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第六章 橘が語ること

十月の火曜日、蒼は桐山診療所のバイトを終えたあと、橘と二人で話す機会を作った。

桐山が「この人と少し話してきなさい」と言って、近くの喫茶店に二人を送り出した。院長は何かを知っているような目をしていたが、何も言わなかった。

喫茶店は古く、椅子の革がところどころひびわれていた。橘はコーヒーを頼み、蒼はアイスティーを頼んだ。窓の外では、木々が色を変え始めていた。

「何か聞きたいことがある顔だ」と橘は言った。

「はい」

「何でも聞いていい」

蒼は少し整理してから、話し始めた。台帳の七番の話。資料室の文書。被験者番号七番の「橘ハルコ(T・H)」の記載。

橘は何も遮らず、ただコーヒーカップを両手で包むように持ちながら、聞いていた。

「よく調べたね」と最後に老人は言った。怒ってはいなかった。

「橘ハルコさんは」と蒼は言った。「橘さんと、どういうご関係ですか」

「妻だ」

一瞬の沈黙があった。

「妻だった、か」と橘は言い直した。「昭和四十八年に死んだ。四十五歳だった」

「……病気だったんですか」

「そうだ。肝臓の病気でな。附属病院に長く入院しとった」

橘は窓の外を見た。その目は穏やかだったが、遠かった。

「妻は頭がよくてね。看護師の資格も持っとった。だから、先生の説明をよく理解した。ある日、新しい治療に参加しないかという話があって、妻は聞いた。詳しく教えてくれ、って。でも先生は、細かいことはこちらに任せてもらえばいい、と言った」

「それが……あの研究ですか」

「参加した。最初は体に変化はなかった。でも三ヶ月ほどして、体の調子が急に悪くなった。妻はその時点で研究から降りると言った。先生は残念そうな顔をしたが、止めはしなかった」

「それで、『研究中途退出』の記載に」

「そうなるな。妻はその後も治療を続けたが、半年後に亡くなった」

「研究との関係は」

橘は少し考えた。「わからん。証明はできない。ただ妻は、自分の体がおかしくなったのは薬のせいかもしれないと、最後に言っとった」

窓の外で、一枚の葉が舞い落ちた。

「ずっと、気になっておられたんですか」

「五十年近くな」と橘は静かに言った。「妻が亡くなった後、わたしは何度か大学に問い合わせた。でも、そんな研究は記録にない、の一点張りでな。証拠もなかったし、当時は今みたいに患者が声を上げる手段もなかった」

「それで、桐山先生のところへ」

「桐山は当時、附属病院の若手医師だった。あの研究に疑問を感じていた一人だ。内部でも何か言おうとしたらしいが、つぶされた、と聞いた。後に独立して、あそこの診療所を開いた。連絡が取れたのは十年ほど前だ」

蒼はアイスティーのグラスを持つのを忘れていた。

「橘さんは、なぜ今になって」

老人は蒼を見た。

「わたしはもう七十五だ。足も悪くなってきた。証拠を見つけた人間が、適切なことをする。それを待とうと思って、桐山のところに通い始めた。桐山は年齢が近いから、先に逝くかもしれない」

「……適切なこと、というのは」

「妻のことを、記録に残すこと。それだけでいい」

蒼は、その言葉の軽さと重さを同時に受け取った。名誉回復とか、大学への糾弾とか、そういう言葉を橘は使わなかった。ただ、記録に残すこと。

「橘さんが最初に僕に言ったのは、意図的でしたか」

老人は微かに笑った。

「若い医者の卵が来ると聞いた。しかも総合大学の医学部の学生と聞いた。都合がいいと思ったよ」

「それで、あの言葉を」

「察しがいいかどうか、試してみたかった」

蒼は少し呆れたような顔をしながら、しかしどこかほっとしていた。この老人は、助けを求めていた。ただ、プライドがあるから直接は言えなかった。

「妻は、献体の手続きをしていたんですか」

「自分でしとったよ。死んだ後でいいから、医学の役に立てて欲しいと言っていた。妻らしい選択だ」

蒼はその言葉を、ゆっくりと胸の中に置いた。

橘ハルコという人が、急に輪郭を持って立ち上がった気がした。頭がよくて、看護師の資格を持っていて、自分の体が壊れていく中で先生に細かく質問して、それでも死後に献体を選んだ人間。数字と名前だけだった存在が、急に一人の人間になった。

「ありがとうございます」と蒼は言った。

橘は静かに頷いた。

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