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第一章 待合室の老人

神田蒼が桐山診療所でアルバイトを始めたのは、七月の頭のことだった。

医学部四年生の夏休みは、傍から見れば長い休暇に見えるが、実際には翌年から始まる病院実習の準備と、国家試験を見据えた勉強とで、思いのほかやることが多い。それでもアルバイトをしようと思ったのは、純粋に金が必要だったからで、崇高な動機は何もなかった。

桐山診療所は、大学から路面電車で二十分ほど離れた旧市街の路地に建っていた。建物は古く、外壁のモルタルに細かいひびが入っていて、夏の光の中で見るとまるで乾いた大地のようだった。院長の桐山義雄は七十近い内科医で、白髪を七三に分け、常にカーディガンを着ていた。夏でも。

「医学部の学生さんか」と桐山は初日に言った。「うちはたいして忙しくないよ。でも、見るものはたくさんある。病院じゃわからない医療っていうのが、町の診療所にはある」

蒼は「はい」と答えたが、内心では半信半疑だった。

仕事は受付と電話対応、カルテの整理が主で、処置の補助をすることもあった。患者のほとんどは近隣に住む高齢者で、高血圧や糖尿病の管理で月に一、二度やってくる。それはそれで悪くなかった。ただ病院の外来と違うのは、診察を終えた患者が帰り際に桐山と二言三言世間話をしていくことで、その会話の中に、蒼が教科書で学んだことでは計れない何かが宿っているように感じられた。

橘道夫が初めてやってきたのは、蒼がバイトを始めて三日目のことだった。

引き戸が開く音がして顔を上げると、老人が立っていた。七十代半ばと思われる、背筋のすっと伸びた男だった。白いシャツに薄いグレーのスラックス、手には小さな布の鞄。顔は深く日焼けしていて、目の縁に長年の皺が刻まれていた。

「予約はされていますか」と蒼は聞いた。

老人は首を振った。「受診はせんよ」

「では、どのようなご用件でしょうか」

「桐山先生に会いに来た。古い友人でね。少し待たせてもらっていいかな」

蒼は診察室に確認を取り、老人を待合室の椅子に案内した。橘はお礼を言い、静かに腰を下ろした。そして鞄から一冊の古い文庫本を取り出すと、読み始めた。

背表紙に目をやると、タイトルは読めなかったが、紙がひどく黄ばんでいた。少なくとも三十年は経っているだろうと蒼は思った。

診察の合間に桐山が待合室へ顔を出すと、橘は立ち上がって「久しぶりです」と言った。桐山は「まあ、座って座って」と笑い、「また来てくれたか」と言った。ふたりの間に流れる空気は古く、穏やかで、蒼には入る余地のないものだった。

それから橘は、週に一度、火曜日の午前中にやってくるようになった。

受診するわけではない。ただ待合室に座り、本を読み、桐山との短い会話を楽しんで、午前の診察が終わる頃に帰っていく。それだけのことだった。

蒼が橘と初めてまともに話したのは、バイトを始めて二週間ほどが経った、ある火曜日の昼だった。

桐山が往診に出かけ、スタッフの看護師も昼休みで外に出ていた。待合室には橘ひとりが残っていて、蒼は受付で書類の整理をしていた。静かな診療所に、街の外から蝉の声だけが入ってきた。

「医学部の四年生と聞いたが」と橘が言った。

蒼は顔を上げた。老人はこちらを見ていた。

「そうです」

「来年から実習か」

「はい。病棟実習が始まります」

橘は軽くうなずいた。「楽しみか」

蒼は少し考えた。「楽しみかどうかは、まだよくわかりません。怖い部分もあります」

「何が怖い?」

「自分が何も知らないのに、患者さんの前に立つことが」

老人は鞄を膝の上に置き、少しの間、蒼を見ていた。その目は穏やかだったが、その奥に何かがあるような気がした。蒼には言語化できなかったが、それは単純な優しさではなかった。もっと重いものだった。

「正直な子だ」と橘は言った。

「……橘さんは、医療に関係したお仕事をされてたんですか」

「なぜそう思う」

「本がいつも医学書か、医療に関係した歴史の本なので」

橘は少し笑った。「よく見てるね。患者だよ。ずっと昔の話だけどね」

それきり老人は本に戻った。蒼も書類の整理に戻った。

しかし帰り際に、橘は引き戸に手をかけながら、蒼に向かってこう言った。

「あの大学病院には、記録に残っていない患者がいる」

蒼は反射的に聞き返した。「どういう意味ですか」

老人はすでに戸を開けていた。外の夏の光の中で、その横顔は逆光になって見えなかった。

「いつか、気づくかもしれない。気づかないかもしれない」

それだけを言い残し、橘道夫は路地の向こうへ消えた。

蒼はしばらく引き戸の前に立っていた。蝉の声が、一段大きくなったような気がした。


その夜、蒼は大学の近くにある居酒屋で、室田文乃と飲んでいた。

文乃とは一年生のときに同じグループになって以来の付き合いで、恋人というわけでもないが、何かあれば自然と連絡を取り合う存在だった。彼女は医学部の中では珍しいタイプで、成績は普通だが観察眼が鋭く、人の話を聞くのがうまかった。将来は精神科か小児科へ、とぼんやり考えているらしいと聞いていた。

「それで、その老人が何か言ったの」と文乃はビールのグラスを持ったまま言った。

「記録に残っていない患者がいる、って」

「何の記録?」

「わからない。それだけ言って帰っちゃったから」

文乃は考えるように少しの間、天井を見た。「怪しい人じゃないの?」

「怪しくはない。桐山先生の知り合いだし、普通に見える。でも、なんか……」

「なんか?」

蒼はうまく言葉にできなかった。あの逆光の中の横顔が、頭に残っていた。何かを長年持ち続けてきた人間の顔、そういう気がした。

「わからん。ただ気になった」

文乃は肩をすくめた。「医学部生に『記録に残っていない患者がいる』って言うくらいだから、その大学病院って、うちの大学のことでしょ」

「たぶん、そう」

「面白いね」と文乃は言った。彼女の言う「面白い」は、軽い意味ではないと蒼は知っていた。本当に何かを感じたときに使う言葉だ。

「俺も、そう思う」

グラスがぶつかって、小さな音を立てた。

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