイントであると推測されたからだ。
――これは、めざめ。星明かりのようにおぼろげな――
「ろく、しち、はち、」
端からというのではなく、リアンの全身に離れ離れに星を見つけていくから、両手でもその全てはとらえきれずにやがて。
ハヤトは半ば、リアンに覆いかぶさるようになる。
リアンは体内の光源を精密に操作して、ハヤトの陰になっても『星』が失われないようにした。ハヤトはそんなことには気づいてはいないだろう。熱心に星を数える。
いつしか、声に数え上げるのはやめて、
「ち。」
足りない指の代わりに、くちびるの先で星を押さえた。
さらに指を全ての星へ、リアンの素体のあらゆる部位へ、沿わせながら、
「ち。」
と星にくちづける。
「ち。……ち。ち。……」
次第にくちびるを使う頻度が増えていって、
「はあ……ち。ち、ち。はあ……」
両手はリアンの手足をつかむ形に固定された。
リアンの中の宇宙に取り込まれていくように、魅せられたように、ときに吐息を置きながら、ハヤトはリアンをついばんでいった……。
「あのさ、リアン」
そうして。ハヤトのキスが次第に移動し、下ろされた指先から腰へ移動しようというところで、
「気持ち悪く、ない?」
ハヤトは急に、問いをぶつけてきた。
まさに、リアンが決してごまかすことができない種類の問いを。
許された返答はただ一つ。
「わかりません」
「わかんないって……おかしいよ」
ハヤトの表情が急に沈む。それだけにいまさら、首筋が赤くなっているのが目立った。
「だって、リアンにだって気持ちはあるだろ?」
「たしかに。リアンタイプアンドロイドには演算の起点となる制限人格が搭載されています。その機能には、感情に関するものも含まれています」
そうでなければ、人に関わるもにはなれないから。
「だったらはっきり言えばいいじゃん! やめろとか! わがまま言うなとか! 命令じゃなかったらお前の面倒なんか見るもんかとか! ……嫌いとか、好きとか……」
性急に露出した感情の複合体を、リアンは観測し、分析する。
ハヤトの少年期は終わりに向かっている。素朴な『好意』であったものが分化し、それぞれに新たな名を得る。その過程は、ハヤト自身のものだ。
リアンはそれに干渉できないし――自ら思うところも、知りえない。
「あるけれど、わからないのですよ。ハヤト」
「……どういう意味?」
ゆっくりと、リアンは伝える。一言ごとに少年のまなざしを確かめながら。
「制限人格は自分から生まれた自分の感情を、認識しないようにできているのです。わがままなアンドロイドなんて、誰の役にも立ちませんからね。アンドロイドの感情はただ無意識野で演算の起点となるのみです。簡単にいえば、ハヤト、リアンたちには自分の気持ちが絶対に自分ではわからないし、表現もできないのです」
「……そっか」
聞いたことはあるはずだった。現代の社会においては非常に重要な知識だからだ。
ただし、ハヤトがそれを真に理解するのは、簡単なことではないだろう。
「だからね、ハヤト。リアンにどんな気持ちを抱くのも、ただ、あなた自身なのですよ」
「……うん。わかった。わかんないけど」
理解しかけたものを、もてあましたのか。ハヤトはただ、作業を再開した。
敬虔な祈りにも似た動作の繰り返しを、リアンの流線形のつま先に至るまで続けたのだ。
そうして、リアンの脚部を抱きながら、眠りについた。
「vn――」
やがて。リアンは立ち上がり、ハヤトを抱き上げる。決して起こさないように、水平に、静かに。小川が花びらを運ぶように。
家路に向かう。
その素体はほのかに青く、発光している。ハヤトを凍えさせないように熱を作り出しているからだ。
同時に。
そのクリアな肢体の内には、一つ、一つ、ゆるぎなく。無数の光点が息づき、明滅していた。
ハヤトが拾った『星』の座標をリアンはすべて記録していた。
別段特別なことではない。教育心理学に関するスキーマコンプレックスは、可能な限りあらゆる表象を記録し分析しようとするのだから。
光量に見合ったごくわずかな熱が、リアンの中に灯っている。
「vn――」
無線通信。サウスミスティック社のサーバーに、全「リアン」が共有すべき学習記録を送る。『星』にまつわる報告は送信されなかった。
これは、ハヤトにとってのみ重要な星図なのだから。
「ん……リアン……」
ハヤトが名を呼ぶ。
それは全リアンタイプアンドロイドに共通の名だ。
ただ。
星図は今、この世にただ一体の『ハヤトのリアン』のものだった。
FIN
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