第8話 家族
空から降ってくるのは、雨ではなかった。
黒い雪――いや、煤だ。
俺は、灰色の粉が降り積もる路地裏で目を覚ました。
呼吸をするたびに、鉄錆と焦げた臭いが肺に張り付く。
視界を埋め尽くすのは、煙突だらけの無機質な石造りの街並みと、空を覆う分厚い鉛色の雲。
(……死ねなかったのか)
俺は煤にまみれた瓦礫の上で、虚ろな空を見上げた。
あの少年に額を撃ち抜かれた感触は残っている。だが、意識は繋がっている。
五度目の人生。 新しい体。
「……あ、ぁ……」
生きていることを確認した瞬間、猛烈な吐き気が込み上げた。
胃の中は空っぽなのに、内臓が裏返るほどにえずく。
『大好き……でした』
アテナの最期の言葉。
弾け飛んだ彼女の笑顔。 ガロンが溶けたスープの赤。ハンスさんの眼鏡のこびりついた肉片。 幸せの絶頂が一瞬で地獄に変わった光景が、フラッシュバックする。
「う……ぐぅ……」
俺は頭を抱え、黒い灰の中でダンゴムシのように丸まった。 怖い。 何も見たくない。何も聞きたくない。
どうせまた「削除」される。 俺が誰かと関わり、少しでも幸せを感じた瞬間、あの白い悪魔が現れて全てを無かったことにするんだ。
なら、俺はずっとゴミのままでいい。誰の目にも留まらず、ただの灰として埋もれていたい。
カン、カン、カン……。 遠くから、鉄を打つ音が聞こえる。その音が、俺の心臓を杭で打つように響いた。
***
「――おい、生きてるか?」
不意に、野太い声が降ってきた。俺は身じろぎもしなかった。どうせ街のゴロツキか衛兵だろう。蹴り殺してくれればそれでいい。
「……死体じゃねぇな。だが、ひどい有様だ」
ごつごつした手が、俺の肩を掴んだ。岩のような硬さと、火傷しそうなほどの熱を持った手。
「放っておいて、くれ……」
俺は掠れた声で拒絶した。触るな。俺に触ると不幸になる。お前も消されるぞ。
「放っておけるか。店の前で野垂れ死にされたら、商売上がったりなんだよ」
男は鼻を鳴らすと、強引に俺の襟首を掴んで引きずり起こした。俺の視界に映ったのは、煤で真っ黒に汚れた巨漢だった。ねじり鉢巻に、筋肉の鎧のような上半身。革のエプロンは火の粉で穴だらけになっている。鍛冶屋だ。
「立てるか? ……無理そうだな。チッ、面倒なこった」
男――鍛冶師のガンテツは、俺を米袋のように軽々と担ぎ上げた。
「やめろ……降ろせ……!」
「暴れるな。舌噛むぞ」
ガンテツは俺の抵抗を無視して、煤けた扉を蹴り開けた。
***
連れ込まれたのは、熱気に満ちた工房の奥にある住居だった。ゴウゴウと燃える炉の火。赤熱した鉄の匂い。それはガロンのキッチンとは違う、荒々しくも生命力に満ちた「生活の熱」だった。
「お父ちゃん! お帰りなさい!」 「あらあら、あなた。また何か拾ってきたの?」
奥から、割烹着を着た女性と、小さな男の子が駆け寄ってきた。おかみさんのミナと、息子のポチ(本名はポールだが、走り回る様子からそう呼ばれているらしい)。
「裏の路地で拾った。水と、残りのシチューを出してやってくれ」
「まあ、真っ黒じゃない! 早くこっちへ!」
俺は古びた木の椅子に座らされた。ミナが濡れた手拭いで俺の顔を拭く。ポチが興味津々な目で俺の周りをチョロチョロと走り回る。
「おにいちゃん、だあれ? おめめ、まっかだよ?」
「こらポチ、離れてなさい。お兄さんは疲れてるのよ」
平和な家族。質素だが、互いを思いやる温かい空間。それが、今の俺には猛毒だった。
(やめろ……見せるな……)
アテナたちとの日々が重なる。この温かさの先に待っているのは、あの無慈悲な「消去」だ。この人たちが、ある日突然、肉塊に変わり、存在ごと消される。 俺のせいで。
「……う、ぅッ……!」
俺はガタガタと震え出した。出された木の器に入ったスープ。湯気が立っている。それを見るだけで、吐き気がした。
「ほら、熱いから気をつけて」
ミナが優しく微笑む。アテナの笑顔。
「おにいちゃん、パンもあるよ!」
ポチが硬い黒パンを差し出す。その無邪気な瞳。
「――来るなッ!!」
パコーンッ!!
俺はポチの手を振り払った。黒パンが床に転がり、灰にまみれる。
「あっ.....」
「うええええええん!!」
ポチが泣き出した。ガンテツの眉間に青筋が浮かぶ。
「てめぇ……!」
ガンテツの鉄拳が、テーブルに叩きつけられた。 ドンッ!! と食器が跳ねる。
「ガキの施しを無にしやがって……!出て行け!今すぐ叩き出すぞ!」
胸ぐらを掴まれる。殴られる覚悟で、俺は目を閉じた。そうだ、それでいい。殴って、追い出してくれ。 俺は一人で凍えて死ぬべきなんだ。
「あなた、待って!」
ミナがガンテツの腕にしがみついた。
「この人の目を見て。……怒ってるんじゃないわ。怯えてるのよ」
ガンテツの動きが止まる。彼は至近距離で俺の目を見た。俺の瞳の奥にある、底なしの絶望と恐怖を。
「……チッ」
ガンテツは舌打ちをして、俺を椅子に突き放した。
「……行く当ては、ねぇんだな」
「……」
「そうかい。なら、働く手は一本でも欲しい。明日から鞴吹きをやれ」
俺は呆然と顔を上げた。
「……なんで」
「勘違いするな。ポチを泣かせた罪滅ぼしだ。ただ飯ぐらいは置いとかねぇ」
ガンテツは背を向け、炉の方へと歩いていった。 ポチはまだ泣きじゃくっているが、ミナが「よしよし」と頭を撫でている。
俺はテーブルに残されたスープを見つめた。根菜と豆が入った、泥のように濁ったスープ。震える手でスプーンを運ぶ。しょっぱい。俺の涙の味がした。
(ごめんなさい……ごめんなさい……)
心の中で繰り返す。温もりを感じるたびに、罪悪感が胸を締め付ける。俺はここにいてはいけない。 でも、外の寒さに耐える気力もない。
俺はスープを飲み干すと、逃げるように部屋の隅で膝を抱えた。心を閉ざせ。誰とも目を合わせるな。 ただの鞴を吹く機械になれ。そうすれば、この人たちは「バグ」にはならないはずだ。
杉田大智、五度目の人生。 現在地:煤煙都市の鍛冶屋。 精神状態:極度の人間不信と自己否定。
炉の炎が赤々と燃えている。それは俺の冷え切った心を温めるにはあまりに熱く、そして焼き尽くされた過去を思い出させるには十分すぎる明るさだった。




