第1話 24時間のアユライ登場!
「先輩、……先輩!」
覆面パトカーを運転している**岡本 悠真**が、ハンドルを軽く叩きながら横を見た。
悠真は今年本庁に配属されたばかりの、二十三歳の新米刑事。
「先輩!」
「……なんだよ」
助手席でシートを倒し、居眠りをしていた**安由雷 時明**が眠そうな目を開けた。
安由雷はほんの少し先輩の二十八歳で、キャリア組の一応は警部補である。
「ちょっと聞いて下さいよ」
「な・に・を」
安由雷はゆっくりとシートを戻し、起き上がりながら面倒くさそうに横を見た。
「その前に先輩、それ取って下さいよ」
悠真が、安由雷のかぶっている白い警察ヘルメットを指差した。
「……ん?」
安由雷は片眉を上げ、怪訝な顔のまま、ゆっくりとあご紐を外した。
「何でいつも、ヘルメットを着けて寝てるんですか?」
問いには答えず、安由雷は無言のままヘルメットを取ると、後部シートへ放り投げた。
スリムだが引き締まった体をゆっくり起こし、
軽くウェーブのかかった髪を無造作に撫で上げた。
彫りの深い顔立ちに、凛々しい切れ長の目。
……けれど、美人を見ると、その目がだらしないほどハの字に垂れる。
――そして、女のように長いまつ毛。
それが、彼のトレードマークだった。
「寝てる間に成仏したくないんでな」
安由雷が胸ポケットからタバコを取り出し、火を点けながらぼそりと言う。
悠真は、ちらりと横目でその横顔を見て、唇を尖らせた。
百九十センチの長身に、少し細身の体。
童顔でクリっとした大きな目が印象的で、伸ばした前髪を真ん中で分けている。
どこか抜けた雰囲気があるが、真っすぐな性格の男だった。
*
その時突然、車内のスピーカーから警察無線の砂嵐混じりの音が鳴った。
《緊急連絡、緊急連絡。保土ヶ谷区●●町の一戸建てに複数の強盗が罪もない家に押し入り……老夫婦が重傷……犯人は四名、黒のセダン、ナンバー確認中――》
「保土ヶ谷って……」
安由雷がタバコをくわえたまま、ゆるくそう言ったときだった。
「近くですね。
だけど、僕たちは、本庁からの応援に行く途中なので、所轄を無視して介入することはできませんね」
悠真が、残念そうに呟いた。
《老夫婦の夫は、バールのようなもので殴られて、片目が失明。犯人グループは、凶器を持っているので注意するように……》
「最近多いですよね、こういう事件。闇バイトで集められた者たちが、罪のない家に押し入り、住人に暴行したり、殺してしまったり──」
「ひでぇな」
安由雷が窓の外に遠い視線を向けた。
少しの沈黙。
「……で、なに?」
安由雷はタバコに火を点けると、大きく煙を吹き出した。
「あっ、そうでした。そうでした」
悠真が赤信号で止まって、窓を少し開けながら、
「今回の事件ですけど、昨日もらった資料を見ましたか」
「………」
「見ました?」
悠真が横を見た。安由雷はタバコをくわえたまま、小さく首を横に振る。
「見てないんですか、もう~先輩。お願いしますよ。
今回は本庁からの助っ人という事で、僕なんか、昨夜は一時ぐらいまで、知人の知恵を借りて……」
「で、なんだよ!」
安由雷が話の途中で割り込む。
「あのですね、今回は先輩のキャリアの中でも特別ですよ!」
悠真は少し身を乗り出した。
「だって今回で先輩、大記録ですよ。
あの二十四件の難事件を解決した“24時間のアユライ”の神話が――ついに二十五件目!」
安由雷はタバコをくわえたまま、ふっと笑うように息を吐いた。
「……そうか。二十五か。嫌な数字だな」
二十五歳。ろくな年じゃなかった――。
あのときの“悪女ストーカー”の顔が、ふと脳裏をかすめた。
(また、変な奴につっかけられなければいいが……)
その瞬間、悠真は見た。
安由雷の切れ長の瞳が、一瞬だけ、鋭く光ったのを。
「あっ、そうそう、その件なんですけど、僕の推理は――」
悠真の言葉が止まった。
「ん?」
「……話しても意味ないでしょう!
だって先輩、事件のこと、全然知らないんですから!」
悠真は、せっかく権造から得たヒントで推理した話をしたかったが、
事件内容を知らない相手に話しても無駄だと悟った。
*
「――二週間前に、碧星総研株式会社で、
十一階からエレベーターに一人で乗った**馬場 雷太**が、
一階に着いたときには、胸を鋭い刃物で一突きされて死んでいた。
だが、そのエレベーターは高層階専用で――十一階から一階の間は止まらない。
さらに、凶器はどこにも見つからず、二週間経った今も行方不明。……だろ?」
悠真は数回瞬きをして、少し嬉しそうに安由雷の顔を見た。
「なぁ~んだ。先輩、ちゃんと読んでるじゃないですか」
「最初の五行までは読むんだよ」
安由雷は欠伸を噛み殺しながら、ぼそりと続けた。
「そのあと、スヤァって、いい夢見ちゃうんだ。……俺、意志の弱い男だからな」
悠真はため息をついて、前を向いた。
「五行で寝落ちできる刑事、初めて見ました」
「ああ、駄目だ駄目だ、――人間失格だ。
俺は生きてる資格もない。死のう。明日死のう。絶対死……」
「もういいですよ、先輩!」
悠真が前を向いたまま、首を横に振った。
安由雷は悪戯っぽい笑みを浮かべ、悠真の左耳に顔を近づけた。
「ど~だった? 今の。
女ってのはな、男が思いっきり自分を卑下すると、母性本能スイッチが入るんだ。
『そんなこと言わないで。大丈夫よ、トキハル。私が力になるから!』
――って来てだな、『私に何でも言って。え?ホテルに行くの?』までがワンセットなんだよ」
「落ちませんよ! そんな雑なトリック、通じるかっての!」
悠真は顔を真っ赤にして、きっぱりと否定した。
「……っていうか、先輩、それ警察でやったらセクハラで牢屋行きですよ」
安由雷は苦笑を浮かべ、悠真の反応を楽しむように目を細める。
「お前、女でなんかあったのか? ムキになりすぎだろ」
そう言って、色っぽい目つきでタバコをくわえ、煙を悠真のほうにふっと吹くフリをした。
「やめてくださいってば、先輩!」
悠真は眉をひそめ、大袈裟に手で空気を払った。
彼はタバコの煙が何より苦手だったのだ。
(――二人の背景には、大きな隔たりがあった)
岡本悠真は、小学五年のときに父を肺がんで亡くした。
高校を卒業するまで、六畳一間の安アパートで、母と二人きりの暮らし。
母のパートの収入と、父の残した五百万円の保険金だけが頼りだった。
冬は石油ストーブ一台きり。
春先の風に乗って、隣の部屋のカレーの匂いが夕飯の合図だった。
そんな悠真とは対照的に――安由雷時明は、まるで別世界にいた。
六本木の高層マンション、最上階のワンフロアを一人で使い、愛車は真紅のフェラーリ。
二歳上の兄と、一回り年下の高校生の妹がいる。
**兄の瑛仁**はスタンフォード大学を出て、
アメリカ人の妻と二人の娘とともに、今はニューヨーク暮らし。
……実のところ、このマンションもフェラーリも、兄のもの。
日本に戻ってくるかは分からないが、
時明は、言ってみればただの「留守番」に過ぎない。
兄の資産を預かる、贅沢な「管理人」だ。
**妹の理央**は鎌倉の大豪邸で両親と暮らしているが、
今年の春から、週末ごとに、このマンションへ顔を出すようになった。
頼んでもいないのに、掃除、洗濯、説教付き――家政婦と母親のハイブリッドだ。
「何でもかんでもクローゼットに投げ込まないで」
「煙草はバルコニーで吸って」
「洗濯物はかごに入れて」
そして最後は、決まってこれ。
「アキ兄を見習って、ハル兄もそろそろ家庭を持ちなさい」
……その口調が、年々母親に似てきたなと、時明はいつも思う。
だから時々、彼は悠真を呼び出して、口喧しい妹の話し相手をしてもらっていた。




