第2話 赤い×と抑制された沈黙
悠真は、ホワイトボードを見て、ホッとした。
――似たものはあるが、自分の推理と完全一致の案はなかった。
「では、今までの捜査結果を踏まえて、一つずつ消去してくれ」
銀縁眼鏡をかけた辰巳警部の低い声が、ラウンジの空気を震わせた。
奈々花は息を詰めたまま、膝の上でペンを握りしめる。
大規模捜査への初参加――その緊張がまだ抜けきらず、手のひらに汗が滲んでいる。
「まず、A.の自殺説ですが――」
玄武の丸い顔がホワイトボードの方へ向く。
「自殺理由が弱いのと、胸を刺した刃物がエレベーターの中に無かった。
自分で胸を刺したとしたら、ほとんど即死です。
刺したモノは隠せませんし、消し去る必要も理由もありません。
したがって、自殺説は排除します」
丸顔の玄武が、ホワイトボードの前に立って、一同を見渡した。
誰も異論はなかった。
赤マーカーがボードを走る。
A案を×に――キュッ、と乾いた音が響いた。
――A案、消去。
◇
「次に、B.本郷健次郎の犯行説です」
玄武が続けた。
「ここのエレベーターの天井は高く、一面が蛍光ランプになっています。
もし天井が開いたとしても、踏み台か、はしごのようなものがなければ上に出ることは不可能。
さらに、ビル構造や屋根伝いの知識も必要です。
それに何より、エレベーターを途中で止めることはできません。
仮に止められたとしても、管理室の警報が作動します。
したがって――これも不可能と考えます」
(屋根伝いの知識……)
その瞬間、「ぷっ」と、短い息がもれた。
安由雷だった。
マーカーの音よりも静かな笑い。だが玄武の眉がぴくりと動く。
奈々花は、その笑いを聞いた瞬間、胸の奥にざらつく違和感を覚えた。
(……ここで笑っていいの? 今、そんな空気じゃないのに)
会議の熱が冷めていくのを、肌で感じていた。
だが、安由雷の表情は変わらない。
動機欄に並んだ“勝手な憶測”。
現実離れした推論を、もっともらしく語る玄武の口調――。
それが、彼にはあまりに滑稽に思えた。
――犯行方法も、犯人も、最初から決めつけている。
まるで筋書きのある芝居を見せられているようだ。
(……これを本気で議論しているのか?)
安由雷は、内心で呟く。
この荒唐無稽な仮説を、真顔で議論している光景そのものが、
彼にとっては、迷宮入り事件よりも難解だった。
誰が、道具の準備もなしに、映画のように動くエレベーターの天井に上がり、
隣の箱へ飛び移れるというのか。
「何か?」
玄武の太い眉が持ち上がる。
「いえ、別に」
安由雷は、全力の真面目な声で答え、首を横に振った。
赤い×が、またひとつボードに刻まれた。
――B案、消去。
◇
「では、次のC.吉川志季の犯行説ですが――」
玄武の声が再び部屋を満たす。
「当時、一階のエレベーターホールには吉川しかいませんでした。
つまり――誰にも見られずに殺す機会は、ありました。
……ただし、その時間に偶然、馬場が一人で下りてくる確率。
さらに、“消えた凶器”の説明もまだつきません。
この仮説は保留としますが、可能性としては著しく低いといえます。
異論があれば、意見をどうぞ」
玄武の視線がゆっくりと動く。
捜査員たちは互いに目を合わせず、全員が同じように首を振った。
金属椅子がわずかに軋む音だけが、静寂の中で長く響く。
――C案、保留。
◇
「……では、D.三木塚瑛太の犯行説①です。」
玄武がホワイトボードを軽く叩き、説明を続けた。
「三木塚と一緒に降りて来た二人は、反対側のエレベーターを向いており、馬場に背を向けていました。
三木塚は、そのすれ違いざまに――氷の剣のようなもので一突き。
馬場はよろめきながらエレベーターに乗り込み、一階のボタンを押すと、そのまま力尽きた。
氷は体温で溶かされて、警察が来る前に、血液の中に流れてしまった。
これが、“消えた凶器”の説明がつく唯一の説でもあります。
この説を否定する材料は、今のところ一つも見つかっていません。
したがって、現在も有力視されている――そう考えます。
……何か異論があれば、意見をどうぞ」
玄武の声が、静まり返ったラウンジに深く響いた。
その目には自信が宿り、説明というより上から押さえつける権力に近い。
この説は、玄武自身が立てたものだ。
(唯一? 本当に。……どれにも使えそうだけど?)
奈々花の眉がわずかに動いた。
ホワイトボードの上でマーカーの赤が光り、会場からは何の音も返らない。
そこへ――
「……あのぉ~、ちょっといいですかぁ?」
間の抜けた声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
悠真だった。
会議室の時間が、一瞬、凍る。
「僕は、人間の体を突き抜ける氷を知りません。
馬場は鋭い刃物のようなもので胸を刺されて死亡しています。
細く尖らせた氷の先端の強度がどれほどのものか、ご存じですか?
それと、三木塚は犯行時まで氷が溶けないように、アイスボックスか何かで保管していたんでしょうか?」
真顔で質問する悠真。
その横の安由雷にとっては、そんな事はどうでも良かった。
――氷の剣。
推理小説では聞いたことがあるが、実際の事件で、氷が使われたなどという事は聞いた事が無かった。
ここにいる連中は、本当に氷で人が殺せると思っているのか。
三木塚が、冷たい氷を満員電車に揺られながら、必死に溶けないように持ってくる姿を想像すると、安由雷は腹が痛かった。
奈々花はペンを止めた。
“氷の剣”という言葉の荒唐無稽さに、緊張と可笑しさが同時にこみ上げる。
けれど、笑うことはできなかった。
――玄武の顔が見えたからだ。
瞳の奥に、火のような怒りがあった。
しかし、そこへさらに――
「今晩、みなさんの家の冷蔵庫で試してみましょう。
胸を刺しても折れない、細い先っぽの氷を――」
そう言っちまったのは、やっぱり安由雷であった。
奈々花は思わず口を押さえた。
吹き出しそうになるのを堪え、心の中で「やめて」と呟いた。
会議室にいる誰もが、息を潜めている。
玄武の表情はもはや怒気を隠していなかった。
「きさま……」
玄武の声が低く唸った。
マーカーを握る手の甲に、青い血管が浮き上がっている。
怒りを呑み込むたびに、喉が小さく鳴った。
その瞬間――。
「まあ、その辺は後日、詳しく検証してもらうということで。……先に進めてくれ」
辰巳警部の静かな声が、会議室全体を押し包んだ。
抑えた低音に、誰も逆らえなかった。
張りつめた空気がわずかに緩む。
奈々花は、気づかぬうちに息を吐いていた。
胸の奥に、まださっきの緊張の余韻が残っている。
玄武は拳を下ろし、呼吸を整えると、
ホワイトボードに向き直り――。
――D案、現在最有力。
赤で、その文字を上書きした。
マーカーの先がわずかに潰れて、かすかな音を立てる。
◇
「……では、E.三木塚瑛太の犯行説②です」
玄武の声は、先ほどよりも低く、硬かった。
「地下へ確実に馬場を呼び出すための口実が薄く、殺害後の三木塚の行動ルートからも、凶器の類は一切見つかっていません。
馬場は、十一階から“7号機”に乗り、一階に着いて、死体で発見されています。
もし馬場が地下へ行ったとしても、自分が乗って来た“7号機”を、自分が殺されるまで地下に“キープ”しておく理由もない。
よって、これも成り立たないと結論づけます」
マーカーの先がまた走った。
赤い線が、E案を静かに消していく。
――E案、消去。
赤い×がまたひとつ。
玄武のD案だけを残したいという気持ちが露骨に表れていた。
◇
その下に、既に却下された二案があった。
数日前――。
F案として、こうした仮説も一度は浮上していた。
三木塚が十五階から降りてくる途中、同乗していた二人に気づかれぬよう、
“7号機”のエレベーター内に細工を施す。
――一階のボタンを押すと、仕込まれた刃物が飛び出して胸を刺し、
再び自動で収納されるという、まるでトリック映画のような仕掛けだ。
だが、同乗していた二人の供述には不審な点がなく、
現場検証でもエレベーター内部にそのような装置の痕跡は一切見つからなかった。
よって、F案は却下された。
◇
また、G案も存在した。
――馬場を地下へ呼び出したのは、先に帰った本郷ではないかというものだ。
しかし、本郷が十三階から“8号機”に乗り込み、仮に一階ではなく地下一階のボタンを押していたとしたら、一階ホールの『上行ボタン』にロックがかかることはない。
さらに、本郷が二十階などの上層階のボタンを押していた場合も同様に、
エレベーターの制御システム上、“8号機”が『最も早く一階に到着するエレベーター』として選ばれ、一階ホールの『上行ボタン』でロックされることはありえない。
そのため、この仮説も物理的に成立しないと判断され――G案も消去された。
◇
「それでは――他に仮説がないとしたら、今後は残った有力なD案の裏を取るために……」
その言葉を遮るように、
「すみません!」
長身の悠真が勢いよく手を挙げた。
光の下で、その姿がひょいと伸びる。
「僕の推理を、言ってもいいでしょうか」
玄武は、わざとらしいため息をつき、
伺うような視線を辰巳警部へと送った。
辰巳は静かに頷く。
「どうぞ」
悠真は一礼して立ち上がる。
照明に照らされた横顔に、いつもの軽さはなかった。
「僕の考えは、この中のC案に近いんですが――」
一拍の間。
「吉川志季と三木塚瑛太の共犯説です。
この二人が、どうやって殺害し、凶器をどこに隠したのか。
それをこれから説明します」
悠真はゆっくりと手帳を開いた。
その声は驚くほど静かで――そして、真剣だった。




