終章 白衣の前に
冬が来た。
医学部の病棟実習が始まる前の最後の週、蒼は一人で桐山診療所を訪れた。バイトの最終日だった。
桐山義雄は院長室で向かい合って、コーヒーを出してくれた。
「よくやった」と桐山は言った。「でも、まだ始まりだよ」
「わかってます」と蒼は言った。
「大学の再調査が動き出しても、全部が明らかになるとは限らない。橘さんが望む結末に必ずなるとも限らない」
「それでも、やらないよりはいい」
桐山は少し笑った。「そういう考え方が、医者には大切だ。全部は治せない。でも、何もしないのとは違う」
蒼は窓の外を見た。診療所の前の路地に、冬の光が薄く差し込んでいた。
「先生は、あの当時、どうして動けなかったんですか」
桐山は少しの間、黙った。
「怖かったんだよ」と桐山はシンプルに言った。「若い医者で、上に何か言える立場じゃなかった。言いかけたら圧力がかかった。それで黙った。五十年、後悔してきた」
「後悔してきたから、橘さんと繋がっていたんですか」
「せめてもの、ね」
蒼はコーヒーカップを持ったまま、しばらく考えた。
「俺が怖くなかったかというと、怖かった」と蒼は言った。「永田先生に呼ばれたとき、怒鳴られるかと思った。陳情書を出したとき、何か処分されるかとも思った」
「でも、出した」
「出しました」
「なぜ?」
蒼は少し考えた。
「橘さんのノートを読んだら、怖いだけでは何も始まらないって書いてあったので」
桐山義雄は目を細め、「そうか」と言った。その顔には、長年のものが溶けていくような、そういう表情があった。
一月の末、大学から公式の通知が来た。
内容は、昭和四十年代の一部の臨床研究について学内調査委員会を設置すること、および献体台帳の見直しを行うことというものだった。調査結果は公表の方向で検討するとも書かれていた。
蒼はその通知を三上、文乃、葵に転送した。
「よかった」と文乃は返してきた。
「第一歩だな」と三上は書いた。「俺は、いつか祖父のことを自分なりに整理できると思う。今はまだできないけど」
「できるよ」と蒼は返した。
葵からは少し遅れて返信が来た。
「展示の記録、冊子にまとめることにしました。先生が賛成してくれた。大学の記念文庫に置いてもらえることになりました。記録されなかった声が、ちゃんと記録になります」
蒼はそれを読んで、一人で少し笑った。
二月、橘道夫にノートを返しに行った。
診療所ではなく、老人の住むアパートを訪ねた。橘が住所を教えてくれたのだ。
アパートの一室で、橘は緑茶を出してくれた。窓から小さな庭が見えた。梅がほころんでいた。
「読んでくれたか」と橘は聞いた。
「全部、読みました」
橘はノートを受け取り、しばらく表紙を見ていた。
「ハルコが医学部の学生に読まれる日が来るとは、思わなかったな」
「橘さんは、ずっとこのノートを持っていたんですか」
「ずっと。死んだ日から」
蒼は緑茶を一口飲んだ。
「調査委員会が動き出しました」
「聞いた」と橘は言った。「桐山から聞いた」
「最終的にどういう結果になるかは、まだわかりません。でも、ハルコさんの台帳は、きちんとした記録に整備されることになっています」
橘道夫はしばらく、庭の梅を見た。
「……ありがとう」とだけ言った。
その「ありがとう」は、穏やかで、深かった。蒼はその言葉を、胸の奥にしまった。
三月の末、白衣が届いた。
来月からの病棟実習のための、白衣。医学部生としては最後の段階に入る、その証のような一枚だった。
蒼は自室でそれを広げた。白い布の、重み。
医師になることの意味を、蒼はこの夏から秋にかけて初めて少しだけ理解した気がしていた。知識の話でも、技術の話でもなく。
患者とは、台帳に書かれた名前ではない。番号で呼ばれる存在でもない。それぞれの時間と判断と恐怖を生きた、一人の人間だ。その当たり前のことが、蒼にとってはまだ学んでいる途中のことだった。
窓の外で、春の風が吹いた。
白衣を手に取り、蒼は袖を通した。
少し大きく感じた。
でも、それでよかった。
まだ、これからだと思った。
後記にかえて
この物語は、現実の事件や特定の人物・大学をモデルにしたものではありません。しかし、医療の歴史の中で十分な情報開示や同意なく研究に参加させられた患者が存在したことは、世界的に記録されている事実です。
橘ハルコのような名前が、どこかの台帳の余白に残っているかもしれない。
その可能性を、この物語は問いかけます。




