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迷宮のアユライ ~ 二重密室のトリックを暴け! ~  作者: 霧原零時
第五章 推理対決
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第2話 赤い×と抑制された沈黙

悠真は、ホワイトボードを見て、ホッとした。

――似たものはあるが、自分の推理と完全一致の案はなかった。


「では、今までの捜査結果を踏まえて、一つずつ消去してくれ」

銀縁眼鏡をかけた辰巳警部の低い声が、ラウンジの空気を震わせた。


奈々花は息を詰めたまま、膝の上でペンを握りしめる。

大規模捜査への初参加――その緊張がまだ抜けきらず、手のひらに汗が滲んでいる。


「まず、A.の自殺説ですが――」

玄武の丸い顔がホワイトボードの方へ向く。


「自殺理由が弱いのと、胸を刺した刃物がエレベーターの中に無かった。

 自分で胸を刺したとしたら、ほとんど即死です。

 刺したモノは隠せませんし、消し去る必要も理由もありません。

 したがって、自殺説は排除します」


丸顔の玄武が、ホワイトボードの前に立って、一同を見渡した。

誰も異論はなかった。

赤マーカーがボードを走る。

A案を×に――キュッ、と乾いた音が響いた。


――A案、消去。



「次に、B.本郷健次郎の犯行説です」

玄武が続けた。


「ここのエレベーターの天井は高く、一面が蛍光ランプになっています。

 もし天井が開いたとしても、踏み台か、はしごのようなものがなければ上に出ることは不可能。

 さらに、ビル構造や屋根伝いの知識も必要です。

 それに何より、エレベーターを途中で止めることはできません。

 仮に止められたとしても、管理室の警報が作動します。

 したがって――これも不可能と考えます」


(屋根伝いの知識……)

その瞬間、「ぷっ」と、短い息がもれた。

安由雷だった。

マーカーの音よりも静かな笑い。だが玄武の眉がぴくりと動く。


奈々花は、その笑いを聞いた瞬間、胸の奥にざらつく違和感を覚えた。

(……ここで笑っていいの? 今、そんな空気じゃないのに)

会議の熱が冷めていくのを、肌で感じていた。


だが、安由雷の表情は変わらない。

動機欄に並んだ“勝手な憶測”。

現実離れした推論を、もっともらしく語る玄武の口調――。

それが、彼にはあまりに滑稽に思えた。


――犯行方法も、犯人も、最初から決めつけている。

まるで筋書きのある芝居を見せられているようだ。


(……これを本気で議論しているのか?)


安由雷は、内心で呟く。

この荒唐無稽な仮説を、真顔で議論している光景そのものが、

彼にとっては、迷宮入り事件よりも難解だった。


誰が、道具の準備もなしに、映画のように動くエレベーターの天井に上がり、

隣の箱へ飛び移れるというのか。


「何か?」

玄武の太い眉が持ち上がる。


「いえ、別に」

安由雷は、全力の真面目な声で答え、首を横に振った。


赤い×が、またひとつボードに刻まれた。


――B案、消去。



「では、次のC.吉川志季の犯行説ですが――」

玄武の声が再び部屋を満たす。


「当時、一階のエレベーターホールには吉川しかいませんでした。

 つまり――誰にも見られずに殺す機会は、ありました。

 ……ただし、その時間に偶然、馬場が一人で下りてくる確率。

 さらに、“消えた凶器”の説明もまだつきません。

 この仮説は保留としますが、可能性としては著しく低いといえます。

 異論があれば、意見をどうぞ」


玄武の視線がゆっくりと動く。

捜査員たちは互いに目を合わせず、全員が同じように首を振った。

金属椅子がわずかに軋む音だけが、静寂の中で長く響く。


――C案、保留。



「……では、D.三木塚瑛太の犯行説①です。」

玄武がホワイトボードを軽く叩き、説明を続けた。


「三木塚と一緒に降りて来た二人は、反対側のエレベーターを向いており、馬場に背を向けていました。

 三木塚は、そのすれ違いざまに――氷の剣のようなもので一突き。

 馬場はよろめきながらエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押すと、そのまま力尽きた。

 氷は体温で溶かされて、警察が来る前に、血液の中に流れてしまった。

 これが、“消えた凶器”の説明がつく唯一の説でもあります。

 この説を否定する材料は、今のところ一つも見つかっていません。

 したがって、現在も有力視されている――そう考えます。


 ……何か異論があれば、意見をどうぞ」


玄武の声が、静まり返ったラウンジに深く響いた。

その目には自信が宿り、説明というより上から押さえつける権力に近い。

この説は、玄武自身が立てたものだ。


(唯一? 本当に。……どれにも使えそうだけど?)

奈々花の眉がわずかに動いた。

ホワイトボードの上でマーカーの赤が光り、会場からは何の音も返らない。


そこへ――


「……あのぉ~、ちょっといいですかぁ?」


間の抜けた声が、張り詰めた空気を切り裂いた。

悠真だった。

会議室の時間が、一瞬、凍る。


「僕は、人間の体を突き抜ける氷を知りません。

 馬場は鋭い刃物のようなもので胸を刺されて死亡しています。

 細く尖らせた氷の先端の強度がどれほどのものか、ご存じですか?

 それと、三木塚は犯行時まで氷が溶けないように、アイスボックスか何かで保管していたんでしょうか?」


真顔で質問する悠真。

その横の安由雷にとっては、そんな事はどうでも良かった。


――氷の剣。

推理小説では聞いたことがあるが、実際の事件で、氷が使われたなどという事は聞いた事が無かった。

ここにいる連中は、本当に氷で人が殺せると思っているのか。

三木塚が、冷たい氷を満員電車に揺られながら、必死に溶けないように持ってくる姿を想像すると、安由雷は腹が痛かった。


奈々花はペンを止めた。

“氷の剣”という言葉の荒唐無稽さに、緊張と可笑しさが同時にこみ上げる。

けれど、笑うことはできなかった。

――玄武の顔が見えたからだ。

瞳の奥に、火のような怒りがあった。


しかし、そこへさらに――


「今晩、みなさんの家の冷蔵庫で試してみましょう。

 胸を刺しても折れない、細い先っぽの氷を――」


そう言っちまったのは、やっぱり安由雷であった。


奈々花は思わず口を押さえた。

吹き出しそうになるのを堪え、心の中で「やめて」と呟いた。

会議室にいる誰もが、息を潜めている。

玄武の表情はもはや怒気を隠していなかった。


「きさま……」

玄武の声が低く唸った。

マーカーを握る手の甲に、青い血管が浮き上がっている。

怒りを呑み込むたびに、喉が小さく鳴った。


その瞬間――。


「まあ、その辺は後日、詳しく検証してもらうということで。……先に進めてくれ」

辰巳警部の静かな声が、会議室全体を押し包んだ。

抑えた低音に、誰も逆らえなかった。


張りつめた空気がわずかに緩む。

奈々花は、気づかぬうちに息を吐いていた。

胸の奥に、まださっきの緊張の余韻が残っている。


玄武は拳を下ろし、呼吸を整えると、

ホワイトボードに向き直り――。


――D案、現在最有力。


赤で、その文字を上書きした。

マーカーの先がわずかに潰れて、かすかな音を立てる。



「……では、E.三木塚瑛太の犯行説②です」

玄武の声は、先ほどよりも低く、硬かった。

「地下へ確実に馬場を呼び出すための口実が薄く、殺害後の三木塚の行動ルートからも、凶器の類は一切見つかっていません。

 馬場は、十一階から“7号機”に乗り、一階に着いて、死体で発見されています。

 もし馬場が地下へ行ったとしても、自分が乗って来た“7号機”を、自分が殺されるまで地下に“キープ”しておく理由もない。

 よって、これも成り立たないと結論づけます」


マーカーの先がまた走った。

赤い線が、E案を静かに消していく。


――E案、消去。


赤い×がまたひとつ。

玄武のD案だけを残したいという気持ちが露骨に表れていた。



その下に、既に却下された二案があった。


数日前――。

F案として、こうした仮説も一度は浮上していた。

三木塚が十五階から降りてくる途中、同乗していた二人に気づかれぬよう、

“7号機”のエレベーター内に細工を施す。

――一階のボタンを押すと、仕込まれた刃物が飛び出して胸を刺し、

再び自動で収納されるという、まるでトリック映画のような仕掛けだ。


だが、同乗していた二人の供述には不審な点がなく、

現場検証でもエレベーター内部にそのような装置の痕跡は一切見つからなかった。

よって、F案は却下された。



また、G案も存在した。

――馬場を地下へ呼び出したのは、先に帰った本郷ではないかというものだ。

しかし、本郷が十三階から“8号機”に乗り込み、仮に一階ではなく地下一階のボタンを押していたとしたら、一階ホールの『上行ボタン』にロックがかかることはない。


さらに、本郷が二十階などの上層階のボタンを押していた場合も同様に、

エレベーターの制御システム上、“8号機”が『最も早く一階に到着するエレベーター』として選ばれ、一階ホールの『上行ボタン』でロックされることはありえない。

そのため、この仮説も物理的に成立しないと判断され――G案も消去された。



「それでは――他に仮説がないとしたら、今後は残った有力なD案の裏を取るために……」


その言葉を遮るように、

「すみません!」


長身の悠真が勢いよく手を挙げた。

光の下で、その姿がひょいと伸びる。


「僕の推理を、言ってもいいでしょうか」


玄武は、わざとらしいため息をつき、

伺うような視線を辰巳警部へと送った。

辰巳は静かに頷く。


「どうぞ」


悠真は一礼して立ち上がる。

照明に照らされた横顔に、いつもの軽さはなかった。


「僕の考えは、この中のC案に近いんですが――」

一拍の間。

「吉川志季と三木塚瑛太の共犯説です。

 この二人が、どうやって殺害し、凶器をどこに隠したのか。

 それをこれから説明します」


悠真はゆっくりと手帳を開いた。

その声は驚くほど静かで――そして、真剣だった。

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