第八章 台帳の余白
大学祭の当日は、晴れていた。
キャンパスの銀杏並木が黄色に染まり、風が吹くたびに葉が舞った。模擬店や出し物の声が遠くから聞こえ、学生が行き来していた。
葵の展示会場は、学生会館の小さなギャラリースペースだった。
白い壁に沿って、写真と文書のパネルが並んでいた。大学の設立当初の白黒写真、初期の学生たちの集合写真、地域との関係を示す資料。そして、昭和四十年代の附属病院の項に、一枚の説明文があった。
「昭和四十年代から五十年代にかけての附属病院の急速な発展の時期には、複数の臨床研究が行われました。しかしその一部については、正式な記録が十分に整備されていない状態にあります。この展示では、公式の歴史書に記載されなかった記録の存在を示し、大学の歴史を再考するきっかけとすることを目的としています」
その横に、タイプライター打ちの文書の複写が一枚、展示されていた。内容は被験者名も研究名も消されており、「研究に参加した患者の記録の一部」とだけ書かれていた。
そして最後のパネルに、葵が書いた一文があった。
「歴史は、記録されたものだけではありません。記録されなかった声もまた、歴史の一部です」
昼過ぎに、橘道夫が来た。
薄い色のジャケットを着て、手には布の鞄。蒼が入り口で待っていると、老人は静かに会釈した。
「来てくれたんですね」
「来ると言ったからね」
二人で展示を見て回った。橘は何も言わなかった。ただゆっくりと歩き、各パネルの前で足を止め、読んだ。文乃と葵が少し離れたところで待っていた。三上は入り口近くに立って、外を向いていた。
最後のパネルの前で、橘は少し長く止まった。
「記録されなかった声もまた、歴史の一部」と老人は声に出して読んだ。
蒼は何も言わなかった。
「……ハルコが聞いたら、なんと言うかな」と橘は呟いた。
その言葉は蒼に向けたものではなく、ただ空中に置かれたようだった。
しばらくして、橘は蒼を見た。
「鞄の中に、ノートがある。ハルコが書いたものだ」
蒼は少し驚いた。
「もらってほしいわけじゃない。読んでほしい。それだけだ。読み終わったら返してくれればいい」
蒼は両手で鞄を受け取った。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」と橘は言った。「あんたたちがやったことは、礼を受け取るようなことじゃない。当たり前のことだ」
老人は展示会場を出ていった。
蒼はその後ろ姿を見送りながら、鞄の中のノートに手を触れた。表紙は古いが、しっかりした手触りだった。
その夜、蒼はノートを読んだ。
橘ハルコのノートは、入院中の日記だった。
医療者らしい整然とした文字で、日々の体の状態、先生との会話、窓から見える空の色、夫との短い面会時間のことが書かれていた。研究への参加について書かれた日のページには、こうあった。
「先生は詳しくは話してくださらなかったが、私は参加することにした。自分の体が少しでも医学の役に立てるなら、その方がいいと思う。怖くないわけではない。でも、怖いだけでは何も始まらない」
そして研究を離れる決断をした日のページには、こうあった。
「体が違う。これは薬のせいかもしれないし、病気が進んでいるせいかもしれない。わからない。でも体はわかる。やめることにした。先生には申し訳ないが、これは私の体のことだから」
最後のページに近いところで、こんな一文があった。
「献体の手続きをした。死んだ後でいいから、医学の役に立ててほしい。それが私の選べる最後のことだと思う」
蒼はそのページで、本を閉じた。
泣くつもりはなかった。しかし目が熱くなった。
橘ハルコという人が、ここにいた。台帳の七番でも、被験者番号七番でも、備考欄が白いレコードでもなく、恐怖と葛藤と信念を持った一人の人間として、ここにいた。
蒼は窓の外を見た。
夜の空に、星が出ていた。
翌週、蒼は三上と一緒に、医学部の教学委員会宛に一通の陳情書を提出した。
内容は、昭和四十年代の附属病院の臨床研究に関する記録の再調査と開示を求めるものだった。葵の展示で示した文書のコピーを添え、桐山義雄の証言書も添付した。
永田教授はその一週間後、蒼を呼び出した。
面談室で向かい合ったとき、永田の顔には怒りも諦めもなく、ただ疲れたような表情があった。
「あの記録のことは、知っていました」と永田は言った。「前任者から、触れてはいけないと言われていた」
「なぜですか」
「大学のためだ、と言われた。当時の責任者の名誉のためだと。わたし自身は研究に関わっていないが……知っていて、動かなかった」
「これから、どうなりますか」
永田は少しの間、黙った。
「委員会で協議されるでしょう。どういう結論が出るかは、わたしには約束できません。ただ、再調査はされると思います」
蒼は頷いた。
「一つだけお願いがあります」と蒼は言った。「台帳の七番の記録を、きちんと整備してほしいんです。橘ハルコさんの備考欄を、適切な記録で埋めてほしい」
永田はその言葉を聞いて、何かを噛みしめるような顔をした。
「……それは、わたしができることです」




