第3話 沈黙の裁定 ――論破の刃
悠真は手帳を捲ると、まっすぐ前を見た。
そして、ゆっくりと語り出す。
「――あの日、吉川は夜食のパンを買いに外に出ました。
そこで馬場に電話をかけます。“外にいるから、一階まで降りてきてほしい”と。
何か重要な話がある、とでも言えば――別れを拒んでいた馬場は、きっと降りてくるでしょう。
そして吉川は、一階のエレベーターホールで、馬場が来るのを待っていたんです」
悠真は一度言葉を切り、会場を見渡した。
沈黙。空調の微かな音だけが流れる。
「……ずっと待ってたのか?」
ぶっきらぼうな玄武の声が飛んだ。
「はい。馬場のエレベーターが着くまで、ずっとです」
淡々とした返答だった。
だが、奈々花はその静けさの裏に、奇妙な自信のようなものを感じた。
「パンが入ったビニール袋の中には、――凶器のナイフが入っていました。
そして、馬場が到着すると、吉川はそのナイフを取り出して胸を一突き。
すぐにナイフをビニールに包み直して……」
「ちょっと待て」玄武が眉をひそめる。
「もし馬場のエレベーターに他の人がいたら? あるいは一階に誰かいたら?」
「えっ、あ……その時は、決行を見送ります」
一瞬たじろぐが、すぐに立て直す。
「見送る。……まあ、いいでしょ」
玄武は興味を失ったように、短く応じた。
悠真は構わず続ける。
吉
「それで――吉川は“下行ボタン”を押して別の機を呼び、ドアが開いた瞬間にナイフを入れた袋を滑り込ませ、内部で十一階を押した。
無人エレベーターは、ナイフだけを乗せて上へ移動する。
そして吉川は腰を抜かしたふりをして、頃合いを見て悲鳴を上げ、警備員を呼びます」
静かな説明の余韻。
その間に、奈々花は息を止めていた。
――突拍子もないはずの推理なのに、どこか筋が通っている気がする。
理屈ではなく、“流れ”が見えてしまうからだ。
悠真は、そこでちらりと隣の安由雷を覗いた。
上司の驚いた顔が見たかった。
だが、安由雷は相変わらず腕を組み、俯いたままだ。
まるで最初から、彼の話を“採点外”とでも思っているように。
奈々花は、二人の間に漂う温度差を感じていた。
安由雷は、気のない横顔で沈黙したまま。
けれど――その沈黙が、妙に重く響いていた。
まるで「先入観だけで決めつけるな」とでも、無言で諭しているように。
「それで、凶器のナイフはどうなったんですか?」
ホワイトボードの前に立っていた玄武が、話が長くなりそうだと悟ったのか、
辰巳警部の隣に腰を下ろしながら尋ねた。
悠真は、顔を正面に戻し、勢いよく言った。
「毛は――《《かつらの中》》に隠せです!」
一瞬の沈黙ののち、あちこちから苦笑が漏れた。
奈々花は、思わずペンを落としそうになった。
玄武は、悠真の知識のズレに半ば呆れながらも笑い、
「ハッハッハ、それを言うなら“木を隠すなら森の中”ですよ。
森がなければ自分で森を作れ――イギリスの推理小説からの引用です」
と、皮肉交じりに返した。
「えっ? ……先輩! 先輩が“毛はかつらの中に”って……」
「知りません。知りません」
安由雷は、素早く首を振った。
だが――目が、しっかり笑っている。
「……それで?」
玄武が、うんざりした声で先をせかす。
本庁から来た二人が、もう少し手ごわい相手だと思っていた分、拍子抜けだった。
「あ、はい。それで――凶器の刃物は、“刃物の中に隠せ”なんですよ!」
悠真の声が、わずかに上ずる。
先ほどの大恥で、完全にペースを狂わされたのが見て取れた。
「刃物の中に?」
玄武が眉をひそめる。
「ええ」と、悠真は少し勿体ぶってから、
声を張り上げた。
「二十階にレストランがありますよね!
だったら、きっと調理をする厨房もあるはずです!」
――言い切った。
その瞬間、悠真の顔には自信が満ちていた。
悠真は一同のどよめきを期待して周囲を見回した。
――が、一向にどよめきが湧かない。
そして、たったひとつ返ってきたのは、
「はい、ありますね。……で?」
玄武の、冷ややかな声だけだった。
「えっ。……あっ、それで、三木塚が十一階で、ナイフが乗ってきたエレベーターに乗り込んで、二十階へ行きます。
そして、かつら……いや、森――じゃなくて、厨房の刃物の中に、ナイフを隠したんです!」
悠真は言い終わると、胸を張った。
《《完璧だ》》――そう思った。
しかし、玄武の口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
「残念ながら、あなたの推理は――完全に間違っていますよ」
低い声。
皮肉と優越が混じったその響きに、奈々花は背筋がひやりとした。
「えっ?」
悠真の声が揺れる。玄武の笑顔は、静かに形を歪めた。
「たしかに二十階のレストランには厨房があります。
包丁も調理器具も揃っています。……しかし――」
玄武は一拍置き、声を落とす。
「厨房は午後四時で施錠されます。
一度ロックがかかれば、翌朝まで誰も入れません。
つまり、ナイフを隠すことなんて――できません。……よね?」
最後の「よね」で、わざと悠真を刺すように言い切った。
「え、えええ!? ちょ、ちょっと待ってください!」
悠真の声が裏返る。
奈々花は、同期の悲壮な姿を見ていられなかった。
(やめて……もう、それ以上言わないで……)
悠真は立ったまま、必死に何かを考えていた。
だが、言葉が出てこない。
その沈黙を、玄武が切り裂く。
「知識の無さが悲しい、悲しいよね」
ゆっくりと、舌で味わうような声だった。
「――ああ、どうしましょうか」
わざと肩をすくめてみせる。
「誰も頼んでもいないのに、自分で手を上げて……」
玄武の視線が悠真を貫く。
「岡本悠真君の“残念な推理”は、完全に不可能。
忙しいみんなの時間を、見事に無駄にしてくれましたね。
……で、まだ何かありますか?」
最後の一言は、まるで刃を研ぐ音のように冷たかった。
奈々花の胸の奥で、何かが音もなくほどけた。
(……こんなの見てたくない)
その時――
安由雷が、ふっと顔を上げた。
奈々花と一瞬だけ視線が絡む。
――“まだ何も終わらない”。
彼の目がそう告げた気がした。
空調の微かな音だけが、遠のいていった。




