第9話 鞴(ふいご)の熱と、震える両手
シュゴォォォ……。
シュゴォォォ……。
俺は、機械だった。
思考を持たず、感情を持たず、ただ一定のリズムで鞴を押し、炉に風を送るだけの装置だ。
目の前では、赤熱した鉄塊が火花を散らしている。
主人のガンテツが、巨大な槌を振り下ろすたびに、カーン! カーン! と甲高い音が鼓膜を打つ。
「おい、風が弱ぇぞ! もっと強く踏み込め!」
ガンテツの怒声が飛ぶ。
俺は無言で頷き、痩せこけた腕に力を込める。
熱い。
炉の熱気が顔を焼き、汗が煤と混じって黒い雫となって顎から滴り落ちる。
身体中が悲鳴を上げている。
でも、それでよかった。
肉体的な苦痛がある間だけは、あの「記憶」が薄れるからだ。
アテナの笑顔も、ガロンのスープも、あの白い少年の冷たい瞳も、熱と疲労が塗りつぶしてくれる。
(俺は、鞴だ。ただの道具だ)
俺は自分に言い聞かせ続ける。
幸せを感じてはいけない。
安らぎを覚えてはいけない。
もし俺が「人間」に戻ってしまったら、またあのバグチェッカーが現れて、この場所を更地にしてしまう。
だから俺は、ガンテツ一家の顔を見ないようにしていた。
名前も呼ばない。会話もしない。
ただの背景として、空気として、ここに存在することを許されたかった。
***
昼休憩の時間になった。
ミナさんが、煤だらけのお盆を持って工房へ入ってくる。
「お疲れ様。今日はお芋の煮っ転がしよ」
甘辛い匂いが漂う。
ガンテツは豪快に芋を頬張り、ポチは「おいしー!」と燥いでいる。
「ほら、あなたも食べなさい」
ミナさんが、俺の前に皿を置く。
俺は工房の隅、資材置き場の影で膝を抱えていた。
家族の団欒には加わらない。その光景を見るだけで、胸が切り裂かれるように痛むからだ。
「……いただきます」
俺は蚊の鳴くような声で呟き、機械的に芋を口に運ぶ。
味を感じてはいけない。
美味しいと思ってはいけない。
ただの燃料補給だ。
「ねえねえ、おにいちゃん!」
ポチがトテトテと近づいてきた。
手には、歪な形をした鉄屑を持っている。
「みてみて! ポチがつくったの! ケンだよ!」
「……」
俺は視線を逸らした。
その無邪気さが、刃物のように俺を刺す。
あのアテナも、最初はそうやって俺に魔法を見せてくれた。
関わるな。俺に近づくな。
「ポチ、お兄さんの邪魔しちゃだめよ」
ミナさんがポチを引き戻す。
ポチは不満そうに頬を膨らませ、俺の方をちらちらと見ている。
俺は逃げるように、まだ残っている芋を喉に流し込んだ。
熱い塊が食道を焼く。
その痛みに、俺は少しだけ安堵した。
***
午後の作業が始まった。
ガンテツは「今日は大物を作るぞ」と気合を入れ、真っ赤に焼けた鉄板を叩き始めた。農具の鋤だ。
俺は鞴を動かし続ける。
腕の感覚はとうになくなっていた。
その時だ。
「わぁっ! チョウチョだ!」
ポチの声がした。
工房の中に迷い込んだ蛾を追いかけて、ポチが走り回っている。
「こらポチ! 危ねぇぞ!」
ガンテツが叫ぶ。
だが、子供の好奇心は止まらない。
ポチは蛾を追いかけ、積み上げられた鉄材の山――今朝届いたばかりの、バランスの悪いインゴットの山の近くへ足を踏み入れた。
グラッ。
一番上にあった重たい鉄塊が、振動でバランスを崩した。
「――あ」
スローモーションに見えた。
鉄塊が傾く。
その下には、小さなポチがいる。
ガンテツは金床の前だ。間に合わない。
ミナさんは外だ。
俺の脳裏に、あの光景がフラッシュバックした。
光の杭に貫かれた俺。
逃げ遅れたアテナ。
押しつぶされる命。
(動けねぇ……)
恐怖で足がすくむ。
まただ。また俺の目の前で死ぬんだ。
どうせ運命だ。どうせバグ処理だ。俺が見ていようがいまいが、結果は変わらない――。
『ダイチさんは、私が守ります』
幻聴が聞こえた。
守れなかった約束が、呪いのように俺を突き動かした。
「――く、そぉぉぉぉっ!!」
俺は叫んだ。
恐怖を怒りでねじ伏せ、鞴を放り出して地面を蹴った。
間に合うか? わからない。
でも、目の前で「グシャッ」という音を聞くのだけは、もう嫌だ!
「どけぇぇっ!!」
俺はポチの小さな体にタックルした。
ドガンッ!!
直後、轟音と共に鉄塊が落下した。
土煙が舞い上がる。
工房の床が揺れた。
「ポチッ!!」
「あなたッ!!」
ガンテツとミナさんの悲鳴が重なる。
……静寂。
「……う、ぅ……」
俺は目を開けた。
俺の腕の中には、目を白黒させているポチがいた。
無傷だ。
俺の右足のすぐ横に、漬物石ほどもある鉄塊がめり込んでいた。
あと数センチずれていたら、俺の足も、ポチの頭も、トマトのように潰れていただろう。
「お、おにいちゃん……?」
「……はぁ、はぁ……」
俺は全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
助かった。
誰も死ななかった。
あの白い少年も現れなかった。
「てめぇ……!」
ガンテツが血相を変えて駆け寄ってきた。
巨大な手が伸びてくる。
殴られる。
仕事中に持ち場を離れたからだ。騒ぎを起こしたからだ。
俺は身を竦めた。
ガシッ。
ガンテツの手は、俺の頭を掴んだ。
そして、ゴシゴシと乱暴に撫で回した。
「よくやった……! よく動いた!」
ガンテツの声が震えていた。
見上げると、煤だらけの強面の目から、涙が滲んでいた。
「ポチ! 怪我はないか! 馬鹿野郎、心配させやがって!」
ガンテツは俺とポチをまとめて抱きしめた。
熱い。苦しい。
汗臭いし、鉄臭い。
「ありがとう……ありがとう……!」
ミナさんも駆け寄り、俺たちの周りで泣き崩れた。
俺は、されるがままになっていた。
拒絶できなかった。
この「生」の実感が、ガンテツの腕の痛いほどの力が、俺の凍りついた心に無理やり流れ込んでくる。
(ああ……)
俺は知ってしまった。
この世界には、まだ体温がある。
まだ、俺の手で守れるものがある。
それが怖くて、そしてどうしようもなく嬉しくて。
俺は煤で汚れた顔を歪め、初めて声を上げて泣いた。
「うわぁぁぁぁぁぁん!!」
恐怖の涙ではない。
安堵の涙だ。
五度目の人生で初めて、俺は「人間」として泣いた。
***
その夜。
俺は工房の隅ではなく、食卓の席につかされていた。
ガンテツが、秘蔵の酒をコップに注いでくれる。
「飲め。煤払いだ」
「……俺、未成年かも……」
「知るか。働いた男は大人だ」
ガンテツはニカッと笑った。
その笑顔は、もう俺を傷つけなかった。
「お前、名前は?」
ガンテツが改めて聞いた。
これまでは聞く必要もなかった「道具」の名前。
俺はコップを両手で握りしめ、小さく答えた。
「……ダイチ。ダイチです」
「そうか。いい名だ。大地みたいに踏ん張りが利きそうだ」
ガンテツは俺の肩をバンと叩いた。
「ダイチ。明日からは鞴だけじゃねぇ。鉄の打ち方も教えてやる。……いつかここを出て行くにしても、手に職がありゃあ食っぱぐれねぇからな」
出て行くことが前提の言葉。
それが、逆に俺の心を軽くした。
ずっとここにいるわけじゃない。いつかまた「バグ」として狙われる日が来るかもしれない。
でも、それまでは。
この温かい場所に、少しだけ甘えてもいいのかもしれない。
「……はい。お願いします、親方」
俺は頭を下げた。
窓の外では、まだ黒い雪が降り続いている。
だが、工房の中の炉の火は、今はとても温かく感じられた。
杉田大智、五度目の人生。
職業:鍛冶屋見習い。
精神状態:リハビリ中(微かな希望あり)。
俺の止まっていた時間が、カチリと音を立てて動き出した。




