第17話:学園一の美少女は、本人確認をしてみたい
翌朝、こはるは宣言通り紙を出さなかった。
管理表もない。座席メモもない。覚え書きもない。
食卓には、味噌汁と焼き鮭と、やや警戒した妹だけがいる。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「今日は紙なし二日目です」
「記録にするな」
「してないよ。口頭確認」
「その言葉も少し怖いんだよ」
こはるは味噌汁をすすりながら、じっと俺を見た。
「一ノ瀬先輩の本人確認は、昨日で終わったんだよね」
「たぶん」
「たぶんねえ」
「やめろ」
「今日、誰かが『私も本人確認します』とか言い出したらどうする?」
「そんなことを言うやつがいるか」
言った瞬間、こはるの目が細くなった。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「その言い方、もう完全にフラグだよ」
「朝から不吉なことを言うな」
「私はもう、お兄ちゃんの『そんなことあるか』を一切信用してないからさ」
妹からの信頼が、また一段と削れた。
* * *
教室に入ると、座席はいつも通り俺を待ち構えていた。
前に一ノ瀬。斜め前に芽衣。後ろに城ヶ崎。右に宮坂。
この配置にも、少しずつ慣れてきた。
慣れたくはない。
「おはよ、悠斗」
後ろから城ヶ崎が明るく声をかけてくる。
「おはよう」
「今日は本人確認される予定ある?」
「ない」
「じゃあ、うちがしていい?」
「やめろ」
「本人確認って言葉、便利そうだよね。『本人に聞いただけです』って言えるし」
前の席で、一ノ瀬の肩がぴくっと動いた。
「城ヶ崎さん。本人確認は便利な口実ではありません。必要な手順です」
「一ノ瀬さん、それ昨日から気に入ってるでしょ」
「気に入ってはいません。適切だから採用しただけです」
斜め前の芽衣が、少しだけこちらを見る。
「悠斗、今日は眠そうじゃないね」
「昨日よりはましだ」
「じゃあ、今日は逃げ道いらない?」
「毎日使うものではないだろ」
芽衣は少し嬉しそうに笑った。
「分かってるならいいよ」
宮坂が右隣で、静かに手を合わせた。
「佐倉。今日は穏やかに終わるといいな」
「本当にそう思う」
その瞬間、教室の入口が静まり返った。
俺と宮坂は、ほぼ同時に顔を上げた。
白瀬玲奈が立っていた。
朝の光の中で、完璧に自然な微笑みを浮かべている。何度見ても不自然なほど綺麗だ。
「佐倉くん。おはようございます」
「おはようございます」
宮坂が横で小さく呻いた。
「穏やかな一日、終了のお知らせ……」
「まだ始まったばかりだ」
白瀬先輩は俺の席まで来ると、少しだけ首を傾げた。
「昨日、一ノ瀬さんが佐倉くんの本人確認をされたと聞きました」
「情報が早いですね」
「こはるさんからではありません」
「じゃあ誰から」
白瀬先輩は微笑んだ。
「小鳥遊さんです」
余計に怖い。
「それで、私も少し考えました」
「何をですか」
「私も、佐倉くん本人に確認していなかったことがあるな、と」
後ろから城ヶ崎が小声で言った。
「来た。本人確認の波及」
一ノ瀬が前から静かに振り返る。
「白瀬さん。本人確認という言葉の乱用は控えてください」
「乱用ではありません。必要な確認です」
「内容によります」
「昼休みに、五分だけ佐倉くんと話してもよろしいですか」
教室の空気が完全に止まった。
白瀬先輩は、完璧に丁寧な声で続ける。
「人だかりを避けるため、校舎裏の弓道場近くで。もちろん、五分だけです」
宮坂が机に沈んだ。
「五分だけが、また来た……」
城ヶ崎が後ろで楽しそうに笑う。
「一ノ瀬さんの五分に対抗してきたじゃん」
「対抗ではありません」
白瀬先輩は穏やかに否定した。
「本人確認です」
強い。とても強い。
* * *
昼休み。
俺は弁当を開く前に、白瀬先輩と教室を出た。
当然のように視線が集まる。
だが、昨日の効果なのか、直接ついてくる生徒はいなかった。代わりに、距離を保ったまま、廊下のあちこちから視線だけが飛んでくる。
「視線が多いですね」
「申し訳ありません。私が佐倉くんを呼び出しましたから」
「白瀬先輩が謝るところなんですか」
「人だかりは、佐倉くんの負担になりますので」
その言い方は、昨日の一ノ瀬の確認と少しつながっていた。
校舎裏へ出ると、昼の空気は教室より少しだけ静かだった。弓道場の近く。前に買い出しへ行った時とは違って、今日は学校の中だ。
白瀬先輩は、ベンチの前で立ち止まった。
「座りますか」
「五分だけなら、立ったままで大丈夫です」
「では、私も」
そう言って、白瀬先輩は俺の少し横に立つ。
距離が近すぎるわけではない。でも、離れているわけでもない。白瀬先輩らしい、綺麗な距離だった。
「佐倉くん」
「はい」
「昨日、一ノ瀬さんに疲れているか確認されたそうですね」
「されました」
「それで、少し羨ましいと思いました」
「羨ましい?」
「はい。私は、佐倉くんに告白しました。振られました。まだ振られておきます、とも言いました。でも、肝心の佐倉くん本人の状態を、あまり聞いていなかった気がします」
白瀬先輩、と呼んではいるが、学年は俺と同じ二年だ。ただ、こはるの弓道部の先輩として先に知ってしまったせいで、俺の中ではずっとその呼び方のままだった。
白瀬先輩は、弓道場の方を見た。
「私は、自分がどう見られているかには慣れています。学園一の美少女とか、弓道部の先輩とか、こはるさんの先輩とか」
そして、少しだけ俺を見る。
「でも、佐倉くんも同じように、いろいろな名前で呼ばれ始めていますね。発生源とか、中心とか、本人とか」
「最後だけ少しましですね」
「はい。だから、本人に確認したくなりました」
白瀬先輩は、まっすぐこちらを見る。
「佐倉くん。私に、またこうして呼び出されるのは、負担ですか」
正面から来た。
昨日の一ノ瀬とは違う。管理ではなく、もっと静かで、逃げ道の少ない確認だった。
俺は少し考えた。
「負担ではあります」
白瀬先輩の表情は変わらない。だから、俺は続けた。
「でも、白瀬先輩が雑に俺を扱ってるとは思ってないです」
「そうですか」
「はい。人が集まるのは困るし、緊張もします。でも、白瀬先輩がちゃんと考えて呼んでくれてるのは分かります」
言ってから、少し恥ずかしくなった。
白瀬先輩は、ほんの少しだけ綺麗に目を細める。
「ありがとうございます」
「いえ」
「では、私はまだ振られたままでよろしいですか」
「そこで確認するんですか」
「はい。本人確認です」
強い。この人は、本当に強い。
「……まだ、です」
「分かりました」
白瀬先輩は、嬉しそうに微笑んだ。
「では、まだ振られておきます」
* * *
本当に五分で終わった。
白瀬先輩は時間を確認すると、きっちりそこで話を切った。
「昼休みを長く取ると、また佐倉くんの負担になりますので」
「ありがとうございます」
「いえ。今日は本人確認ですから」
その言葉が、もう別の意味を持ち始めている気がする。
教室へ戻る途中、角を曲がったところで小鳥遊が立っていた。
「小鳥遊」
「偶然です」
「嘘だろ」
「偶然、白瀬先輩が佐倉先輩に本人確認をする可能性を考慮して、この動線を確認していました」
「それは偶然じゃない」
小鳥遊は白瀬先輩を見る。
「白瀬先輩。確認は無事に終わりましたか」
「はい。小鳥遊さん」
「そうですか」
小鳥遊は少しだけ安心したような顔をした。それから、俺を見る。
「佐倉先輩」
「何だ」
「白瀬先輩に負担をかけていませんか」
「逆じゃないのか、それ」
「白瀬先輩が佐倉先輩を気遣っているなら、佐倉先輩も白瀬先輩を気遣うべきです」
「正論っぽいな」
「正論です」
白瀬先輩が小さく笑った。
「小鳥遊さん。今日はそのくらいで」
「はい」
小鳥遊は素直に下がった。白瀬先輩相手だと判定が甘い。相変わらずだった。
* * *
教室に戻ると、待っていたように城ヶ崎が声を上げた。
「おかえり。五分デートどうだった?」
「本人確認だ」
「それ、一ノ瀬さんの用語だったのに、白瀬さんが奪ってない?」
一ノ瀬が前の席から静かに反応する。
「白瀬さんの確認は、風紀上の本人確認とは目的が異なります」
「じゃあ何?」
「……個人的確認です」
教室が少しざわついた。一ノ瀬は言ってから、少しだけ眉を動かした。
「訂正します。個別確認です」
「遅いよ、一ノ瀬さん」
城ヶ崎が笑う。芽衣は斜め前で、俺を見ていた。
「悠斗、疲れた?」
「少し。でも、昨日よりはましだ」
「そっか」
芽衣はそれだけ言って、少し安心したように前を向いた。
宮坂が右隣から小声で言う。
「佐倉。お前、ついに本人確認の対象になったぞ」
「実況するな」
「駅前カフェ十分、本人確認五分。時間じゃないんだな、ラブコメって」
「その分析をやめろ」
その時、俺のスマホが震えた。こはるからだった。
『白瀬先輩から本人確認完了の報告が来たんだけど』
俺はスマホを伏せた。今日は紙なしのはずだ。紙なしであってほしい。
* * *
家に帰ると、こはるは玄関で待っていた。手に紙はない。
ただし、表情はかなり疲れている。
「お兄ちゃん」
「何だ」
「今日、白瀬先輩に本人確認されたって本当?」
「された」
「本人確認、流行語にしないでよ」
「俺が流行らせたわけじゃない」
「知ってる。でも発生源周辺でしょ」
「それを万能カードにするな」
こはるはスマホを見せてきた。
「白瀬先輩から、『本日は佐倉くん本人に確認をしました。負担ではあるが、雑に扱われているとは思っていない、とのことです』って来てる」
「報告が正確すぎるな」
「一ノ瀬先輩からは『本人確認の用語について、運用範囲を整理する必要があります』」
「やめてほしい」
「莉愛さんからは『白瀬さんの本人確認、強すぎ』」
「感想が軽い」
「芽衣ちゃんからは『悠斗、ちゃんと答えたんだね』」
「見られてるな」
「雫ちゃんからは『白瀬先輩の本人確認について、私も確認します』」
「二重確認になる」
こはるは深いため息をついた。
「今日は紙にしない」
「えらい」
「絶対にしないよ」
「本当にえらい」
「でも、口頭で言う」
「嫌な予感がする」
こはるは俺を見た。
「白瀬先輩、やっぱり強いね」
「まあ、そうだな」
「駅前でも、教室でも、本人確認でも、全部丁寧に強い」
「丁寧に強いって何だ」
「白瀬先輩」
納得できてしまうのが困る。
「でも、お兄ちゃんも少しちゃんと答えたんでしょ」
「まあ」
「じゃあ、今日はそれでよし」
「判定されてる」
「紙にしないだけ優しいと思ってよね」
優しいの基準がかなり下がっている。
* * *
夜、こはるから画像は来なかった。
代わりに、短いメッセージだけが届いた。
『今日は紙なし継続』
続けて、もう一通。
『ただし、白瀬先輩は本人確認まで丁寧に強い』
俺はスマホを置いた。
管理表は更新されなかった。座席メモも、覚え書きも増えなかった。
ただ、白瀬先輩は今日も、まだ振られたまま俺の前に立っていた。
誰とも付き合う気はない。
そう言ったはずなのに、俺は今日、学園一の美少女に「負担ですか」と真正面から確認されていた。




