第2話 動く密室と、三人の影
覆面パトカーは高架下の信号で止まっていた。
「で、ユーマ。結局、何が言いたかったんだよ」
安由雷が、灰皿にタバコを押しつけた。
悠真はその灰皿を一瞥してから、安由雷を見た。
「今回の事件は、もう解決したも同然ですよ。
僕には、凶器のありかも、犯人の目星も、すでについています」
「……ほう」
「犯人は、かなり頭が切れる人物です。
でも――この僕ほどじゃなかった。
それは、担当刑事が僕になることまでは読めなかったことです。
犯人の、たった一つの誤算は、それは、僕が、本庁から、助っ人として呼ばれ……」
「もういいから、結論を早く言え」
安由雷は、両手を頭の後ろで組み、大きくあくびをした。
悠真は少し物足りなそうに唇を尖らせたが、すぐに言葉を続けた。
「僕の推理では、今回の犯人は――三人に絞られます」
提供された資料を見れば、動機のありそうな人物は誰が見てもその三人しかいなかった。
「で?」
「まず一人目は――**本郷 健次郎**、三十一歳。
碧星総研の社員で既婚者ですが、子どもはいません。
本郷は、殺された**馬場 雷太**に三百万円の借金がありました。
しかも、馬場が殺された当日、返済の約束をしていたらしいんですよ」
「当日、返済予定……?」
「馬場の手帳から、死んだ当日のページに【19:00 本郷返済】と書いてあったそうです」
「被害者の手帳に【19時】――午後七時か。……優に定時を過ぎてるな?」
「そうなんですよ。
返すだけなら、昼休みとか、終業後の午後五時でもいいはずなんですけど」
(勤務時間内・外で、変わるものがあるのか……?)
安由雷の頭の中に、何かが引っかかった。
長いまつ毛が一度ゆるく瞬き、視線が宙を泳ぐ。
「……なんで、三百万も借りたんだ?」
「正確には“借りた”というより、“車を分割で買った”ようです。
馬場は相当なカーマニアで、三年前、自分が乗っていたスポーツタイプの車を、本郷に五百万円で売っていたんですよ。
――毎月十万円の分割払いで」
「残業代でねえ」
「彼は大手企業の正社員で、当時は残業代だけで十万は稼げたらしいですが、二年前の“働き方改革”で、一気に残業が減ったんです。
そこから支払いが滞り、関係が悪化していったようです」
「……二年前から、か」
「馬場も相手が親しかった本郷で、さらに相手はユーザー側なので、少しは我慢をしていたようですけど」
「馬場は黙ってないよな」
安由雷は身を起こし、手枕を腕組みに変えた。
「そうです。
資料によると、馬場は“残り三百万を一括で払えば穏便に済ますが、拒否すれば裁判沙汰にして、利息も損害も全部乗せて請求してやる”――そう言い放ったそうです」
安由雷は、感心したように鼻を鳴らした。
「すごいな」
「え?」
「あいかわらず、妙に暗記力だけは優秀だな」
安由雷は、感心した様子で言った。
悠真は、昨夜読んだ資料の内容から忠実に話をしていた。
「それほどでも……あるんですけどね!」
悠真は、長身の頭を掻きながら、オーバーアクションで照れる格好をした。
「なら車を返せばいいんじゃないか」
安由雷が、そんな悠真をほっておいて軽く言った。
「本郷は一昨年、事故を起こして……車は全損だったそうです」
期待していたような相づちは返ってこなかったので、悠真は、少しだけ寂しそうな顔で答えた。
安由雷は、深くため息をついた。
*
「それで、お前の推理では本郷が犯人なんだな」
安由雷が顔を向けると、悠真は前を見たまま、ゆっくりと首を横に振った。
「そう思うでしょ。ところが――本郷じゃないんですよ」
「なんで?」
「本郷が一番怪しいんですが、彼には未だ崩せないアリバイがあるんです」
「当日、出張でもしてたのか?」
「いえ、犯行のあった館内にはいましたが、彼が十三階から別のエレベーターに乗って、少し後に十一階から乗った馬場よりも、一足先に一階に着いて、家に帰っているんですよ。
ほんの数分の差――本当に一足違いですけどね」
「先に帰った……」
「そう。つまり、十階から二階の間で“エレベーターを乗り移れない限り”、物理的に犯行は不可能なんです」
「……んで」
「んで、……ですけど。さっき、あと二人容疑者がいると言いましたよね」
悠真は指を二本立て、楽しそうに続けた。
「二人目は――馬場の隣席に座る**吉川 志季**、二十五歳。
彼女は被害者と同じ会社からの派遣で、二人は交際をしていましたが、最近は別の会社からの出向社員――**三木塚 瑛太**に心変わり。
三人目は、この三木塚で、志季が別れ話をしても、馬場が聞く耳を持たなかったようです」
「愛は消えたというのに、……女々しいやつだな」
安由雷がぼそりと呟いた。
「でも吉川志季という女性も髪が長く、目の間は少し広いんですけど、愛嬌のある可愛い子でしたよ。馬場も彼女を失いたくはなかったんじゃないですかね」
「おい、なんでお前、顔まで知ってんだよ!」
安由雷は、シガーソケットを押し込もうとして、顔を上げた。
「え? 資料に写真入ってましたよ。見てないんですか?」
悠真が目を丸くする。
安由雷は、気まずそうに頭を掻きながら、
「……字ばっかの資料は眠くなるんだよなぁ」
とぼやいた。
「で、お前の推理だと、犯人は――?」
「犯人は、ですね」
悠真は少しじらし、得意げに口角を上げた。
「……吉川志季と、三木塚瑛太なんですよ」
「――共犯?」
「そうです。
一階のエレベーターホールで馬場を刺したのは吉川、
そして、凶器を隠したのが三木塚。
この二人の共犯なんです」
「先輩は、『霧の群青館殺人事件』という有名な推理小説を知ってますか?
駆け込んできた者が、密室の鍵を絨毯に落とす――」
「知らん」
安由雷の即答が、短く車内の空気を切った。
悠真は苦笑して肩をすくめる。
「はあ。……じゃあ、
先輩なら、凶器をどこに隠せば絶対に見つからないと思います?」
安由雷は、ほんの一瞬だけ考えて、目を細めた。
「絶対に見つからない為には、……最初から隠さなければいいんじゃないか」
と、安由雷が返したところで、車の中が急に暗くなった。
「先輩、ここです。――碧星総研」
覆面パトカーは、静かに碧星総研株式会社の地下駐車場へと降りていった。
コンクリートの壁が近づくたび、蛍光灯の白い光がフロントガラスを流れ、
排気の匂いがゆっくりと車内を満たしていく。
そして――事件の気配だけが、確かにそこにあった。




