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迷宮のアユライ ~ 二重密室のトリックを暴け! ~  作者: 霧原零時
第五章 推理対決
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第3話 沈黙の裁定 ――論破の刃

悠真は手帳を捲ると、まっすぐ前を見た。

そして、ゆっくりと語り出す。


「――あの日、吉川は夜食のパンを買いに外に出ました。

 そこで馬場に電話をかけます。“外にいるから、一階まで降りてきてほしい”と。

 何か重要な話がある、とでも言えば――別れを拒んでいた馬場は、きっと降りてくるでしょう。

 そして吉川は、一階のエレベーターホールで、馬場が来るのを待っていたんです」


悠真は一度言葉を切り、会場を見渡した。

沈黙。空調の微かな音だけが流れる。


「……ずっと待ってたのか?」

ぶっきらぼうな玄武の声が飛んだ。


「はい。馬場のエレベーターが着くまで、ずっとです」


淡々とした返答だった。

だが、奈々花はその静けさの裏に、奇妙な自信のようなものを感じた。


「パンが入ったビニール袋の中には、――凶器のナイフが入っていました。

 そして、馬場が到着すると、吉川はそのナイフを取り出して胸を一突き。

 すぐにナイフをビニールに包み直して……」


「ちょっと待て」玄武が眉をひそめる。

「もし馬場のエレベーターに他の人がいたら? あるいは一階に誰かいたら?」


「えっ、あ……その時は、決行を見送ります」

一瞬たじろぐが、すぐに立て直す。


「見送る。……まあ、いいでしょ」

玄武は興味を失ったように、短く応じた。


悠真は構わず続ける。

「それで――吉川は“下行ボタン”を押して別の機を呼び、ドアが開いた瞬間にナイフを入れた袋を滑り込ませ、内部で十一階を押した。

 無人エレベーターは、ナイフだけを乗せて上へ移動する。

 そして吉川は腰を抜かしたふりをして、頃合いを見て悲鳴を上げ、警備員を呼びます」


静かな説明の余韻。

その間に、奈々花は息を止めていた。

――突拍子もないはずの推理なのに、どこか筋が通っている気がする。

理屈ではなく、“流れ”が見えてしまうからだ。


悠真は、そこでちらりと隣の安由雷を覗いた。

上司の驚いた顔が見たかった。

だが、安由雷は相変わらず腕を組み、俯いたままだ。

まるで最初から、彼の話を“採点外”とでも思っているように。


奈々花は、二人の間に漂う温度差を感じていた。

安由雷は、気のない横顔で沈黙したまま。

けれど――その沈黙が、妙に重く響いていた。

まるで「先入観だけで決めつけるな」とでも、無言で諭しているように。


「それで、凶器のナイフはどうなったんですか?」

ホワイトボードの前に立っていた玄武が、話が長くなりそうだと悟ったのか、

辰巳警部の隣に腰を下ろしながら尋ねた。


悠真は、顔を正面に戻し、勢いよく言った。

「毛は――《《かつらの中》》に隠せです!」


一瞬の沈黙ののち、あちこちから苦笑が漏れた。

奈々花は、思わずペンを落としそうになった。


玄武は、悠真の知識のズレに半ば呆れながらも笑い、

「ハッハッハ、それを言うなら“木を隠すなら森の中”ですよ。

 森がなければ自分で森を作れ――イギリスの推理小説からの引用です」

と、皮肉交じりに返した。


「えっ? ……先輩! 先輩が“毛はかつらの中に”って……」


「知りません。知りません」

安由雷は、素早く首を振った。

だが――目が、しっかり笑っている。


「……それで?」

玄武が、うんざりした声で先をせかす。

本庁から来た二人が、もう少し手ごわい相手だと思っていた分、拍子抜けだった。


「あ、はい。それで――凶器の刃物は、“刃物の中に隠せ”なんですよ!」

悠真の声が、わずかに上ずる。

先ほどの大恥で、完全にペースを狂わされたのが見て取れた。


「刃物の中に?」

玄武が眉をひそめる。


「ええ」と、悠真は少し勿体ぶってから、

声を張り上げた。


「二十階にレストランがありますよね!

 だったら、きっと調理をする厨房もあるはずです!」


――言い切った。

その瞬間、悠真の顔には自信が満ちていた。


悠真は一同のどよめきを期待して周囲を見回した。

――が、一向にどよめきが湧かない。


そして、たったひとつ返ってきたのは、

「はい、ありますね。……で?」

玄武の、冷ややかな声だけだった。


「えっ。……あっ、それで、三木塚が十一階で、ナイフが乗ってきたエレベーターに乗り込んで、二十階へ行きます。

 そして、かつら……いや、森――じゃなくて、厨房の刃物の中に、ナイフを隠したんです!」


悠真は言い終わると、胸を張った。

《《完璧だ》》――そう思った。


しかし、玄武の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。


「残念ながら、あなたの推理は――完全に間違っていますよ」


低い声。

皮肉と優越が混じったその響きに、奈々花は背筋がひやりとした。


「えっ?」

悠真の声が揺れる。玄武の笑顔は、静かに形を歪めた。


「たしかに二十階のレストランには厨房があります。

 包丁も調理器具も揃っています。……しかし――」


玄武は一拍置き、声を落とす。


「厨房は午後四時で施錠されます。

 一度ロックがかかれば、翌朝まで誰も入れません。

 つまり、ナイフを隠すことなんて――できません。……よね?」


最後の「よね」で、わざと悠真を刺すように言い切った。


「え、えええ!? ちょ、ちょっと待ってください!」

悠真の声が裏返る。


奈々花は、同期の悲壮な姿を見ていられなかった。

(やめて……もう、それ以上言わないで……)


悠真は立ったまま、必死に何かを考えていた。

だが、言葉が出てこない。


その沈黙を、玄武が切り裂く。


「知識の無さが悲しい、悲しいよね」

ゆっくりと、舌で味わうような声だった。


「――ああ、どうしましょうか」

わざと肩をすくめてみせる。


「誰も頼んでもいないのに、自分で手を上げて……」

玄武の視線が悠真を貫く。


「岡本悠真君の“残念な推理”は、完全に不可能。

 忙しいみんなの時間を、見事に無駄にしてくれましたね。

 ……で、まだ何かありますか?」


最後の一言は、まるで刃を研ぐ音のように冷たかった。


奈々花の胸の奥で、何かが音もなくほどけた。

(……こんなの見てたくない)


その時――

安由雷が、ふっと顔を上げた。

奈々花と一瞬だけ視線が絡む。


――“まだ何も終わらない”。


彼の目がそう告げた気がした。

空調の微かな音だけが、遠のいていった。

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