第1話 灰皿の向こうの真実
二人は、十九階の小会議室のドアを開けた。
端の内線台の上に、使い古された灰皿がひとつ、置かれていた。
安由雷はそれを手に取り、無造作に椅子へ腰を下ろす。
すぐ横で悠真が、エアコンと空気清浄機のスイッチを入れた。
低い唸りが室内を満たし、紙と煙草と乾いた埃の匂いが混ざり合う。
*
最初に呼んだのは、殺された**馬場雷太**から三百万円の借金をしている、
――**本郷健次郎**であった。
「あの日の話を、もう一度お願いできますか」
と、安由雷が正面に座ってタバコに火を点けると、一本突き出して、本郷へ勧めた。
「何度も話したんですけどね」
頬が痩け、眼鏡の奥のギョロリとした眼が印象的な本郷が、軽く頭を下げて煙草を受け取った。
三十一歳にしては、少し老けているようにも思えた。
安由雷が火の点いたライターを突き出すと、本郷は身を乗り出して火をもらった。
「どこから話しますか」
本郷が、浮かせた腰を元のイスに戻した。
安由雷はライターの火を消すと、
「そうですね。帰宅時のエレベーターに乗る所から、お願いできますか」
と、言って背もたれに寄り掛かった。
悠真は横に腰を下ろし、黒い手帳を開いたままペンを構えていた。
「帰るときですか。デスクを片づけてホールへ出て、エレベーターのボタンを押しましたよ。そして……」
「――どの階から?」
ほぼ同時に、悠真のペン先が紙の上で止まった。
「十三階です。私のデスクはそこにあります」
「大体の時間も、一緒にお願いできますか」
本郷は、話の途中で遮られたので、一瞬不快な顔を見せたが、
「えーと、七時ちょっと前ですかね。
すぐにエレベーターが来たので乗りました」
「何号機の?」
「ああ、真ん中の“8号機”です」
「一人で?」
「ええ」
「それから」と、安由雷は、タバコの灰をアルミ製の灰皿に落とした。
「エレベーターに乗って一階のボタンを押して、下に降りました」
「途中で、エレベーターは止まりませんでしたか?」
「ええ、一階まで」
「じゃあ、十三階から乗ったエレベーターは、一階に着くまでに、何処にも止まらなかった」
「ええ」と、本郷がくわえタバコのまま、腕を組んで頷いた。
その煙が、ゆっくりと天井の蛍光灯の白に溶けていく。
悠真は、普段下ネタと軽口ばかり叩く先輩が、捜査に入ると一変する姿に、毎回のように息を呑む。
――だが同時に、上層部は安由雷に対して、いい加減で、軽くてチャラい男という印象しか持っていない。
それが一緒に行動をしている悠真にとっては、とても残念でならなかった。
「で、一階に着いてからは?」
「一階に着いて、エレベーターのドアが開いたので降りました。
そういえば二人の男性が、私と入れ替わりに、私の乗ってきたエレベーターに乗り込みました。
確か、……金融業務部の人です」
「それで?」
「それで、出入口へ歩いていきました」
「時間は?」
「そうですね、七時過ぎです」
「七時過ぎとは?」
「七時一分位じゃあないですか」
「警備員の前をすれ違うときに、誰かとすれ違いませんでしたか?」
「ええ、パン屋の袋を持った女性と」
「女性の、お名前は?」
「分かってるんでしょう。
T社の吉川志季さんですよ。
今回の第一発見者だと聞いていますが――」
「吉川さんの事は、以前から知っていましたか?」
「ええ、東部さんには、何度か仕事をお願いしましたから」
短い沈黙。
安由雷はタバコの火を灰皿に落とし、
煙の向こうから本郷の目をじっと覗いた。
視線だけで、言葉以上の圧を与える。
本郷の喉仏が、ごくりと上下する。
安由雷は一息つくと、隣の悠真に顎を傾けた。
気づいた悠真が、そっと耳を寄せる。
安由雷が短く何かを告げると、
悠真は無言で頷き、立ち上がって小走りに部屋を出ていった。
*
安由雷は、顔を戻すと静かに聞いた。
「それと、もう一つ伺いたいんですけど。
あなた、結婚されていますよね?」
「ええ」
本郷は、悠真の出て行ったドアを見つめたまま、気のない返事をした。
「さっきの若い刑事さんは、どちらへ?」
「いえ、別に」
安由雷は長いまつげの目を上げ、軽く首を振る。
「ところで――お子さんは?」
「いません」
本郷は顔を戻し、無表情のまま首を横に振った。
「奥さんは、職場では別姓と聞いていますが」
「ええ、家内も結婚前の職場で、今もフルタイム勤務ですから」
夫婦の苗字も口座も別。
必要以上に干渉しない――いまどき珍しくもないが、本郷の言葉からは、どこか冷えた距離を感じさせた。
「ところであの日、あなたは馬場さんに、お金を返す約束をしていましたよね?」
「ああ、あれは、お金が……どうしても工面できなくて」
「で?」
「馬場さんに話して、後日にしてもらいました」
「じゃあ、あの日は返さないことにした」
「ええ」
本郷はきっぱりと答えた。
(……延期? なら手帳には×印が残るはずだ。
それに、告訴まで辞さなかった馬場が、あっさり引き下がるとは思えない)
灰皿の煙の奥で、安由雷の瞳がわずかに細くなった。
言葉を選ぶより先に――彼の直感が、目の前の男の“嘘の温度”を嗅ぎ取っていた。




