第2話 七時の放送と二〇秒の空白
安由雷は、一呼吸おいてから、本郷の聴取を続けた。
「あなたが返済を延ばしてほしいと言ったときに、馬場さんは簡単に承知しましたか?」
「いいえ。でも、無いものは払えませんから」
「あの日、馬場さんに電話をしましたか?」
「ええ、話があるので二十階に来てほしいと」
「それは何時頃です?」
「午前中ですけど。確か十時頃でしたか」
「それで?」
「ええと、……二十階で、返済をもう少し待ってほしいと頼みました」
これまでの調べから、確かに午前十時半頃に、二人が二十階のレストランホールで話をしているところを目撃されている。
「その後、電話は?」
「してません」
「午後六時から七時の間は?」
「してません」と、本郷は首を横に振った。くわえたタバコの灰が、テーブルの上に飛んだ。
「では最後に。資料を見ると、皆さん午後七時を境に、時間を細かく覚えていますが、何か理由でもあるんですか?」
「七時を境に、……ああ、七時ちょうどに館内放送があるんですよ。
それで、その前か後かで、大体の時間を判断してるんじゃないですか」
「あなたも?」
「ええ」
「では、あの日、あなたはどこで、その放送を聞きました?」
本郷は、一瞬はっとしたが、その後、ゆっくりと安由雷を見ると、
「多分、あの日は聞いてませんね」
「聞いてない?」
灰が落ちる、かすかな音だけが残った。
「はい、ちょうどその時間帯はエレベーターの中だったと思いますから」
「そうですか」
安由雷は腕を組み、静かに頷いた。
「ああ、あと一つ。
あなたは、あの日、エレベーターの監視カメラが故障していたことは知っていましたか?」
「はい、メールで通知がきましたので、全員が知っていると思います」
「分かりました。ありがとうございます」
安由雷はタバコを灰皿に落とし、立ち上がった。
「どうも、お手間を取らせました」
本郷もつられて立ち上がり、伸ばした手でタバコを灰皿に押し潰した。
その時、出ていこうとする本郷と入れ違いに、悠真が部屋へ入ってきた。
本郷は、それを横目で見ると、外に出てドアを閉めた。
*
「二〇秒くらいです」
「二〇秒?」
「ええ。誰も乗ってないエレベーターを待って、三回計りました。
本郷の席がある十三階から一階まで――途中で止まらなければ、二〇秒前後です」
悠真の報告を聞くと、安由雷は腕を組み、顎に指先を添えた。
蛍光灯の白が、その瞳を冷たく照らす。
「……本郷のタイムカードの退社時間は?」
「えーと、【18:58】です」
悠真が手帳を開きながら答えた。
「ビル出入口の監視カメラを通過した時刻は?」
「――【19:01:06】です」
「ふむ」
安由雷は短く息を吐く。
「極力短く見積もって、仮に――午後六時五十九分十秒に十三階を出たとする。
その途中、七時ちょうどの放送をエレベーター内で聞き、
七時〇分四十秒に一階に到着したなら……経過時間は一分三十秒か」
「一分ちょっと、ですか」
悠真が相槌を打つ。
「……少し掛かってますね」
と、悠真は話を合わせたが、既に自分の中では犯人が決まっていた。
「一分間――馬場が乗ったエレベーターが横を通過するまで、どこかに停止して待っていたのか。
……それとも、寄り道でもしていたのか?」
安由雷が首を傾げた。
「はぁ? ……エレベーターで寄り道って、できます?」
「ああ、一度一階に降りてから、もう一度上に上がり……再び一階へ戻ったとか」
(ふうーん)と気のない声を漏らしながら、悠真は椅子の背にもたれて安由雷を見た。
「悠真、捜査資料の中に、ラーメンを食べて帰ってきた二人が、一階でボタンを押した時間は、資料に書いてあったか?」
「二人?……ああ、天宮と石川ですね」と、悠真は自分の黒い手帳をめくった。
「えーと、七時前ですね。ボタンを押した後に放送が流れたと。
そして、少しして8号機が一階に着いて、男が一人降りて来たと言ってますね」
「8号機が来るまでに、一、二分掛かっているから、遅いとは感じなかったのかな」
「二人とも遅いとは思っていたらしいですけど、五台の高層階用エレベーターがすべて一階から出発したばかりだと、そのくらい待つこともあったとか……」
と、悠真が手帳の内容を伝えた。
「そうか」と、安由雷の脳の中の回路が回り始めた。
「つまり、天宮たちが一階で、上行ボタンを押した時――。
システムは、十三階の“8号機”を“最も早く、一階に到着するエレベーター”として選んでいた、というわけだ」
悠真が、頷きながら応える。
「そうです。それに“8号機”は一階にロックされていましたから、一階に着いたら二人の待っている目の前でドアが開いてしまうので、さっき先輩が言った、『一階に着いてから、再び上の階へ行く』ことも出来ませんよね」
「だな……」
安由雷は、手元の灰を指で軽く弾いた。
「それに、本郷が十三階から乗った時に、もし“下”じゃなくて“上”――たとえば二十階のボタンを押していたとしたら……」
「その場合、一階に一番早く来るエレベーターとしては“選ばれない”。
つまり、ロックの対象から外れるわけだ」
安由雷は、灰皿の縁を指で弾きながら続けた。
「だから、寄り道は出来ませんね」
悠真が、自らの考えに頷きながら言った。
彼は立ち上がると、拳を二つ、宙に並べた。
「見てください。こっちが“8号機”で、隣が“7号機”――」
右の拳をわずかに高くして、ゆっくり下へ動かす。
「……この“8号機”で本郷が下りて、そのわずか後を“7号機”が追う。
中には被害者の馬場がいた」
それを見て、安由雷が腕を組んで、ゆっくりと長いまつ毛の目を閉じた。
安由雷の思考が、何かに引っかかったときの仕草である。
「ある意味、アリバイがあるってことか。……まあ、いい。
引っかかるが、今は置いとこう」
安由雷も、今は考えがまとまらない様子で、次の参考人を頼んだ。




