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序章
章立て
- 序章
- 第一章 待合室の老人
- 第二章 解剖台番号七番
- 第三章 文書の中の名前
- 第四章 消えた記録
- 第五章 龍一の家
- 第六章 橘が語ること
- 第七章 大学祭前夜
- 第八章 台帳の余白
- 終章 白衣の前に
序章
梅雨が明けきらないある七月の朝、橘道夫は傘を持たずに診療所へやってきた。
からだには雨の痕がなかった。どこで雨宿りをしたのか、あるいは最初から歩く速度が雲よりも遅かったのか、ともかく彼はいつもと変わらない顔で引き戸を開け、いつもと変わらない椅子に腰を下ろした。
待合室には彼ひとりだった。
受付の外から、若い男の声がした。
「橘さん、今日は診察の予約、入ってませんよ」
老人は答えなかった。膝の上で手を組み、うっすらと閉じた目で、正面の白い壁を見ていた。
「橘さん」
「わかっとる」と老人は静かに言った。「今日は診てもらいに来たんじゃない」
「じゃあ、何しに?」
「会いに来た」
若い男、神田蒼は首をかしげた。
「誰に?」
橘道夫は目を開けなかった。ただ、唇の端を少しだけ動かした。それが笑みなのか、痛みなのか、蒼には判断がつかなかった。
「まだわからんか。そのうち、わかる」
その日から、蒼の夏は変わり始めた。




