ラッキーガールな泣き虫お姉さまと、アンラッキーガールな妹ことわたくし ~悪役令嬢の汚名を着せられ、処刑台から一発大逆転を狙って見せますわ!!~
刃が、上がっておりますの。
処刑場は、王都の外れにある石畳の広場でした。
見上げれば空は抜けるほど青く、雲ひとつない。なのに足元は冷たい。石が冷えているのか、空気が冷えているのか、わたくしの血が引いているのか——それすら判別できませんの。
広場の中心に、木の台。
台の上に、鉄の板。
ギロチン。
青空を切り取る鉄が、きらりと光って——その下に、わたくしの首が、木枠でぴたりと固定されている。
木は古い樹脂の匂いがします。削れたところから甘い匂いが立つ。血の匂いは、思ったより薄い。たぶん、丁寧に拭かれているから。
丁寧に人を殺すのって、逆に怖いですわね。
左右には衛兵が二列。
槍の穂先が、少しでも動けば首筋に触れそうな距離で揃っている。
正面には司祭の小さな壇。聖印が彫られた木の柱と、布の垂れ幕。厳かな顔をしているけれど、目は忙しい。観衆の熱に酔っている目。
そしてその後ろ——処刑場を取り囲むように、人、人、人。
貴族の席は前列に設けられていました。柵の内側、少し高い場所に、簡易の天幕。
日陰になって涼しそうで、そこだけ別世界みたい。
そこで。
白髪の少女が、宣告しています。
「聖女フィーネの名において、ミルフィ・フォン・ルーヴェンを——」
まっすぐな声。透明な目。まるで硝子。
でも、その透明さが、わたくしの知っているフィーネちゃんじゃない。
同い年。同じ学園。
平民出身で皆に見下されて、それでも背筋だけは折れなくて。
わたくしだけが隣に立って、同じ教科書を覗き込んで、笑って。
——笑って、いたはずなのに。
(……違う)
フィーネちゃんの瞳は、わたくしを見ていない。
“わたくし”ではなく、“罪状”を見ている目。読み上げるための目。
目の奥に、“よそ者の言葉”が居座っておりますの。
声の内側に、命令の匂いがする。甘くもない、苦くもない。無味の刃みたいな匂い。
(催眠……)
分かりやすすぎますわ。
それに、こういう手口を使う人間の顔も——分かっておりますの。
貴族席の最前。
天幕の縁、影の中。
涼しい顔をしている男が一人。
レオハルト。
青い髪。青い瞳。センター分け。
侯爵家嫡男らしい、完璧な姿勢。白い手袋の指先だけが、ほんの少し強く握られている。
口元だけ、わずかに歪む。笑いではない。歪み。
(……あなたですのね)
わたくしの婚約者。
体面のために破棄できない。だから破棄せず、消す。
伯爵家がどうなろうと、知らない顔で。
——証拠さえ、残らなければ。
*
牢の中で訴えたときも、そうでしたの。
「侯爵家の嫡男が、聖女に催眠を——」
言い終わる前に、天井の鎖が切れて灯りが落ちました。真っ暗。
看守が慌てて転んで鍵束が水たまりに沈んで、話が霧みたいに散った。
ああ、そうですわ。
わたくしの不運は、肝心なところだけ、わたくしの味方をしない。
*
「——処刑を執行せよ」
司祭の手が上がる。
刃を固定していたロープが軋む。
観衆の息が、一斉に吸われる。広場の空気が一枚薄い膜になる。
わたくしは唇だけ持ち上げました。
泣き顔を見せたら、負ける気がしたから。
「……ええ、どうぞ。わたくし、運が悪いだけですのにね」
運が悪いだけ。
それなのに、今日のわたくしは“悪役令嬢”。
聖女様に嫌がらせをした。
わざと災厄を起こした。
平民を見下した。
神を冒涜した。
——そんなこと、一つもしていないのに。
むしろ。
わたくしは、唯一、フィーネちゃんの味方でしたのに。
そのとき。
「ミルゥゥゥ……っ!」
空気を裂く泣き声が、処刑場の中心に突き刺さりました。
……あ。
この泣き声、知ってる。心臓の裏に一瞬で届く。
悲鳴じゃない。怒号でもない。
ただの、みっともないくらいの“好き”の音。
人垣が割れる。
衛兵が止めようとして——なぜか自分の槍の柄に足を引っかけて転ぶ。
司祭の袖が柵に絡んで、壇の段差で派手にこける。
観衆が「えっ」と息を呑む。
こういうときだけ、世界が勝手にコメディになるの、やめてほしいですの。
そして、飛び込んできたのは——
金髪のショートボブ。赤い垂れ目。涙でぐしゃぐしゃの顔。
寝間着。
左右違う靴。
髪は片側だけ寝癖が跳ねて、片目の下に枕の跡まで付いている。
走ってきたせいで息が上がって、喉がひゅっひゅっと鳴っている。
香りだけは無駄に華やか。
バラとキンモクセイが混ざって、むせるほど甘い。
寝間着で香水って何してますの!? お姉さま!!
「ミルぅ……ミルぅぅ……しんじゃやだよお……っ!」
「お姉さま!?」
セラフィナ・フォン・ルーヴェン。
伯爵家の長女。婚約破棄されて家で風当たりが強くて、でも本人がポンコツネガティブで、放っておくとすぐ泣く人。
——そして、わたくしの、世界でいちばん大事な人。
セラは衛兵の列をよじ開けるみたいに突っ込んで、ギロチン台へ駆け上がった。
木枠越しに、わたくしへ抱きつく。
「近いですわ! 首! 固定! 固定されてますの! 息が——!」
「やだぁ……やだよぉ……ミルがいなくなるの、最悪ぅ……!」
「最悪って言いながら抱きしめるの、今はやめてくださいまし!」
涙と香水で世界がべたべたですの。
嫌じゃないけど——今じゃない!
ぎゅう。
抱きしめる力が強い。
普段ふにゃふにゃなのに、わたくしを守るときだけ腕が本気になる。
そのとき、わたくしの視線がセラの指に止まる。
蛇が巻き付いた金の指輪。ダイヤモンドの目が涙の光を拾って、赤く瞬いている。
胸元には銀のロザリオ。
そして寝間着の紐に雑に結びつけられた、重い輝き——銀と金と、伝説のオリハルコンの飾り。エルダーロザリオ。
「……お姉さま」
「なに……? ミル、こわいの……? だいじょうぶ……?」
「今、わたくしが助かるには、四つのアイテムが必要なんですの」
「うん……うん……」
「それ、お姉さまが全部、身に着けてますわ」
「……え?」
セラはぽかん、と口を開けて——次の瞬間、泣き顔のまま叫ぶ。
「なにそれぇぇ!? しらないよぉぉ!? わたし、なにもかんがえてないよぉぉ!!」
「でしょうね!! 香水二本つけてる時点で!!」
「まちがえたのぉ……ミルの好きな匂い、わかんなくてぇ……両方ぁ……っ」
「今は匂いの好みの話をしてる場合じゃありませんの!!」
観衆が凍っている。
司祭が固まっている。
衛兵が呆然としている。
貴族席の天幕の下で、レオハルトの手袋だけが——ぎゅ、と音を立てた。
——でも、わたくしは見た。
フィーネちゃんの瞳が、ぴくりと揺れたのを。
香りが渦を巻く。
銀の鎖が偶然みたいにエルダーロザリオの飾りへ絡む。
蛇の目が光り、祈りの銀が冷え、オリハルコンが鈍くうなる。
セラは、何も考えていない。
ただ、わたくしが死ぬのが嫌で、泣きじゃくって飛び出してきただけ。
なのに——世界が勝手に、儀式の形になる。
甘さが膜みたいに広がって、何かが“ほどける”気配。
蛇が見えない糸を噛み切るような、鋭い気配。
祈りの鎖が、呪いの鎖を引きはがす気配。
鍵穴が、開く音がした気がしましたの。
「……ミル?」
フィーネちゃんの声が戻った。
昔の、やわらかい呼び方で。
胸が、きゅっと痛い。
嬉しいのに、泣きたいのに、笑ってしまいそうになる。
「フィーネちゃん……っ」
フィーネはふらりと一歩前に出た。
聖女としての威厳が薄紙みたいに剥がれ、代わりに“少女”がそこに立つ。
「……わ、たし……何を……」
白い指が自分のローブの裾を掴む。震えている。
でも——そこで終わらなかった。
フィーネは息を吸って、顔を上げた。
「処刑を止めてください」
声が、はっきりした。
司祭が反射で言いかける。
「しかし聖女様、先ほどご自身が——」
「先ほどの私は、“私ではありませんでした”」
フィーネは壇の前へ進む。
処刑場の中心に立つ位置。観衆の視線が集まる位置。
そこに、逃げずに立った。
「教会法に基づき宣言します。ミルフィ・フォン・ルーヴェンの処刑は即時停止。裁きは再審に移行。——私は証人です」
司祭の顔色が変わる。
観衆が息を呑む。
“聖女が言った”——それだけで、場のルールが塗り替わる。
フィーネはさらに続けた。
「私は外部から精神に干渉されていました。言葉が勝手に口を通っていました。……私の口で、友だちを殺す命令を出させた者がいます」
友だち。
その一言が、刃より鋭い。
司祭が震える声で問う。
「……誰が、それを?」
フィーネの視線が、貴族席の天幕へ落ちる。
レオハルトへ。
処刑場が氷みたいに静かになる。
レオハルトの表情が、ひび割れた。
「……っ、ふざけるな」
彼は無意識に一歩前に出てしまった。止めようとして止められなかった足。
「催眠が——」
空気が凍る。
“言ってはいけない一言”が、本人の口から零れた。
レオハルトははっと口を押さえた。遅いですわね。
「……違う。今のは——」
その視線がセラの指輪とロザリオに吸い寄せられる。
唇が勝手に動く。
「その香水の比率、誰が教えたと思ってる。……あの蛇の指輪だって、元は——!」
司祭が青ざめる。
衛兵の手が槍を握り直す。
観衆のざわめきが怒号に変わり始める。
「今、催眠って言ったのか?」
「聖女様に……?」
「侯爵家嫡男がそんな——!」
フィーネは青ざめたまま、逃げずに言う。
「……レオハルト様。あなたが、私を操ったのですか」
柔らかいのに、逃げ道を切る声。
レオハルトはフィーネを見下した。
そして——その見下しを隠せないほど追い詰められていた。
「黙れ。平民が」
場の温度が一段落ちた。
「お前が入学式で余計なことを言ったせいで……!」
彼の声が、急に生々しくなる。
「聖女の“随伴席”は、学園と教会と貴族の象徴だ。あそこは、次代の政治と権力が生まれる場所だ。——うちの侯爵家が代々、聖女の右後ろに立ってきた。俺が継ぐはずだった!」
観衆がざわめく。
貴族たちの何人かが、顔を強張らせる。分かるから。あの席の意味が。
フィーネが小さく呟く。
「……随伴席は、誰かが“継ぐ”ものじゃない。神が選ぶの」
その一言で、レオハルトの顔が歪む。
「神? 笑わせるな。お前が、勝手に奇跡を見せびらかしたせいで……ミルフィが、お前の隣に立ったんだ」
彼の視線が、わたくしに刺さる。
「伯爵家の娘が平民の横に立って“友だち”ごっこ。——そのせいで俺は外へ押し出された。侯爵家の面子が潰れた。だから、元に戻すだけだ。席も、秩序も、全部」
ああ。
だからわたくしを消す。
わたくしがいなければ、“平民の隣”は空く。空けば、そこに自分が戻れる。
そういう算段。
フィーネが、きっぱり言った。
「衛兵。侯爵家嫡男レオハルト——彼を拘束してください。聖女への精神干渉の疑い。ならびに、処刑執行の不正介入の疑い」
司祭も反射で頷いた。
「……教会も同意する。拘束しろ!」
衛兵が一斉に踏み出す。
正義が、やっと向きを変えた。
レオハルトの顔が歪む。
「……触るな」
手が懐へ伸びる。短い杖。魔術の媒介。
フィーネが息を呑む。
セラがわたくしを抱きしめる腕に力を込める。
「ミル、こわい……なにあれ……」
「……大丈夫ですわ」
わたくしは、息を整えた。
ここで震えたら負け。
ここで一歩踏み出せたら勝ち。
そして何より——フィーネちゃんの目の前で、フィーネちゃんを二度折らせるわけにはいきませんの。
「セラ、お姉さま」
「なに……?」
「一回だけ、ぎゅってして。今、ぎゅって」
「う、うん……っ」
香水が強い。涙が熱い。
蛇の目が光る。銀の鎖が冷たい。オリハルコンが重い。
わたくしは首の固定が外れた隙を突いて、台から転げるように飛び降りた。
着地の瞬間、足が滑った。
転ぶ——と思った。
でも、転ばなかった。
滑った勢いで、衛兵の槍の間をすり抜けた。
……不運って、こういう形もあるんですのね。
「ミル!?」
セラの叫び。
フィーネの息。
レオハルトの苛立った声。
「どけ。邪魔だ。お前さえ消えれば——」
杖が構えられる。
指先に青い光が集まる。雷じゃない。もっと静かで、汚れない殺し。
衛兵が距離を詰める——その瞬間。
誰かの鎧の留め具が外れた。
槍が一瞬もつれて衛兵がよろける。
司祭が段差で足を取られて体勢を崩す。
小さな不運が連鎖して、“間”が生まれる。
わたくしの番ですの。
わたくしは走った。
真正面から、レオハルトへ飛び込んだ。
「え——」
彼が目を見開く。
わたくしは彼の胸にぎゅっとしがみついた。
鎧みたいに硬い胸板。
冷たい匂い。鉄と紙と、上等なインクの匂い。
こういう匂いの人が、いちばん汚いことをしますの。
「な、何を——離せ!」
「離しませんわ」
わたくしは、にっこり笑って言いました。
「だって、わたくしの運の悪さ、あなたにだけは似合いますの」
「ふざけるな! 放せ! 離せ!!」
魔術が放たれる——その直前。
空が、鳴った。
雲ひとつない青空なのに。
腹の底まで響く雷鳴。
観衆が一斉に空を見上げる。
司祭が十字を切る。
衛兵が武器を落とす。
セラが「ひっ」と声を漏らす。
フィーネが、震える声で言った。
「……やめて。ミルに、触らないで」
祈りみたいな声。
わたくしは胸元のエルダーロザリオを握った。
銀と金とオリハルコン。伝説の重みが、祈りの形でわたくしの輪郭をなぞる。
「やめろ! なにを——!」
「不幸の力で、自爆特攻ですの」
怖いからこそ、明るく言う。
「お姉さまのラッキーで一発逆転、の前に。わたくしのアンラッキーで、あなたを落としますわ」
——そして。
落雷が、直撃した。
白い閃光。耳が潰れる。空気が焦げる匂い。
身体の芯まで震える衝撃。
でも、痛みは来なかった。
エルダーロザリオが、わたくしの周りで光の膜になって、雷を“無いこと”にした。
熱も衝撃も音も——わたくしのところだけ世界が少し静かになる。
わたくしは、ただ。
レオハルトの胸に抱きついたまま立っていた。
レオハルトだけが。
運悪く。
——崩れ落ちた。
青い髪が土に落ちる。
青い瞳が、どこも見ない。
倒れる音が、やけに軽い。
さっきまで世界の中心にいた人が、ただの肉になる音。
その瞬間。
わたくしの胸元で、エルダーロザリオが——一度だけ、低く鳴った。
鈍い音。
鍵が、奥まで回ったみたいな音。
そして、ほんの一瞬。
耳の奥に。
わたくし以外の声が、囁いた気がしましたの。
——「開いた」。
何が、とは言っていない。
でも、言われた気がした。
観衆が叫び始める。
「神罰だ……!」
「侯爵家が聖女に手を出した罰だ……!」
「拘束を——!」
神罰。
便利な言葉ですわね。
でも、今はそれでいい。
少なくとも“処刑の正義”は崩れた。
フィーネが膝をついた。
白い髪が揺れ、肩が小さく上下する。震えが、やっと来たみたいに。
わたくしは一歩、彼女へ向かう。
足がふらつく。遅れて震えが来る。
……不運は、いつも遅れてくるタイプですの。
セラがふらふら駆け寄って、わたくしに抱きついた。
「ミル……ミルぅ……っ、しんでない……? しんでない……!?」
「ええ、生きてますわ。お姉さまの香水が濃すぎて、死ねませんの」
「うわぁぁぁん……よかったぁぁ……!」
セラの泣き声が、処刑場の空気を溶かす。
さっきまで“正義”を掲げていた人たちが、急に現実に戻っていく。
正義って、泣き声に弱いんですのね。
フィーネが顔を上げた。
涙が頬を伝う。でも目は逃げない。
「ミル……わたし……わたし……」
「謝らないで」
わたくしは、笑って言った。
笑えるうちに言わないと、泣いてしまうから。
「フィーネちゃんは、騙されただけですの。……それに、今戻ってきた。わたくし、それで十分ですわ」
フィーネの唇が震える。
「……怖かった。ミルを……自分の手で……」
「大丈夫。ほら、触って」
わたくしが手を差し出すと、フィーネは迷ってから、そっと握った。
冷たい指。震えが残っている。
その瞬間、セラが横から割り込んで、両手でわたくしたちの手を包み込む。
「……最悪。こわい。……でも、ミルとフィーネが、手、つないでる。……よかった」
「お姉さま、感想が小学生ですわ」
「ミルぅ……」
泣き声がまだ止まらなくて、わたくしはつい笑ってしまった。
処刑場の空気が、ゆっくりほどけていく。
——終わったのだ。
わたくしたちは、生き延びたのだ。
しかも、わたくしのアンラッキーは、誰かを守れたのだ。
……救い方が派手すぎますけど。
*
数日後。
学園の廊下は、陽だまりの匂いがした。
石造りの壁が温まって、窓から入る風が甘い。
事件のあと、学園は一度休校になって。
わたくしたちは色んな大人に囲まれて、たくさん質問されて、たくさん書類を書かされましたの。
「雷は偶然か?」
「聖女への精神干渉は誰の術か?」
「エルダーロザリオはどこから?」
「——“よそ者”とは何だ?」
最後の質問だけ、少しだけ声が低かった。
大人たちは“誰が”より、“何が”を恐れている顔をしていましたの。
……知りませんわ。
わたくしはただ、運が悪いだけですの。
でも貴族社会は、説明が欲しい。
説明があれば、何でも“整う”。
レオハルトの件は、侯爵家にとって大事件でした。
けれど——彼が吐いた言葉は致命的で。
「催眠」と言った瞬間、もう戻れない。
「平民が」と言った瞬間、もう隠せない。
「席が」と言った瞬間、もう小物ですの。
侯爵家は体面を守るために沈黙しました。
教会は聖女を守るために沈黙しました。
そして伯爵家——わたくしの家は。
両親がわたくしの顔を見て、何も言えなくなりました。
……それが、少しだけ、ざまあですの。
でも、ざまあって、ちょっと苦い。
その苦さは、夜に来ますの。
金属音がすると喉が詰まる。
刃が落ちる音が夢の中で鳴る。
起きたら、首筋が冷たい。
わたくしは、笑って誤魔化します。
笑えるから、わたくしは生きている。
——だけど。
「ミル、今日こそ転ばないでね」
フィーネちゃんが心配そうに言う。
白髪のストレートロングが光を受けて柔らかく揺れる。
事件のあとフィーネちゃんは、泣くのを我慢しなくなった。
そして、我慢しないぶん、たまに“手”が震える。
廊下の端で誰かが鋏を落とす音がすると、フィーネちゃんの肩がびくっと跳ねる。
次の瞬間、彼女は深呼吸して——わたくしの方を見る。
逃げない目。
「大丈夫ですの。今日は、お姉さまが——」
「……最悪」
セラが小さく呟いた。
制服姿。……ちゃんと制服を着ているだけで奇跡ですの。
髪も整ってる。枕の跡もない。香水も——一本。
ただ、その「最悪」は、前より少し低い声だった。
冗談みたいに聞こえて、でも目が本気ですの。
「……今、花瓶が落ちそう。ミル、避けて」
「え?」
次の瞬間、廊下の端の花瓶が、誰も触っていないのにぐらりと傾いてこちらへ倒れてきた。
「ミル!!」
フィーネちゃんが叫ぶ。
わたくしが避けるより早く、セラが真顔のまま花瓶を受け止めた。
花瓶は——なぜか、セラの腕の中でぴたりと止まる。
落ちない。割れない。水もこぼれない。
セラは息を吐いて、肩をすくめる。
「……ほら。最悪って言ったから」
「お姉さま、予知みたいに使うのやめてくださいまし」
「……だって、こわいんだもん」
セラの指が、わたくしの袖を掴む。
前より少し強い。
「ミル、また……ああいう所に行くの、最悪」
冗談じゃない。
でも泣き声でもない。
——あの日の続きの言葉。
フィーネちゃんが、そっと息を吐いた。
「……ミル。今日、放課後、一緒に図書室行こう。授業、ちゃんと受けたい」
「ええ、もちろんですの。わたくし、教科書を落としても拾いますわ」
「落とさないでって言ってるんだよ」
ツッコミが昔みたいで。
胸がふわっと軽くなる。
事件のあと、わたくしたちは少しだけ距離をとっていました。
フィーネちゃんが悪いわけじゃない。
でも“自分の手で殺しかけた”記憶は、彼女の心を噛み続ける。
だからわたくしは、わざといつも通りにしました。
いつも通り笑って、いつも通り隣に立って、いつも通り歩く。
そうすれば、戻ってくると信じたから。
セラはそれを見て、ちょっとだけ拗ねますの。
お姉さまはネガティブだけど、嫉妬はちゃんとする。
「……ミル」
袖を引く。
「なんですの?」
「……フィーネと話すの、いいけど……ミル、わたしのことも、見て」
「見てますわよ」
「……もっと……」
「……お姉さま、欲張りですのね」
「最悪……でも……ミルが好き……」
「最悪って言うのやめてくださいまし!」
フィーネちゃんが、くすっと笑った。
その笑いが、胸の奥の硬いところを少しだけ溶かす。
「……二人、仲いいね」
「仲いいですの。お姉さまはポンコツですが」
「ポンコツじゃないよぉ……」
「ポンコツですの」
セラが唇を尖らせて、フィーネちゃんはまた笑う。
こういう日常が欲しかった。
処刑台なんて、いらなかった。
でも——あそこまで行かなければ、わたくしたちは手を繋げなかったのかもしれない。
そう思うと、貴族社会って、やっぱり最悪ですわね。
セラが、わたくしの手をぎゅっと握る。
フィーネちゃんが反対側からそっと重ねる。
あの日、処刑場で戻ってきたものが、今、ここにある。
「大丈夫ですわ」
わたくしは明るく言いました。
「わたくし、運が悪いだけで——負けませんの」
セラが鼻をすすって、フィーネちゃんが笑って。
わたくしたちは三人で、昼下がりの廊下を歩いていく。
たまに落雷の気配がしても。
たまに花瓶が倒れてきても。
たまに階段の段数が増えてても。
セラが「最悪」と呟けば、なぜか助かって。
フィーネちゃんが「ミル、こっち」と手を引けば、なぜか転ばなくて。
わたくしが笑えば、なぜか世界がちょっとだけ優しくなる。
ただ——胸元のエルダーロザリオだけは、ときどき低く鳴りますの。
鍵が、どこかで回っている音。
何の鍵かは、まだ分かりませんわ。
でも、分からないままでも——わたくしたちは手を繋いで歩ける。
それでも。
楽しい学園生活を送りましたとさ。




