第3話 鼻煙を吐く深海魚
悠真が内線電話で呼び出した二人目の参考人は、
馬場に別れてもらえず、最後まで揉めていた女――**吉川志季**だった。
ドアが開いた瞬間、ふわりと甘い香りが流れ込む。
化粧の匂いが、密室の空気の温度をほんの少し変えた気がした。
安由雷は、志季が座るのを待って、穏やかに促した。
「あなたが外から戻ってきたところから、話してもらえますか」
「……そうですね。
私がパンを買って、入り口に来たときです。
ちょうどホールから歩いてきた本郷さんとすれ違いました。
カバンを持っていたので、帰るところだと思いました」
「それは、何時頃でした?」
「七時……一、二分くらいだったと思います。
私は一礼して、エレベーターの方へ向かいました」
志季は、背筋を伸ばし、落ち着いた声で話していた。
その口調には、しつこくつきまとっていた故人への情はもう見えない。
「本郷さんは、そのとき挨拶を?」
「特には。気づいたとは思いますが、あまり親しくはありませんから。
それに、あちらは正社員の方ですし、うちは下請けですので」
「本郷さんに、変わった様子は?」
志季は少し考え、首を横に振った。
「特には、なかったと思います」
「それで、あなたは?」
「エレベーターホールに行って、高層階用の上行ボタンを押しました。
確か、右から二番目の“7号機”のランプが点きました」
(――本郷が乗っていった“8号機”の隣か)
安由雷は、心の中で呟く。
「で、エレベーターはすぐに来ましたか?」
「ええ。すぐに着いて、ドアが開いたんです。
……そしたら、そこに馬場さんが」
「そのとき、ホールには他に人はいませんでしたか?」
「はい。私一人です」
「エレベーターを待っている男性二人の姿は?」
「誰もいません」
志季は、静かに首を振った。
(天宮たちが乗った8号機は、既に出た後か……)
安由雷は、一呼吸つくと続けた。
「それで、エレベーターの中には?」
「馬場さんだけでした。
中の床一面に、血が流れていて――」
志季は遠くを見つめ、当時の光景を思い出すように言った。
その視線が戻ると、少し間を置いて口を開いた。
「あの、タバコいいですか」
「あっ、どうぞ」
安由雷が、テーブルの上の灰皿を彼女の前へ滑らせる。
志季は、バッグの中から細長いメンソールを取り出した。
濃いマニュキュアの指が、タバコをつまむ。
それを見て、安由雷はわずかに眉をひそめた。
――女が鼻の両穴から煙を吹く仕草、あれがどうにも苦手だ。
志季は火を点けると、まさにその仕草で煙を吐いた。
白い煙が、両の鼻先から細く伸びて、灰皿の上でゆらゆらと形を失う。
安由雷は、黙ってその仕草を眺めていた。
その静寂を破るように――
「“7号機”が着いて、すぐに他のエレベーターは来ませんでしたか?」
横から悠真の声が飛んだ。思わず、少し大きな声になっていた。
「いえ」
志季は、煙を鼻から勢いよく吹き出しながら、悠真に顔を向けた。
「あなたは、三木塚瑛太さんに好意を寄せていますね?」
「……それが、何か」
志季の声がわずかに硬くなる。
童顔の若い刑事を見下ろすような視線だった。
だが悠真は怯まずに続けた。
「あなたは馬場雷太さんとは別れたかったんですよね」
「ええ、そうですけど」
「でも、馬場さんは――」
「もういい!」
低く鋭い声が割り込んだ。安由雷だった。
「ありがとうございました。もう結構です」
出口の方へ手をやって促すと、志季は納得のいかない表情のまま、
火のついたばかりのタバコを灰皿に押しつけて、音を立てて消した。
小さな煙がくゆりと立ち上がり、
彼女は首を傾げながら、ドアを閉めて出ていった。
*
ドアが閉まった瞬間、静寂が落ちた。
――そして。
「バカやろう!」
ドアの閉まる音がまだ残る室内に、怒声が突き刺さった。
悠真はビクリと肩をすくめる。
「せ、先輩、ぼ、僕が何か……?」
「あったり前だ!」
安由雷の声が一段と跳ねた。
悠真は、何かまずい事でも聞いてしまったのかと、自分の質問の内容を思い出していた。
一瞬、沈黙。
安由雷は腕を組んで、ゆっくりと椅子を軋ませた。
そして――
「――可愛いだぁ?」
安由雷の声が低く落ちる。
(間)
……?
「目は少し離れてるけど愛嬌がある? どの口が言った?」
悠真は口をパクパクさせている。
「あれのどこが可愛いんだよ。深海魚が鼻から煙を吹いてるだけじゃねぇか。
まだコリドラスのほうが愛嬌あるわ!」
そして今、やっと意味を理解した。
「あっ、そっちの“話”ですか……!」
「俺はお前の話を聞いて、少し楽しみにしてたんだぞ。
もうお前の見る目は信用しねぇからな!」
この熱量……期待度マックスだったらしい。
涙目の悠真が、かろうじて声を絞り出す。
「せ、先輩! 資料の写真、絶対加工してましたよ!
あんなの見せられたら、誰だって信じますって!」
「……だとしても、俺の楽しみをどうしてくれんだよっ!」
だが安由雷は、聞く耳を持たなかった。
その背中を見て、悠真は心の中でそっとため息をついた。




