陽だまりの盆地
山々に囲まれた盆地にある故郷は、陽だまりでまどろむ老猫のようにのんびりしていた。そんな町の警察官である倫行は、時に叫び出したい衝動に駆られることがある。
例えば、高校時代ともに部活に励んだ仲間が、ろくでなしの大人になり、逮捕しなくてはならない時だとか。
「……で、またお前か、健二」
古い木造の駐在所。パイプ椅子に腰掛け、悪びれもせずに頭を掻いている男を見て、倫行は深い、深い溜息を吐き出した。
健二。高校時代は野球部でともに白球を追いかけ、泥だらけになりながら「いつか甲子園へ」と夜遅くまで素振りをしていた男だ。あの頃の引き締まった体躯は見る影もなく、今はだらしないビール腹と、無精髭に覆われた締まりのない顔があるだけだった。
「いやぁ、トモ。悪気はなかったんだって。たださ、あそこのばあちゃん、最近耳が遠いだろ? 勝手口に置いてあった大根、ちょっと多めに貰っても気づかねえかなって」
「それを世間じゃ『泥棒』って言うんだよ。しかも、一人暮らしのヨネさんの家から盗むなんて、ろくな大人のすることじゃない」
この町は平和だ。凶悪犯罪など滅多に起きない。人が世を去るのは、大抵が畳の上で家族に見守られながら、天寿を全うした時だけだ。それ自体は素晴らしいことのはずなのに、倫行の心には時折、言葉にできない閉塞感と苛立ちが澱のように溜まる。
変わらない町。変わっていく人間。かつて輝いていたはずの友人が、小さく、卑屈な「ろくでなし」に成り下がっていく姿を見るのは、どんな凶悪犯と対峙するよりも精神を摩耗させた。
「あーあ。お前はいいよな、トモ。真面目に警察官になって、町のみんなに頼りにされてさ。俺なんか、何やっても続かねえし、もうこの町じゃ『鼻つまみ者の健二』で決まりだよ」
「お前がそうやって自分で諦めてるからだろ!」
思わず声を荒らげると、健二は一瞬だけ驚いたように目を見張り、それからすぐに拗ねたような顔をして視線を逸らした。
倫行は拳を強く握りしめた。叫び出したい。何に対してかも分からない衝動が、胸の奥で暴れている。だが、制服の重みがそれを辛うじて押し留めていた。
健二の一件は、被害者であるヨネさんが「健二ちゃんが植え付けから手伝ってくれた大根だから、少し早く持っていっただけ」と庇ったため、厳重注意という形で処理された。ヨネさんの優しさが、倫行には余計に切なかった。
その日の夕方。勤務を終えた倫行は、実家の裏手にある古い見晴らし台へと足を運んだ。盆地を一望できるその場所は、高校時代、部活の帰りに健二たちとよく集まった場所だった。
夕日が山端に沈みかけ、盆地全体が茜色から薄紫色のグラデーションに染まっていく。陽だまりでまどろんでいた老猫が、ゆっくりと夜の帳に身を沈めていくような、静かな時間。
「……何やってんだよ、あいつ」
ぽつりと言葉が漏れた。
その時、後ろの草むらがガサゴソと揺れた。振り返ると、そこにはコンビニの袋を下げた健二が立っていた。駐在所でのだらしない雰囲気とは違い、どこか決まり悪そうな顔をしている。
「トモ、まだここに上がってくるんだな」
「お前こそ、何しに来た」
「いや……お前に、これ。ちゃんと言い訳じゃなくて、謝ろうと思って」
健二が袋から取り出したのは、缶コーヒーが二本。それを一本、倫行に放り投げてきた。受け取ると、まだほんのりと温かい。
「ヨネさんの大根さ……本当に盗む気じゃなかったんだ。あの日、ヨネさんが腰を痛めて庭の畑でうずくまっててさ。俺、それ手伝って、大根を収穫したんだよ。そしたらヨネさんが『好きなだけ持っていきな』って言ってくれた。でも、今日になってそのことをヨネさんが忘れちまってて……俺、なんか悲しくなっちゃってさ。『じゃあもう、泥棒でいいや』って、投げやりになっちまったんだ」
健二は缶コーヒーのプルタブを引き抜き、一気に煽った。
倫行は目を見張った。健二が嘘をついているようには見えなかった。いや、ヨネさんの「健二ちゃんが手伝ってくれた」という言葉とも辻褄が合う。健二はろくでなしになってしまったわけではなかった。ただ、認知症が進み始めたヨネさんの現実と、自分の善意が噛み合わなかったことに傷つき、へそを曲げていただけだったのだ。
「……だったら、そう駐在所で言えばよかっただろ」
「言えるかよ。お前、すげえ怖い顔して俺を睨むんだもん。高校の時の、鬼監督そっくりの顔してさ」
健二はそう言って、へらへらと笑った。しかし、その笑顔の裏には、かつて甲子園を目指していた頃の、真っ直ぐな少年の面影が確かに残っていた。
倫行の胸の中にあった、叫び出したいような衝動が、夕暮れの風に溶けていくように消えていった。
この町はのんびりしている。時間が止まっているようで見えて、少しずつ、確実に変化している。お年寄りは歳をとり、若者は大人になり、かつての友も、自分自身も、日々を必死に生きている。
ろくでなしに見えた友人は、実は誰よりもヨネさんを気遣う優しい男のままだった。ただ、不器用なだけ。そして自分は、そんな変化や不器用さに勝手に苛立ち、絶望していただけだったのだ。
「健二」
「ん?」
「明日、ヨネさんの家に一緒に行こう。ヨネさん、大根の漬物作るって言ってたから、手伝いに行くぞ」
「えー、俺も? また泥棒扱いされたら嫌だぜ」
「俺が警察官として、お前の無実を証明してやるよ」
倫行がそう言って笑うと、健二は一瞬面食らったような顔をした後、嬉しそうに白い歯を見せた。
「しょうがねえな。トモがそこまで言うなら、付き合ってやるよ」
二人は並んで、暮れなずむ盆地の町を見下ろした。
家々に明かりが灯り始める。穏やかで、劇的なことなど何一つ起きない、天寿を全うするその日まで続いていく、愛すべき退屈な町。
その優しさに守られながら、自分たちはこれからも、この場所で泥臭く生きていくのだろう。缶コーヒーの温かさが、倫行の手のひらに心地よく残っていた。




