第2話 密室の扉が開く
【午後七時ちょうど・十一階――馬場/三木塚】
馬場雷太は、十一階の自席で放送のチャイムを聞くと、
前の席の尾藤淳に声をかけた。
「ちょっと下に行ってくる。すぐ戻るから」
資料をまとめる間も惜しむように立ち上がり、
足早にエレベーターホールへ小走りに向かう。
自動扉が開いた瞬間、上から降りてきた“7号機”の扉がちょうど開いた。
中から三人の男が降りてくる。
そのうちの一人――十五階から下りてきた三木塚の脇をすり抜け、
馬場は閉まりかけていた扉へ滑り込んだ。
エレベーター内は、彼ひとりだけだった。
高層階用のエレベーター(“6号機”から“10号機”)は、
十一階を過ぎると一階へ直通し、十階から二階までは止まらない。
三木塚は十一階にある自席へ向かい、
同乗していた二人の社員は、
低層階行きの“1号機”から“5号機”へ乗り換えるために、
反対側のパネルで、下行ボタンを押した。
――◇――
外の中華店で夜食を済ませた二人の男が、
ビルのエントランスへ戻ってきた。
小太りで髪の薄い天宮 稔と、赤ら顔で眼鏡をかけた石川 安男。
どちらも三十五歳の同期で、十四階に席がある。
一階ホールの高層階用エレベーター前。
――天宮が上ボタンを押すと、“8号機”の頭上の△ランプが淡く光った。
最も早く来るエレベーターを自動で選ぶ仕組みだ。
……“8号機”には本郷が、“7号機”には馬場が乗っていた。
「チィ、遅いなぁ……」
天宮は壁のボタン盤を指先で軽く叩いた。
横では石川が爪楊枝をくわえ、歯の隙間をほじりながらニヤニヤしている。
時間の止まったような、静かなロビーだった。
【補足図】
――◇――
やがてチャイムが鳴り、“8号機”の上にある△ランプが点滅に変わる。
ドアが静かに開き、そこから本郷が降りてきた。
無言のまま、書類鞄を持った手を軽く揺らしながら歩く。
エレベーターの中には、他に誰もいない。
すぐに天宮と石川が、本郷の左右から乗り込み、
十四階のボタンを押した。
ドアが閉まる間際――
エレベーターに乗った二人は本郷の背中を見送った。
本郷がビル出口の警備員の前を通る。
その時、外からビニール袋を抱えた志季が、入館証を掲げて戻ってくるところだった。
「お疲れさまです」
警備員が、ビルの外に出る本郷の背中に軽く会釈する。
本郷は返事をせず、ガラスの自動ドアを抜けて夜の闇に消えた。
――◇――
本郷と入れ違いに、志季はパンの袋を抱えたまま、
高層階用エレベーターの前に立ち、上ボタンを押した。
――“7号機”の△ランプが点灯。
【補足図】
そして間もなくして、到着を知らせるチャイムが鳴り、ランプが点滅に変わる。
チン、という電子音がロビーに響いた。
……次の瞬間だった。
「――きゃあっ!」
甲高い悲鳴が、ロビー全体に響き渡った。
入口で警備をしていた二人の警備員が、
顔を見合わせて駆け出す。
悲鳴の聞こえたエレベーターホールへと飛び込むと、
“7号機”の前に、腰を抜かした志季が座り込んでいた。
口を震わせ、声にならない息を吐きながら、
床に落ちたビニール袋の横で、菓子パンが五つ転がっている。
異常を察した警備員の一人が、
閉まりかけていたドアの隙間に肩を押し入れ、
中を覗き込んだ。
「うっ……!」
咄嗟に口元を押さえた。
エレベーターの中で、男が一人――血にまみれ、
壁にもたれかかるように座り込んでいた。
胸から腹にかけて、真紅に染まったシャツが肌に張り付き、
その上を血がゆっくりと流れ落ちていく。
生ぬるい鉄の匂いが、空気を満たした。
一階のロビー全体が、
やがて血の臭気に支配された。
警備員はすぐに『110番』通報をした。
「誰も外へ出さないように」との指示に従い、
出入口のシャッターを下ろし、建物を封鎖。
地下駐車場のゲートも同時に閉じられた。
ビルの中の時間が止まった。
――馬場雷太、三十歳。
胸を鋭利な刃物で一突きされ、即死だった。
――◇――
一時間後。
約三十名の捜査員が現場に到着し、
ロープが張られたエレベーターの内部と、
ビル全体の捜索が始まった。
二匹の警察犬も投入されたが、
館内から凶器は発見されない。
封鎖されたままの建物の中で、
全員の持ち物が検査された。
机、ロッカー、トイレ、排水口、下水管。
さらに地下駐車場の車両やトランク、
ビル周囲の植え込みに至るまで――。
それでも、刃物はどこにも見つからなかった。
――◇――
二週間後。
沈黙だけが、ビルを包んでいた。
その静寂を、誰も破ることはできなかった。
――だが、その日だけは違った。
あの“バディ”が、沈黙を破りに駆けつけてくる。
……そう。
どんな難事件も、二十四時間で解決してしまう。
**『24時間のアユライ』――安由雷 時明**である。




