第4話 灰と煙のあいだで
参考人として、最後に呼ばれたのは、
あの“深海魚”に密かに想いを寄せている男――**三木塚瑛太**だった。
小柄で、頭頂部の薄くなりかけた髪を几帳面に左右へ分けている。
椅子に腰を下ろす動作ひとつにも、緊張がにじんでいた。
「では、あなたが十五階から下りて来て、十一階に着いたのは何時頃ですか?」
「……午後の、七時頃だと思います」
語尾が少し上がる。どこか地方の訛りが混じっていた。
「そのとき、馬場雷太さんとホールですれ違いましたね」
「ええ。私も同じ十一階の東館フロアですから」
「馬場さんは一人でしたか?」
「はい。私たちが降りたエレベーターに、急いで乗り込んでいきました。
他に人は乗ってませんでした」
「“私たち”というのは?」
「三人で降りてきました。
でも他の二人は、各階止まりの低層階用エレベーターに乗り換えるために降りたようで、反対側のエレベーターを待っていました」
「その二人のうち、一人が戻ってきて馬場さんのエレベーターに乗り込んだ――
そんな様子は?」
「それはありません。二人とも、その場に立ってました」
「反対側の西館フロアから、誰かが走り込んでくる気配は?」
「全然なかったです」
三木塚は首を振ると、視線を落とした。その仕草に、気の弱さが現れていた。
安由雷は、軽く頷いて続きを促す。
「それから、あなたは?」
「えーと……十一階に自席があるので、一度席に戻りました。
十五階で回収したリストを机に置いて、デバッグ前に一服しようと思って。
でも、タバコが切れてたんです」
「それで?」
「小銭を持って、すぐ二十階に行きました。
自販機でタバコを買って席に戻ったら、正面の富樫君が“下で事故があった”って言ってて……」
「二十階?」
「はい、タバコの自販機がありますので……」
三木塚はハンカチで鼻の頭を何度も拭った。
汗よりも、緊張の方が滲んでいる。
「あなたは十五階から戻ってくると、またすぐに二十階に行った訳ですね。
その時、下から上がってきたエレベーターには、誰か乗っていましたか?」
またも突然、悠真が、少し食い気味に口を挟んだ。
「いえ、私ひとりでした」
三木塚はすぐに答えたが、悠真と目が合うと、すぐ視線を逸らした。
(――やはりだ)
悠真は、心の中で呟き、彼の視線の動きを観察していた。
(彼は、下から来た“あれ”を運ばねばならなかった。
十一階から二十階まで――誰にも会わずに)
その目は、どこか“自分の推理”に確信を持ったようだった。
三木塚は、その空気の重さに居た堪れなくなったのか、口を開いた。
「あの……最近は六時を過ぎると、残業してる人も少なくて、
大体、あの時間帯のエレベーターはいつも空いとりますので、
誰にも合わなくても、不思議なことではありません。
だから、その前に、十一階のホールで、四人も集まるなんて珍しいくらいで……」
彼の声は、途中から自分でも何を言っているのか分からなくなっていた。
質問を止めていた安由雷は、三木塚に対して、
どこか“臆病で、壊れやすい印象”を抱いた。
これでは、女を賭けた命がけの一騎打ちなど、到底できまい――と安由雷は思った。
部屋の空気が静まり返る。
換気扇の低い唸りだけが続いていた。
二人は、それ以上、追及しなかった。
やがて、安由雷は小さく息を吐いた。
「もう結構です。――ご協力ありがとうございました」
三木塚は、少しほっとしたように頭を下げ、
ゆっくりとドアの向こうへ消えていった。
*
ドアが閉まる音が消えると、部屋に再び静寂が戻った。
安由雷は背もたれに体を預け、
天井の蛍光灯をぼんやりと見上げた。
――終わった愛を抱えたまま死んだ男。
――金に追われ、見栄で崩れた男。
――煙の奥で何かを隠した女。
そして、怯えながら何も変えられなかった男。
安由雷は、ゆっくりとタバコを取り出す。
火を点け、ひと吸い。
白い煙が、ゆらりと形を変えながら、灰皿の上で消えていく。
その煙の揺らぎの中に――
誰の嘘が燃えていたのか。
安由雷は、なぜか無性に悲しい気持ちになっていた。
椅子にもたれ、指を組んだ両手を後頭部に回す。
そして、ゆっくりと――長いまつ毛の目を閉じた。




