第1話 午後七時のブラインド
――二週間前。
夜のオフィスは、紙と蛍光灯の匂いが漂う静寂に包まれていた。
その時――馬場雷太の机上で、電話のベルがけたたましく鳴り響いた。
彼は広げていたプログラムリストから視線を外さず、
無言のまま受話器を取り上げた。
「…………七時か、分かった」
短くそう言って受話器を置くと、壁の時計へと視線を移す。
【午後六時四十分・馬場】
窓の外はすでに闇。
十一階の窓ガラスには、蛍光灯の明かりに照らされた室内と、
無精ひげの自分の顔が映りこんでいた。
残暑の湿気は消え、秋の気配が静かに忍び寄っている。
馬場が出向している碧星総研株式会社は、
業界二位の大手シンクタンクだ。
横浜市の住宅地にそびえる地上二十階・地下一階の巨大本社ビル。
敷地内には、地上三階・地下一階のレストランハウスが併設され、
パン屋や書店、喫茶店が入っており一般にも開放されている。
館内は「西館」と「東館」に分かれ、
中央には十基のエレベーターが――高層階用と低層階用が向かい合う形で、それぞれ五基ずつ並んでいた。
低層階用(1号機~5号機)は全階に止まり、
高層階用(6号機~10号機)は、20Fから11F、1F、B1のみに停車し、11Fを出ると1Fまで直通となっている。
馬場は、その東館十一階・技術開発二部に所属している。
派遣元は東部コンピュータ社。
同じ派遣先から来ている吉川志季は、彼の隣の席だが、離席中。
いま彼女は、残業を続ける同僚たちのために夜食のパンを買いに外へ出ている。
馬場が参加しているプロジェクトは、
八月中旬から佳境を迎えていた。
毎晩のように午後九時過ぎまで残業が続いている。
ただ最近は、不況の影響と働き方改革もあり、午後六時以降に残業をする人の数もめっきりと減っていた。
――◇――
【午後六時五十七分・本郷】
同じ東館十三階。
流通業務一部のデスクで、本郷健次郎が帰り支度をしていた。
彼は、碧星総研株式会社の正社員である。
書類を整え、引き出しに鍵を掛ける。
革の鞄を手に、ロッカーからスマホを取り出し、窓際の課長に声をかけた。
「課長、今日はこれで失礼します」
課長は経済新聞から目を離さず、視線だけを上げて軽く頷く。
蛍光灯の白い光が、本郷の眼鏡に冷たく反射した。
彼は静かにドアへ向かい、
出入り口でタイムカードを押す。
その刻印音が、静まり返ったフロアに乾いた音を残した。
――◇――
【午後六時五十八分・三木塚】
――十五階。
三木塚瑛太は、マシンルームでプリントアウトしたばかりの分厚いリストを抱え、下りのエレベーターを待っていた。
彼もまた、馬場と同じ、東館十一階の所属である。
ただし派遣元は、日本三松川システム開発会社で、馬場とは別会社。
二人が言葉を交わしたことはほとんどない。
しかし――共通の人物を通じて、顔だけは知っている。
――吉川志季である。
志季は彼に惹かれていた。
そして、その想いは静かに、彼の中にも芽生えていた。
だが、志季にはまだ“恋人”がいた。馬場雷太だ。
最近、志季は何度も馬場に別れを告げた。
しかし馬場は頑として首を縦に振らなかった。
未練と執着が、いつしか脅迫に変わっていた。
「別れるなら、俺が買ってやった物を全部返せ」
ブランドバッグ、ネックレス……総額は百数十万円。
さらに、交際当時の馬場のスマホメモリに保存してある『愛の証』をバラまくと言って脅してもいた。
その話を聞いて――
卑怯な男だ、と三木塚は思った。
そんな志季を不憫に感じた。
相談を受けているうちに、それがいつしか愛に変わっていった。
――◇――
【同時刻(6:58)・本郷】
――十三階。
本郷が、“8号機”のエレベーターに乗り込んだ。
中は無人。自分一人だけだった。
――◇――
【同時刻(6:58)・志季】
――館外。
吉川志季は、隣のレストランハウスで夜食のパンを買い、
紙袋を片手にビルへ戻る途中だった。
外気はすでに秋の冷たさを帯び、
彼女の頬を夜風が撫でていく。
――◇――
【――午後七時】
館内中にチャイムが鳴り響いた。
「――ただ今、午後七時になりました。
作業を一時中断して、すべての窓のブラインドを下ろしてください」
女性の録音された声が、
全館のスピーカーから柔らかく流れ出す。
館内に残っている人たちが立ち上がり、窓のブラインドを下ろし始めた。
窓の向こうの街灯りが一つ、また一つと遮断されていく。
横浜の住宅街にあるため、夜の窓から漏れる明かりを遮断するためであった。




