第五章 龍一の家
三上龍一が最初に怪しいと感じたのは、被験者名簿の中に一つの名前を見たときだった。
文書の末尾に、研究の「担当医師」として名前が連なっていた。外科、内科、それぞれの当時の担当者の名前。そのうちの一人が、「三上 穣」という名前だった。
蒼には話さなかった。
記録室を出て、それぞれが帰宅した夜、三上は自分の部屋で長い時間、天井を見ていた。
祖父の名は、三上穣だった。
今はもう亡いが、生前は大学病院の内科部長を務め、医師一家の礎を作った人物として家族から敬われていた。父も医師で、三上が医学部に進んだことを誰よりも喜んだのも父だった。「龍一が継いでくれる」という言葉が、幼い頃から三上の背中にある。
祖父が、その研究に関わっていた。
それが何を意味するのか、三上にはまだわからなかった。あの研究が真に倫理的な問題を孕んでいたとしても、祖父が直接その不正に加担したとは言い切れない。あの時代の医療の文脈がある。インフォームドコンセントの概念はまだ十分に浸透していなかった。悪意でなく、無知や慣習から起きたことかもしれない。
しかしそれでも、知ってしまった以上、黙っていることがどういう意味を持つか、三上は考えた。
翌日の昼、蒼から連絡が来た。
「橘さんに会ってきた。あの老人に、少し話を聞いた」
「何て言ってた?」
「直接は教えてくれなかった。でも、自分が話したいときに話す、って言ってた。待ってほしいって」
三上は返信を打とうとして、止めた。
「三上、あの文書の担当医師名、見た?」と次のメッセージが来た。
指が止まった。
しばらくして、三上は返信した。
「見た」
「そうか」と蒼は返した。
それきりだった。蒼はそれ以上聞かなかった。三上はその「そうか」という二文字に、少し救われた気がした。
三日後、三上は蒼を呼び出した。
場所は大学の近くの公園だった。九月になっても昼間は暑く、ベンチで向かい合うと、二人の額に汗が滲んだ。
「祖父のことは知ってたと思う」と三上は言った。「蒼は気づいてたんだろ」
「なんとなく、ね」
三上は目を細めた。「どうするつもりだ」
「どうするって?」
「この件を。大学に報告するのか、外に出すのか、それとも……」
「まだそこまで決めていない」と蒼は言った。「でも、知らなかったことにはできない」
三上は黙った。
「俺は」と三上は言い、少しの間だけ止まった。「祖父が悪いやつだったとは思いたくない。でも、あの文書は本物だ。何かが起きていたのは確かだ」
「うん」
「俺はそれを、隠そうとは思っていない」
「そっか」
「ただ……」と三上は続けた。「どう向き合えばいいか、まだわからない」
蒼は少しの間、公園の木々を見た。
「俺も、正直まだわからない。橘さんがどこまで話してくれるかで、見えてくるものも変わると思う」
「橘さんというのは、橘ハルコとどういう関係があるんだ?」
「それも、まだ聞けていない」
ふたりは並んでベンチに座り、しばらく黙っていた。どこか遠くで、子どもが走り回っている声がした。
「俺、家族には言えない」と三上は静かに言った。
「言わなくていいと思う」と蒼は答えた。「まだ」
その「まだ」という言葉が、三上には重かった。それは否定でも肯定でもなく、一緒に考え続けるという宣言のように聞こえた。




