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迷宮のアユライ ~ 二重密室のトリックを暴け! ~  作者: 霧原零時
第四章 捜査・情報収集
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第3話 鼻煙を吐く深海魚

悠真が内線電話で呼び出した二人目の参考人は、

馬場に別れてもらえず、最後まで揉めていた女――**吉川志季**だった。


ドアが開いた瞬間、ふわりと甘い香りが流れ込む。

化粧の匂いが、密室の空気の温度をほんの少し変えた気がした。


安由雷は、志季が座るのを待って、穏やかに促した。

「あなたが外から戻ってきたところから、話してもらえますか」


「……そうですね。

 私がパンを買って、入り口に来たときです。

 ちょうどホールから歩いてきた本郷さんとすれ違いました。

 カバンを持っていたので、帰るところだと思いました」


「それは、何時頃でした?」


「七時……一、二分くらいだったと思います。

 私は一礼して、エレベーターの方へ向かいました」


志季は、背筋を伸ばし、落ち着いた声で話していた。

その口調には、しつこくつきまとっていた故人(馬場)への情はもう見えない。


「本郷さんは、そのとき挨拶を?」


「特には。気づいたとは思いますが、あまり親しくはありませんから。

 それに、あちらは正社員(プロパー)の方ですし、うちは下請けですので」


「本郷さんに、変わった様子は?」


志季は少し考え、首を横に振った。

「特には、なかったと思います」


「それで、あなたは?」


「エレベーターホールに行って、高層階用の上行ボタンを押しました。

 確か、右から二番目の“7号機”のランプが点きました」


(――本郷が乗っていった“8号機”の隣か)

安由雷は、心の中で呟く。


「で、エレベーターはすぐに来ましたか?」


「ええ。すぐに着いて、ドアが開いたんです。

 ……そしたら、そこに馬場さんが」


「そのとき、ホールには他に人はいませんでしたか?」


「はい。私一人です」


「エレベーターを待っている男性二人の姿は?」


「誰もいません」

志季は、静かに首を振った。


(天宮たちが乗った8号機は、既に出た後か……)

安由雷は、一呼吸つくと続けた。


「それで、エレベーターの中には?」


「馬場さんだけでした。

 中の床一面に、血が流れていて――」


志季は遠くを見つめ、当時の光景を思い出すように言った。

その視線が戻ると、少し間を置いて口を開いた。


「あの、タバコいいですか」


「あっ、どうぞ」

安由雷が、テーブルの上の灰皿を彼女の前へ滑らせる。


志季は、バッグの中から細長いメンソールを取り出した。

濃いマニュキュアの指が、タバコをつまむ。

それを見て、安由雷はわずかに眉をひそめた。

――女が鼻の両穴から煙を吹く仕草、あれがどうにも苦手だ。


志季は火を点けると、まさにその仕草で煙を吐いた。

白い煙が、両の鼻先から細く伸びて、灰皿の上でゆらゆらと形を失う。


安由雷は、黙ってその仕草を眺めていた。

その静寂を破るように――


「“7号機”が着いて、すぐに他のエレベーターは来ませんでしたか?」

横から悠真の声が飛んだ。思わず、少し大きな声になっていた。


「いえ」

志季は、煙を鼻から勢いよく吹き出しながら、悠真に顔を向けた。


「あなたは、三木塚瑛太さんに好意を寄せていますね?」


「……それが、何か」

志季の声がわずかに硬くなる。

童顔の若い刑事を見下ろすような視線だった。


だが悠真は怯まずに続けた。

「あなたは馬場雷太さんとは別れたかったんですよね」


「ええ、そうですけど」


「でも、馬場さんは――」


「もういい!」

低く鋭い声が割り込んだ。安由雷だった。


「ありがとうございました。もう結構です」

出口の方へ手をやって促すと、志季は納得のいかない表情のまま、

火のついたばかりのタバコを灰皿に押しつけて、音を立てて消した。


小さな煙がくゆりと立ち上がり、

彼女は首を傾げながら、ドアを閉めて出ていった。



ドアが閉まった瞬間、静寂が落ちた。


――そして。


「バカやろう!」

ドアの閉まる音がまだ残る室内に、怒声が突き刺さった。


悠真はビクリと肩をすくめる。

「せ、先輩、ぼ、僕が何か……?」


「あったり前だ!」

安由雷の声が一段と跳ねた。

悠真は、何かまずい事でも聞いてしまったのかと、自分の質問の内容を思い出していた。


一瞬、沈黙。


安由雷は腕を組んで、ゆっくりと椅子を軋ませた。


そして――


「――可愛いだぁ?」


安由雷の声が低く落ちる。


(間)


……?


「目は少し離れてるけど愛嬌がある? どの口が言った?」


悠真は口をパクパクさせている。


「あれのどこが可愛いんだよ。深海魚が鼻から煙を吹いてるだけじゃねぇか。

 まだコリドラスのほうが愛嬌あるわ!」


そして今、やっと意味を理解した。

「あっ、そっちの“話”ですか……!」


「俺はお前の話を聞いて、少し楽しみにしてたんだぞ。

 もうお前の見る目は信用しねぇからな!」


この熱量……期待度マックスだったらしい。


涙目の悠真が、かろうじて声を絞り出す。

「せ、先輩! 資料の写真、絶対加工してましたよ!

 あんなの見せられたら、誰だって信じますって!」


「……だとしても、俺の楽しみをどうしてくれんだよっ!」


だが安由雷は、聞く耳を持たなかった。

その背中を見て、悠真は心の中でそっとため息をついた。

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