第三章 文書の中の名前
大学祭の実行委員会が動き出すのは、例年九月の頭だった。
今年の大学祭は十一月の第二週で、準備期間はおよそ三ヶ月。委員会は各学部から代表が集まる形式で、医学部からは慣例的に三、四名が参加する。蒼はそれに申し込むつもりはなかったが、文乃に「行ってみなよ、どうせ暇でしょ」と言われ、半ば押し出されるように初回の会議に出席した。
会議室は総合大学の学生会館にあった。
そこで蒼は、浅野葵と出会った。
文学部三年生の浅野葵は、委員の中でも存在感があった。長い黒髪を後ろで一本に束ね、少し大きいフレームの眼鏡をかけていた。話し方は早口ではないが言葉に迷いがなく、会議の中でも発言の筋道が通っていた。
「今年の文学部の展示は、大学の歴史をテーマにしたいと思っています」と葵は言った。「この大学が設立されたのは戦後すぐで、七十年以上の歴史がある。でも学生のほとんどはそれを知らない。写真や文書を集めて、大学の歩みを振り返る展示をしたいんです」
委員の一部からは「地味じゃないの」という声が出たが、葵は動じなかった。
「地味かどうかは関係ないと思います。何かを伝えたいかどうかが大事なので」
蒼はその言葉を聞いて、なんとなく葵のことが気になった。
会議が終わったあと、蒼は葵に声をかけた。
「歴史の展示って、具体的にはどんな資料を集めるんですか」
葵は少し驚いた顔をしたが、すぐに話し始めた。「大学の記念誌や公式文書が一次資料の中心ですが、それだけだと表向きの話しか見えない。できれば当時の学生の手記とか、地域との関係を示すものとか……そういう、公式ではない記録を探したいんです」
「公式ではない記録」と蒼は繰り返した。
「歴史って、公式の記録の外側にこそ本当のことがあると思うので」
蒼は一瞬、橘老人の言葉を思い出した。記録に残っていない患者がいる。
「医学部の歴史も調べてますか」
「ええ、一応。ただ医学部の資料は閲覧制限のあるものが多くて、なかなか難しいです」
「何か面白いものはありましたか」
葵は少し考えてから、「一つ、気になることはあります」と言った。「昭和四十年代から五十年代にかけて、附属病院が急速に実績を伸ばした時期があるんですが、その時期の研究記録の一部が、大学の記念誌から抜け落ちているように見えて」
「抜け落ちている、というのは」
「具体的に言うと、昭和四十六年から四十九年の間の研究業績が、記念誌にほとんど記載されていないんです。その時期って、本来ならいくつかの臨床研究が進んでいたはずで、論文も出ているはずなんですが……」
蒼は心臓が少し跳ねるのを感じた。
橘ハルコの没年は、昭和四十八年だった。
「それ、もう少し詳しく話せますか」
葵は眼鏡のフレームを押し上げ、蒼を見た。「あなた、何で興味があるんですか」
「実は、ちょっと気になってることがあって」
その場で蒼は、台帳の七番の話をした。全部ではなく、輪郭だけを。葵は黙って聞き、最後に少しの間だけ宙を見た。
「橘ハルコ、という名前」葵は言った。「……以前見た文書に、その姓が出てきたことがある気がします」
「え」
「確認してみます。古い資料の中に、もしかしたら」
葵は鞄から小さなノートを取り出し、「橘ハルコ」とカタカナで書いた。
蒼はその文字を見ながら、夏の診療所の待合室を思い出していた。あの老人の顔。膝の上で組まれた手。「まだわからんか」という言葉。
橘道夫と橘ハルコ。
同じ姓。偶然だろうか。
一週間後、葵から連絡が来た。
「資料室で見つけました。直接見てほしいです」
大学の資料室は、古い棟の三階にあった。冷房が弱く、書架の間に積み上げられた箱が迷路のように並んでいた。葵はそこで段ボール箱を開け、蒼を手招きした。
取り出されたのは、B5サイズのコピー用紙の束だった。印刷ではなく、タイプライターで打たれたもの。紙が黄ばんで、端が茶色くなっていた。
「これは?」と蒼は聞いた。
「附属病院の昭和四十七年度の研究報告書の下書きだと思います。正式な記念誌には残っていないものです」
蒼は文書をめくった。内容は難解な医学的記述で、臨床研究のデータのようだったが、被験者の名称が匿名化されておらず、頭文字だけが記載されていた。「T・H」「S・K」「M・A」……
そして中ほどのページに、一行の記述があった。
「被験者番号7番・橘ハルコ(T・H)、研究参加に同意」
蒼は息を呑んだ。
葵も黙っていた。
「被験者番号七番」と蒼は言った。「台帳の七番と、同じ番号だ」
「偶然じゃないと思う」と葵は静かに言った。「この研究、タイトルが書いてないんです。どんな臨床研究なのか、正式な記録に残っていない」
蒼は文書を丁寧に写真に収め、資料室をあとにした。階段を下りながら、頭の中で何かがゆっくりとつながろうとしていた。
その夜、蒼は文乃と三上に連絡した。
「三人で話したいことがある」




