第7話 謎の少年
目が覚めると、そこは天国だった。
窓から差し込む朝日は、レースのカーテンを通して柔らかい光の粒子となり、部屋中に満ちている。
豪邸の広いベッド。最高級の羽毛布団の感触。
そして、隣には愛しい少女がいる。
「……んぅ……」
アテナが寝言を漏らし、無防備な顔で俺の胸に頬を擦り付けてきた。
長い睫毛。透き通るような白い肌。彼女の体温が、生きている喜びを直接脳に伝えてくる。
昨夜の宴の熱狂は夢ではなかった。俺は村を救った英雄であり、この上なく可愛い恋人(予定)を手に入れ、巨万の富を得たのだ。
(ああ、幸せだ……)
俺は天井を見上げ、深く息を吸い込んだ。
階下からは、食欲をそそる香りが漂ってくる。
ガロンが朝食を作っているのだろう。彼の作るスープは絶品だ。きっと村長も「朝の挨拶」にかこつけて、また食事をねだりに来ているに違いない。
平和だ。
あまりにも完璧な、平和な朝。
俺の人生のピークは、間違いなく今ここにある。
――コン、コン。
不意に、玄関の扉を叩く音がした。
控えめで、礼儀正しいノックの音。
「……ん、誰だろう。こんな朝早くに」
俺はアテナを起こさないようにそっとベッドを抜け出した。
床に落ちていたジャージを羽織り、あくびを噛み殺しながら階段を降りる。
「ガロン、誰か来たぞー」
キッチンの方に声をかけたが、返事がない。
おかしいな。いつもなら「ブモッ!(すぐに出るブモ!)」と元気な声が返ってくるはずなのに。
ただ、鍋がコトコトと煮える音だけが、静寂の中で響いている。
(トイレにでも行ってるのか?)
俺は首を傾げながら、玄関へと向かった。
重厚な木の扉に手をかける。
村長か? それとも、また野菜を持ってきてくれた村人か?
「はいはい、どちら様で……」
ギィィィ、と扉を開ける。
眩しい朝の光が俺の目を焼いた。
そこに立っていたのは、見知らぬ少年だった。
年齢は十歳前後だろうか。
雪のように白い髪。血のように赤い瞳。
そして、まるで葬儀に参列するかのような、漆黒の礼服を着ている。
その手には、不釣り合いなほど巨大な、真紅の装丁の本が抱えられていた。
「……おはようございます、スギタ・ダイチさん」
少年は、鈴を転がすような美しい声で言った。
その口元には、天使のような微笑みが浮かんでいる。
「え、あ、おはよう。……どこの子? 迷子かな?」
俺は努めて優しく声をかけた。英雄としての余裕だ。
だが、少年は俺の質問には答えず、ただジッと俺の顔を見つめ、そして抱えていた本を開いた。
パラパラとページをめくる音が、異様に大きく響く。
「現在時刻、午前七時三十二分。……うん、やっぱりエラー値が出てるね」
少年は独り言のように呟くと、パタンと本を閉じた。
「あ、あのさ。君、名前は?」
「僕ですか? 名前なんてありませんよ。強いて言うなら……『調整者』かな」
少年はニコリと笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺の背筋に氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。
違う。
こいつは、子供じゃない。人間ですらない。
以前出会った「黒い剣士」とも違う。あいつからは「無機質な殺意」を感じたが、目の前のこの少年から感じるのは――**「無邪気な悪意」**だ。
アリの巣に熱湯を注ぎ込む子供のような、純粋で残酷な好奇心。
「さて、ダイチさん。素晴らしい朝ですね。鳥は歌い、花は咲き、あなたが大好きな仲間たちは……ああ、もう『処理』が終わりましたっけ」
「……は?」
処理? 何を言っているんだ?
「見てごらんなさい。あなたの庭を」
少年が白い手袋をした指で、俺の背後――リビングの掃き出し窓の方を指差した。
俺は釣られるように振り返り、そして窓の外を見た。
そこには、俺が愛した村の風景が広がっているはずだった。
だが。
「――――あ?」
声にならない音が、喉から漏れた。
無い。 何も、無い。
向かいの家も、村長の家も、楽しげな広場も、黄金色の麦畑も。全てが、消滅していた。
まるで巨大な消しゴムでこすり取られたかのように、地平線の彼方まで、ただ赤茶色の更地が広がっているだけだった。
瓦礫すらない。生活の痕跡すらない。
つい数時間前まで、俺を胴上げしてくれた数百人の村人たちが、物理的に「存在しなかった」ことになっていた。
「な……なん……だ、これ……」
俺は膝から崩れ落ちそうになった。
夢だ。これは悪夢だ。
だって、おかしいだろう。音もしなかった。悲鳴も聞こえなかった。
一瞬で? 村が一つ、消えた?
「きれいになったでしょう?」
背後で、少年が楽しそうに言った。
「データの掃除って言うんです。バグの温床になったエリアは、初期化するのが一番ですから」
「ふ、ふざけるな……! 村のみんなは!? ハンスさんは!?」
俺は振り返り、少年の胸倉を掴もうとした。
だが、手が空を切る。
少年はいつの間にか、数メートル後ろに移動していた。瞬間移動とも違う、まるで映像のコマ送りのような動き。
「村長さんなら、そこにいますよ」
少年が足元を指差した。
俺の足元。玄関のマットの上。
そこに、何かが落ちていた。
それは、眼鏡だった。
ハンスさんが愛用していた、丸い眼鏡。
だが、レンズは粉々に砕け、フレームは拉げ、そして――べっとりと、赤い肉片と白髪がこびりついていた。
「ひっ……!?」
俺は飛び退いた。まさか。この、シミのようなものが、ハンスさん?
「圧縮したんです。老朽化したデータでしたから、zipファイルみたいに小さくしてあげました」
ケラケラと笑う少年。吐き気が込み上げる。胃の中の胃酸が逆流する。
狂っている。こいつは完全に狂っている。
「ガ、ガロン!!」
俺は這うようにしてキッチンへ向かった。
ガロンなら。あの最強のオークなら、無事なはずだ。
「ガロン! 頼む、出てきてくれ! 変な奴がいるんだ!」
キッチンに飛び込む。
そこには、確かにガロンがいた。大鍋の前で、お玉を握りしめて立ち尽くしている。
「ガロン! よかった、無事……」
俺が駆け寄ろうとした瞬間。ガロンの巨体が、ゆらりと揺れた。
ボトッ。
ガロンの「頭」が落ちた。
切断面などない。まるで粘土細工のように、首から上が溶け落ちて、鍋の中に水没したのだ。
「ブ、モ……?」
鍋の中から、微かな声が聞こえた気がした。
煮えたぎるスープの中で、ガロンの顔が俺を見上げている。その表情は、恐怖と、そして「逃げろ」という絶望的なメッセージを伝えていた。
ジュワァァァ……。
鍋から、異様な音が響く。スープが赤く染まっていく。
ガロンの体が、崩れ落ちるように膝をつき、そのまま塵となって崩壊した。
「ああ……あああ……」
俺は腰を抜かし、失禁した。
生暖かい液体が股間を濡らすが、恥辱など感じない。
ただ、圧倒的な暴力と死の気配が、俺の心を粉砕していく。
「料理番の彼、最期まで鍋を守ろうとして偉かったですねぇ」
いつの間にか、少年がキッチンのテーブルに座っていた。
そして、鍋の中を覗き込み、鼻をつまむ。
「でも、野蛮な味付けは好みじゃないな。……廃棄で」
少年が指をパチンと鳴らすと、鍋ごとガロンの痕跡が消滅した。
「やめろ……やめてくれ……」
俺は床に頭を擦り付けた。
ハッタリ? 賢者? そんなものは通用しない。 こいつは神だ。あるいは悪魔だ。俺ごときが抗える相手じゃない。
「助けて……何でもする……金ならある……だから……」
「金? そんなデータ上の数値に何の意味が?」
少年は冷笑し、俺を見下ろした。
「さて、残るバグはあと二つ。あなたと……二階の『聖女崩れ』ですね」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳内で何かが弾けた。
「アテナには手を出すな!!」
俺は絶叫し、立ち上がった。
恐怖よりも、彼女を失うことへの恐れが勝った。 俺は近くにあった包丁を掴み、少年に向かって突進した。
「うおおおおおっ!! 死ねぇぇぇっ!!」
素人の、遅すぎる突撃。
だが、殺意だけは本物だった。こいつを殺さなきゃ、アテナが殺される。
少年は動かなかった。
ただ、憐れむような目で俺を見つめ――。
「遅いですよ」
ドスッ。
俺の腹に、衝撃が走った。
包丁を突き出したはずの俺の手が、空を掴んでいる。
そして、俺の腹部には、何本もの「光の杭」が突き刺さり、床に縫い付けられていた。
「がっ、は……っ!?」
激痛。焼けるような痛み。
動けない。指一本動かせない。
「だ、ダイチさん!?」
階段の方から、悲鳴が聞こえた。
アテナだ。騒ぎを聞きつけて起きてきたのだ。
「来るな……! アテナ、逃げろ!!」
俺は血を吐きながら叫んだ。
だが、遅かった。
アテナは俺の惨状を見て、顔面蒼白になりながらも駆け寄ってきた。
「ダイチさん! いやっ、血が……!」
「逃げろ……こいつは……!」
アテナは俺の腹に刺さった光の杭を見て、震える手で杖を構えた。
「よ、よくもダイチさんを……! 許さない……絶対に許さない!」
彼女の全身から、かつてないほどの魔力が溢れ出す。
怒りと悲しみが、彼女の潜在能力を限界まで引き出していた。
「聖なる光よ! 邪悪を討ち払え! 《ホーリー・ジャッジメント》!!」
彼女が放てる最強の攻撃魔法。
部屋中が純白の光に包まれる。直撃すれば、ドラゴンすら消滅させる威力。
だが。
「うるさいなぁ」
少年は、あくびをしながら片手をかざした。
パリン。
ガラスが割れるような音がして、アテナの魔法が粉々に砕け散った。
光の粒子となって、無為に霧散していく。
「え……?」
アテナが呆然と立ち尽くす。
少年はゆっくりとアテナに近づいていく。
「君、その『聖女』っていうジョブ、向いてないよ。データが汚染されてる。バグだらけだ」
「く、来るな……!」
アテナが後ずさる。
俺は杭を引き抜こうともがくが、ビクともしない。 やめろ。やめてくれ。
俺の目の前で。
「ダイチさん……」
アテナが俺を見た。
その目には、恐怖ではなく、深い愛情が宿っていた。
彼女は覚悟を決めたように、俺に向かって手を伸ばした。
「大好き……でした」
それが、彼女の最期の言葉だった。
少年が、アテナの頭にそっと手を置いた。
「さようなら。次はもっとマシなデータに生まれるといいね」
グシャッ。
濡れた雑巾を絞るような音がした。
アテナの頭が、弾けた。
脳漿が飛び散る。美しい栗色の髪が、血と混じり合って床に広がる。
首から下だけの体は、数瞬だけ立ち続け、そして糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
俺の顔に、温かいものが降りかかった。
アテナの血だ。鉄の匂い。アテナの匂い。
「あ……」
思考が停止した。
目の前の光景が理解できない。
さっきまで。さっきまで、俺の隣で寝ていたのに。 一緒にご飯を食べるはずだったのに。ずっと一緒にいるって、約束したのに。
「ア……テ、ナ……?」
俺は呻いた。喉が張り裂けそうなほどの絶叫が込み上げる。
「うあああああああああああああああああああああっ!!!」
絶望。ただひたすらに、黒く塗りつぶされた絶望。 涙も枯れ果て、口からは血の泡が溢れる。
「なんで……なんでだ!! 俺たちが何をした!! ただ幸せになりたかっただけなのに!!」
俺は少年に向かって吠えた。
殺してやる。殺してやる。俺の命なんてどうでもいい、こいつだけは地獄の底まで引きずり落としてやる。
少年は、血に濡れた手袋を嫌そうに外しながら、冷ややかな目で見下ろしてきた。
「『何をした』? 何もしていませんよ。ただ、あなたはこの世界の許容量を超えて幸せになりすぎた。それはバグです。バグは削除しなければならない。簡単な理屈でしょう?」
「ふざけるな……! そんな理屈が通ってたまるか……! 返せ……アテナを返せ……!」
「無理ですね。データは完全に消去しました。バックアップもありません」
少年は俺の顔の前にしゃがみ込んだ。
「あーあ、ひどい顔。英雄の面影もありませんね。……まあ、最初から偽物だったわけですが」
少年が俺の額に人差し指を当てる。
冷たい。死のような冷たさ。
「さて、スギタ・ダイチさん。今回のトライアルはこれにて終了です。ご愁傷様でした」
「待て……死にたくない……まだ……」
死にたくない。
でも、生きていたくもない。
アテナがいない世界で。仲間がいない世界で。
俺の心は千々に乱れ、恐怖と憎悪と後悔でぐちゃぐちゃになっていた。
俺は、無力だった。
賢者ごっこをして、いい気になって、守れる力もないのに彼女を巻き込んで。
俺が殺したようなものだ。俺が、アテナを殺したんだ。
「――死刑執行」
少年の指先に、黒い光が灯る。
ズチュゥゥンッ!!
額から脳髄を貫く衝撃。視界がホワイトアウトする。痛みは一瞬だったが、その一瞬の中に、永遠のような絶望が凝縮されていた。
薄れゆく意識の中で、俺は最後に見た。
アテナの亡骸が、光の粒子となって消えていく様を。
そして、少年の嘲笑うような赤い瞳を。
(畜生……神様……もし次があるなら……)
(俺は、絶対に……)
思考が断ち切られた。
杉田大智、四度目の死。 死因:世界による粛清。 幸福の絶頂から奈落の底へ。 彼の心は、完全に壊れたまま、深い闇へと沈んでいった。




