第1話 四度目の正直――沈黙の告白
取調室の蛍光灯が、ゆっくりと瞬いた。
本郷健次郎は、あっけなく自供した。
――頼みの綱にしていたアリバイ・トリックが、いとも容易く崩れ去ったのだ。
逃げ道は、もはやどこにもなかった。
■自供の始まり
「あの週の水曜日に、社内メールで――“エレベーター監視カメラの故障”を知りました。
修理は土曜日になる。……その瞬間、私は“今しかない”と思ったんです」
本郷は、項垂れたまま淡々と語り始めた。
声には焦りも怒りもない。
ただ、壊れた歯車が最後の回転をしているような乾いた調子だった。
「馬場さんへの返済を迫られていました。
もう誤魔化せない、家内にも隠せない。
だから、あの日の午前中に馬場さんを二〇階のレストランに呼び――こう言ったんです」
“今日、家内を実家へ借金の工面に行かせています。
定時後にお金を持ってここに来るので、着いたら電話をする”――と。
馬場は、家族を巻き込んででも返済しようとする誠意だと信じたのだろう。
だが実際には、それが“最期の誘い文句”だった。
(後日の捜査で判明したが、本郷の妻は借金のことを一切知らなかった)
■犯行の準備
「午後六時四十分頃、二〇階のレストランの内線から電話をかけました。
“家内から連絡があり、もうすぐ着く。
七時になったら地下一階の駐車場へ下りてきてほしい”――と」
その声のトーンも、いつもと変わらなかった。
計算された穏やかさが、逆に不気味な静けさを漂わせていた。
「七時の少し前に地下一階へ着き、
エレベーターのドアが閉まらないように鞄を挟んで外へ出た。
ガツン、ガツン……。
鞄にぶつかるドアの音が、心臓の鼓動よりもはっきり聞こえた。
その音を聞きながら、私はようやく“現実が動き始めた”と感じた」
十八時以降、警備員が不在になることも彼は知っていた。
それもまた、計画の一部だった。
「鞄の中には、コンビニ袋に包んだナイフ。
袋を裏返して右手に被せ、そのまま刃を握り込みました。
指紋も、血も、つかぬように」
■犯行の瞬間
――ここから先は、彼自身の回想である。
「少しして、隣のエレベーターのチャイムが鳴りました。
扉が開くと、馬場さんが一人で立っていました。
私を見て、彼は安心したように、少し微笑みました」
もし、乗っているのが彼では無かったり、誰かが同乗していたなら、その場はやり過ごすつもりだった。
だが、その夜だけは――運命が、彼に順番を回してしまった。
「馬場さんが一歩、こちらへ踏み出した瞬間。
私は背中に隠していた右腕を、弧を描くように振り抜きました。
脇腹の下でスナップを効かせ、胸を貫いたんです」
言葉は淡々としているが、その瞬間の光景だけが異様に鮮明だった。
エレベーターの金属壁に反響する「ガン」という音。
息を呑む暇もなく、馬場は後ろに崩れた。
笑みを含んだ顔は、そのまま凍りついていた。
■犯行後の行動
「エレベーターが大きく揺れたので、誰かに気づかれたかと思いました。
でも、すぐに冷静になりました。
右手から袋を裏返して握っているナイフを包み、固く縛り、鞄に戻しました」
乗ってきたエレベーターに戻り、支え棒代わりにしていた鞄を引き抜くと、
エレベーターは何事もなかったように――一階へ上がって行った。
そして少しして、隣のエレベーターも(一階の志季に)呼び出され、静かにドアを閉じた。
■補足(後日談)
当日、全館のエレベーターホールと機内カメラは故障中。
それが、彼に“沈黙という共犯者”を与えた。
馬場の最後の言葉は、尾藤に向けた一言だった。
「ちょっと下に行ってくる。すぐ戻るから――」
それが、生きて放った最後の声となった。
■本郷の終わり
本郷は、すべてを話し終えると、ぽつりと呟いた。
「……当日偶然、運が良かったわけではありません。
これは――四度目の正直、です。
その前にも、屋上に呼び出したことも、酒に酔わせた夜も、全部失敗した。
でも、この時だけは……成功してしまった」
最後の“成功”という言葉を吐いたあと、彼は笑わなかった。
後日――
本郷の鞄の内側から、
ビニール袋を入れる際に付着したとみられる、馬場の微量の血痕が検出された。
さらに、供述の通り、
捨てられた川底から凶器のナイフが発見された。
それは、もう“言葉よりも雄弁な証拠”だった。
そして、沈黙だけが――最後の真実を語っていた。




