第3話 弁当理論の逆襲とチョイすご先輩
安由雷は、両肘をテーブルにつき、指先をピラミッドのように合わせた。
非常灯の白光の中で、その長い指が鼻先の影をつくる。
「――この最後の謎を解くカギは、おまえの一言だった」
その指先を、静かに悠真へ向ける。
切れ長の目が、意味ありげに細められた。
「僕の言葉……ですか?」
「ああ」
安由雷は、わずかに口角を上げた。
が、悠真はまだピンと来ていない様子で、首を傾げる。
「おまえが言っただろ。
“弁当の注文の変更は、買う前なら有効だけど、買った後は無効にしたい”って」
「はい、本音ですけど」
「本郷が乗った“8号機”じゃなく――一階に呼ばれている“8号機”に本郷が乗ったんだよ」
「……え? どういうことですか?」
安由雷は笑みを浮かべ、静かに続けた。
「『買った後は無効、でも買う前なら有効』。
エレベーターも同じだ。
中で《地下一階》を押した後に、一階ホールの『上行ボタン』を押しても無効。
だが――一階の『上行ボタン』でロックされた後に、そのエレベーターに乗り込み、地下一階を押すことは《有効》になる」
悠真の目がぱっと開かれた。
「つまり、……本郷は、一階に呼ばれて“下りてきた8号機”に途中から乗り込んだんですね!」
「そういうことだ」
安由雷の声は穏やかだった。
「たぶん、十五階か十六階などの上にいた“8号機”が、一階ホールで天宮たちの『上行ボタン』でロックされた。
その途中で、本郷が十三階ホールの『下行ボタン』で止めて乗り込み、地下一階を押した。
その偶然が、あいつの“完璧なアリバイ”を作り上げた。
……そして、俺たちは、さっきの実験で、それを崩してみせた」
悠真は感嘆の声を上げ、椅子を軋ませた。
「へぇ~っ、そういうことだったんですね!
一階に呼ばれた方が早かったのか……スゴイ!」
彼は完全に納得したというより、ただ純粋に尊敬していた。
「やっぱり先輩はスゴイや!
でも、今回は僕の助言がなかったら詰んでましたよね?
つまり、僕、完全に超えたってことですよね」
安由雷は小さくため息をついた。
「……はぁ」
「先輩は“チョイすご”だけど、僕は“マジすご”ですよね!」
悠真は大きくガッツポーズを作り、自分で頷く。
「そうだ、チョイすご先輩!」と続ける。
「まだ僕には、ひとつだけ疑問があるんですよ――
あの実験のとき、一階で“6号機”のドアが閉まらないようにしていた捜査員に向かって、
先輩、“グッドジョブ”って言ってましたよね。あれ、なんですか?」
「……ああ、あれか」
安由雷が少し意味ありげな笑みを浮かべた。
「あれはあんまり気にするな」
「えー、気にするなって。
やだなぁ、それじゃあ余計気になりますよ。
――先輩、教えてくださいって」
安由雷は長いまつ毛を伏せ、静かに言った。
「実は。――あの実験、最後に“もう一つの登場シーン”を考えてたんだ」
「もう一つの……登場シーン?」
悠真が聞き返すと、安由雷はゆっくりと頷いた。
「一階ホールに、先に帰った犯人役の本郷が“6号機”で最初に登場する。
次に、おまえ――被害者役の悠真が一人乗った“10号機”が一階に着く。
そうすれば、当日の状況そのままになる。
本郷が先に着き、被害者があとから到着する構図だ。
そして――本郷が降りて、“6号機”のドアが閉まる。
全員が唖然としている中、“チン”とチャイムが鳴り、
その“6号機”のドアが、再び静かに開く。
……その中から俺が、『何かありましたか?』という顔で降りてくる。
――それが最初に考えていた演出だった」
悠真の目が丸くなる。
「えっ、それって……本郷の背後でドアがまた開いて、
“6号機”に乗って先に出発していた先輩が、少し遅れて、何食わぬ顔で降りてくるってことですか!?
まるで、“6号機”に二つの箱があって、
先輩がタイムスリップの寄り道をしてきたみたいじゃないですか!」
「だろ」
「けど、……そんなことが出来るんですか?」
「ああ」
安由雷は苦笑しながら続けた。
「地下一階で本郷を“6号機”に乗せて一階へ行かせたあと、
“10号機”にはおまえ一人で上に行ってもらう。
それから俺は、地下一階の『上行ボタン』を押して、一階にいる“6号機”を呼ぶ。
玄武たちが乗って一階に降りて来たエレベーターは、十一階のボタンを押して、最初の位置にでも戻しておいてもらえば、地下一階へ一番早く着くのは、一階にいる“6号機”になるからな。
――そうすれば、“再登場のトリック”は成立する」
悠真は感嘆の声を上げた。
「おお! すごい!
なんで、それにしなかったんですか!?
最後の《エンディング》としては、そっちの方が完璧じゃないですか!」
「そうだな」
安由雷はカップを指で軽く回した。
「ただ――もし本郷が降りたあと、気を利かせた捜査員が
“6号機”のドアを“開けたまま”にしていたらどうなる?」
悠真が瞬きをする。
「……降りてこない?」
「そう。“6号機”は永遠に一階に留まったまま。
俺は地下に取り残されて、登場できない」
「ああ!!」
安由雷はコーヒーをひと口。
「まぁ、その時は、非常階段を駆けのぼって、非常口から華麗に登場する事はできるけど……。
――息切れしていない振りをして、説明をするのは、ちょっと切ないだろ」
悠真は吹き出しそうになりながら笑った。
「それで! ――あのとき、“6号機”のドアを閉じないようにしていた捜査員に“グッドジョブ(予想通りに良くできました)”って言ったんですね!」
悠真は大きく頷いた。
安由雷は、捜査にはどうでもいいようなことにも周到であった。
――◇――
安由雷は、静かにコーヒーを飲み干し、窓の外へ目を向けた。
ガラス越しに、横浜の夜景が滲んでいる。
ランドマークタワーの赤い点滅が、規則正しく瞬いていた。
「……じゃあ、そろそろ行くか」
安由雷が立ち上がる。
悠真もそれにつられて立ち上がり、
安由雷の空き缶を受け取って、ホール端の回収ボックスへ小走りに向かった。
――二〇階のエレベーターホール。
本庁へ報告をするために地下に止めてある車へ戻ろうと、二〇階のエレベーターホールに出たところで、三人の捜査員と立ち話をしている辰巳警部と出くわした。
辰巳警部は一瞥すると、二人へ向かってゆっくりと歩いて来た。
「おまえたち、ここにいたのか。そろそろ帰るのか」
「はい。いまから本庁へ戻ります」
安由雷が答える。
辰巳警部は頷き、
「今回はよくやった。ご苦労さん」と低い声で言った。
その言葉に、悠真が小さく肩を張る。
安由雷が、横の悠真に首だけ傾ける。
「――悠真!」
「はい?」
「いつものやつ――」
「え? あ、はい!」
一瞬ためらったが、悠真は胸を張って前に出た。
警部の背後にいた捜査員たちが、何が起きるのかと目を向ける。
「警部殿!」
「ん?」
「今回の犯人は、確かに頭の切れる人でした。
でも――たった一つ、大きなミスを犯しました」
辰巳警部が眉を上げる。
「それは、僕と先輩――いや、先輩と僕がこの事件の担当になることまでは、予想していなかったことです。以上!」
悠真は深々と一礼し、颯爽と安由雷の隣に戻った。
安由雷は苦笑しながら、悠真の腹を軽くグーで叩く。
「ぐおぉぉぉ!」
悠真は大げさに腰を屈めて、痛がって見せた。
――◇――
エレベーターのドアが閉まり、二人の姿が消えた。
「あっ……」
辰巳警部が小さく声を上げる。
本郷を県警へ護送するのに同行した奈々花から、悠真に渡してほしいと頼まれていたメモを思い出した。
――白い紙には、十一桁の数字が書かれている。
「……まあ、いいか」
*
辰巳警部は、天井を仰ぎ、ひとつ深く息を吐いた。
「……『24時間のアユライ』――か」
その名を反芻するように、唇がかすかに動く。
笑顔を滅多に見せない辰巳警部だが、
エレベーターホールのガラス窓に映った横顔は、
夜景の光を受けて――静かに、満足げな笑みを浮かべていた。
まるで、終わった夜を見送るように。




