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第二章 解剖台番号七番

八月の半ばに、医学部では解剖学の集中講義があった。

四年生にとってそれは正確には「系統解剖学の復習と補足」であり、実際の解剖実習は二年生のときに終えている。しかし今回は一部の学生が選択する「献体学習」の補助として、四年生が参加できる機会が設けられていた。内容は実習というよりも、解剖学教室の資料を使った学習に近い。蒼が申し込んだのは半ば気まぐれだったが、参加してよかったと思うことが起きた。

解剖学教室は医学部棟の地下にあった。

地下への階段を下りると、空気が変わった。地上の夏の熱が遮断され、代わりに微かなホルマリンの匂いと、冷えた静けさが広がっていた。蒼にとってそれは懐かしい匂いで、二年生のときの実習を思い出させた。あのとき蒼は最初の数日、緊張で腹が痛かった。それでも、実習が終わる頃には献体への感謝と、自分が医学の端に立ったのだという実感とが入り混じった不思議な充実感があった。

今回の担当教員は永田教授という五十代の男性だった。痩せていて、眼鏡のレンズが厚く、言葉が少ない人物だった。学生の間では「永田はこわい」という評判があったが、蒼が直接関わる機会はこれまでなかった。

最初の日は資料の配布と献体台帳の確認だった。

台帳とは、献体として提供された方々の記録で、氏名・生年月日・死亡年月日・提供の経緯などが記載されている。医学部における献体は尊厳の土台に成り立っており、その記録は厳密に管理されている。今回の学習では台帳を参照しながら、標本と対応する記録を照合する作業があった。

蒼はグループの一人として台帳の一部を渡され、確認作業を行っていた。

そのとき、気づいた。

台帳の中ほど、七番の欄だった。

氏名は「橘 ハルコ」。没年は昭和四十八年。提供年は昭和五十三年。

蒼はそこで手を止めた。

没年と提供年の差が五年ある。これはありえない話ではない。献体の登録は生前に行うものだが、死後に遺族が手続きをするケースもある。時間が空くこともある。それ自体は不自然ではなかった。

不自然だったのは別のことだ。

備考欄が、白紙だった。

他の欄には、住所や紹介医療機関などが記載されていた。しかし橘ハルコの欄だけが、すべての補足記録が空欄だった。紹介元もない。連絡先もない。担当者のサインの欄が、白い。

蒼はしばらくその欄を見ていた。

偶然かもしれない。記載漏れかもしれない。しかし橘という名前が、脳のどこかに引っかかった。

「何か問題がありましたか」

顔を上げると、永田教授が立っていた。

「いえ、ちょっと気になったところがあって」

「どこですか」

蒼は七番の欄を指した。「備考がすべて空欄で、提供年と没年に差があります。記載漏れでしょうか」

教授は台帳を手に取り、七番を見た。一秒、二秒、三秒。

「古い記録ですね」と教授は言った。「当時は記録の整備が不十分な部分があった。珍しくはありません」

「そうですか」

「はい」と教授は言い、台帳を蒼に返した。「続けてください」

それだけだった。しかし蒼は、その短いやりとりの中に何かを感じた。永田教授の顔に、一瞬だけ、何かが走った。怒りとも焦りとも違う、もっと複雑なもの。台帳を見た三秒間、そこに何かがあった。

気のせいかもしれなかった。

しかし蒼は、台帳の七番の欄を頭の中にしまった。

橘ハルコ。昭和四十八年没。


その日の夜、蒼は三上龍一に連絡を入れた。

三上は同学年で、成績は常に上位だった。医師の家系に生まれ、父も祖父も医師という環境で育ってきた。それゆえかどこかプレッシャーを纏っており、友人は多くないが信頼できる男だった。蒼とは二年生のとき、解剖実習のグループが一緒だったことが縁で、たまに話す仲だった。

「台帳の話?」と三上はラインで返してきた。

「あ、そういうのって医学部ではよくあるの?備考欄が全部空白のやつ」

「めちゃくちゃ稀。普通ありえない。何年の献体?」

「昭和五十三年に提供されたやつ。没年は昭和四十八年」

しばらく間があった。

「……それ、かなり古いね。でも、だとしても備考全空白はおかしい。何の名前?」

「橘ハルコ」

また間があった。今度は少し長かった。

「三上?」

「いや、ごめん。なんでもない。ちょっと調べてみる」

三上がそれ以上何も言わなかったので、蒼も追わなかった。

ただ、その「なんでもない」という返信の速さが、蒼には少し気になった。

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