表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
迷宮のアユライ ~ 二重密室のトリックを暴け! ~  作者: 霧原零時
第五章 推理対決
23/31

第4話 沈黙を破る者 ― 反撃の狼煙

悠真は、何も言えず下を向いて立っていた。

その大きな体が、子供のように小さく椅子に沈む。

肩が落ち、瞳の縁がかすかに赤く滲んでいた。


奈々花は、そっと視線を伏せた。

もう――なにが正義で、なにが正しい事なのか。

見分けがつかなかった。


その時――


「はあ?」


低い声が、沈黙を切り裂いた。


下を向いて腕を組んでいた安由雷が、ゆっくりと顔を上げた。

切れ長の瞳の奥で、はじめて冷たい光を放った。


「完全に不可能? ……玄武君、それは違うでしょ」

静かに、しかし明瞭に言い放つ。


「着想を――ほんの少しだけ転換すれば、成り立つ話です」


(そうだ、そうだ……! 玄武君に言ってやってくださいよ!)

悠真は心の中で叫び、潤んだ瞳で上司の横顔を見つめた。


(《《玄武君だと》》……?)

玄武の眉がひくりと動く。挑発を理解した。


安由雷は構わず、続けた。


「吉川の使った凶器を、ナイフではなく――そう、あなたの馴染みのモノ。

 “氷の剣”と仮定しましょう。

 それを使ったあと砕いて、エレベーターホールの水が入った灰皿に落とす。

 もしくは、それを三木塚が十一階で受け取って、二十階のトイレに流したとしたら?」


一同が息をのむ。

玄武の眉が、わずかに動いた。


「あなたは、当日の二十階のトイレで流れた水量が――氷の分だけ増えていなかったと、証明できますか?」


玄武の表情が、わずかに引きつった。


「あなたの仮説が“有力”で、悠真の仮説が“即消去”される理由が、

 私にはとても理解できませんね。

 “氷の剣”は、あなただけの特権武器ですか?」


安由雷の声は、あくまで淡々としていた。

しかし、その一言一言が、冷たい刃のように玄武の虚勢を切り裂いていく。


玄武は拳を握りしめ、沸騰しかけた感情をどうにか押さえつけた。

(相手は大したことがない……)

そう心の中で何度も繰り返す。


「では、あなたはどうお考えですか?」

低く、抑えた声。だが、棘がある。


「たいへん自信がおありのようですけど……今日来たばかりで、犯人の目星でもついていると言うのですか?」


「ええ」


安由雷の気のない返答だった。

短いその一言が、まるで挑発のように静かに落ちた。


玄武の顔が歪む。

怒りと警戒が混ざり、奈々花は息を呑む。

――まるで、会議室の空気そのものが膨張していくようだった。


その時、辰巳警部の銀縁の奥――鋭い眼光が異様に光った。

ノンキャリア叩き上げの彼は、安由雷の軽い態度も気に入らなかったが、今の返答がいい加減な時には、ただでは済まさぬつもりであった。


玄武は、できるだけ平静を装って、

「では――説明をして頂けますか?」

と、ゆっくり言った。

その声は、怒りを押し殺した震えを帯びていた。


「そうですね」

安由雷は軽く頷いた。


「ですが――説明だけでは不十分だと思いますので、ここで一つ、実験をしてみたいと思います。

 ――辰巳警部の許可を《《頂ければ》》の話ですが」


『頂ければ』を強調し、辰巳警部に笑顔を向けて、首をチョコンと傾げて見せた。


奈々花の胸が、ドクンと鳴る。

(え……実験って……ここで? 何を……?)

空調の音さえ遠のき、心臓の音だけが響いていた。


辰巳警部は一瞬だけ眉をひそめたが、やがて視線を巡らせ――静かに頷いた。


安由雷はパネライの腕時計をのぞく。

午後五時十五分。


「では、午後六時から始めましょう。

 その前に――館内のエレベーターを五時四十五分から三十分間、誰も使用しないようにしてください。

 十一階には五名の捜査員、そして玄武君に来てもらいます。

 他の方は一階ホールで待機を。

 ……ああ、できれば、一階のみなさんは“赤ら顔でラーメンを食べて帰ってきた感じ”でお願いします」


「ラーメン……?」

奈々花の喉が小さく鳴った。

意味が分からない。だが、妙に本気の声だった。


「それと、捜査員の方の無線機を一つ、お借りします」


辰巳警部も腕時計を見ると、

「分かった。手配しよう」

短く言い、傍らの部下に指示を出した。


安由雷が支援に入れば、どんな難事件でも一日で解決する――

そんな噂は、辰巳警部の耳にも届いていた。


(『二十四時間のアユライ』――お手並み、拝見させてもらおうか)

辰巳警部は静かに腹を決めた。


「犯人は誰ですか?」

玄武が釈然としない顔で尋ねる。

上司までもが、この“茶番”に付き合うことが、どうにも理解できなかった。


「犯人も、その時にお教えします。

 ただ一つだけ言えるのは――凶器は、どこかに“隠した”わけではない、ということです」


「どこにも隠してない?」

玄武の眉が動く。


「ではもう一つだけ――あなたの答えは、あのボードの仮説の中にあるんですか?」


「ええ」

安由雷は軽く笑って答えた。


(あの中にある……?)

玄武の表情に、焦りのような影が走る。


「……もし、実験が失敗したら、どう責任を取るつもりですか?」

その声には、苛立ちと恐れが滲んでいた。


安由雷は、微笑みを崩さず、首を傾げた。


「刑事を辞めますか?」

さらに玄武が追い詰める。


「それもいいですね。そうしましょう。……では、あなたは?」

安由雷がさらりと返す。


玄武の口角がひくりと上がった。

「もし、あなたの実験が正しいと証明されたら、罰ゲームとして――一階で、死んだ馬場のマネでも……」


「玄武っ!」


辰巳警部の低い声が、地底から響くように部屋を揺らした。

玄武の肩がビクリと跳ね、耳たぶが真っ赤に染まる。


安由雷は、そんな空気の中で軽く笑った。

「辰巳警部に叱られますから、被害者の馬場役は悠真にしましょう。

 あなたには――そうですね。

 あなたにしか出来ない演技で『あの時の状況』を再現してもらう、

 重要な“役”を、一つお願いしますよ」


意味深な笑みを浮かべ、ゆっくりと立ち上がった。


「では、後ほど――《《完璧なものをお見せします》》」


その一言に、ラウンジの空気が一変した。

奈々花は、その瞬間、なぜか胸の奥が熱くなるのを感じた。


「この人、いったい……何をするつもりなの」


胸の鼓動が速くなる。

まるで、見えない歯車が静かに動き始めたようだった。


安由雷は、隣で立ち上がろうとする悠真の肩を軽く押さえ、

耳元に何かを囁いた。


――それは、今回の実験の、トリックの仕込みであった。

悠真は、何が起きるのかは聞かされていなかった。

大きな厚紙の両面に、ある文字を書いて持ってくること。

そして、ある人物を、ある場所に連れてきて、そこで待機していること。

安由雷からの指示は、それだけだった。



安由雷たちがラウンジを後にすると、

辰巳警部の指示で、ひとり、またひとりと捜査員たちが席を立つ。

重たい椅子の脚が床を擦る音が、やけに遠く聞こえた。


奈々花は手帳を握りしめたまま、

息を潜めるように時計を見た。


――五時三十分。


あと三十分で、すべてが動き出す。


そして――。


“エレベーターの実験”が、間もなく始まろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ