第2話 チンコン警部補とへなちょこマン
警備員に背を向けて通路の突き当たりを左に曲がると、
そこは、空調音だけが響く静まり返った地下一階のエレベーターホールだった。
ひんやりとした空気。壁に反射する蛍光灯の白光。
奥の天井に、監視カメラが一台――その赤い小さな点が瞬いている。
左側には、1号機から5号機――低層階用のエレベーターが並ぶ。
壁面には『B1・1F~11F』と刻まれたアルミパネル。
右手には、高層階用の6号機から10号機。
『B1・1F・11F~20F』の文字が、蛍光灯の白光を鈍く反射している。
【補足図】
それぞれの扉の間には、黒い円筒形の灰皿が一つずつ。
膝の高さほどの金属筒に水が張られ、天井灯をぼんやりと映していた。
*
安由雷は、高層階用エレベーターの前で立ち止まり、首を傾げた。
「……おかしいな」
天井を見上げ、腕を組む。――何かが足りない。
視線を巡らせた瞬間、ピンときた。
通常なら、扉の上に数字が並び、今どの階にいるのかを示す――階数表示パネルがどこにもない。
並んでいるのは、各扉の間の壁に埋め込まれた【上矢印の丸ボタン】。
そして、ドアの上で淡く光る【到着を知らせる三角ランプ(△)】だけだ。
安由雷は、腕組をして少し考えた。
*
「先輩、どうしたんです?」
小走りでエレベーターホールに駆け込んできた悠真が、息を弾ませて声をかけた。
安由雷は、顔を向けると、「お前、何してたの?」と、不思議そうな顔をした。
安由雷は、悠真がずっと自分の後ろにいるものだとばかり思っていた。
悠真はニコニコしながら、自分の胸を指さした。
「あっ!」
安由雷が見ると、ちゃんと『岡本悠真』と名前の書かれた入館バッチが胸に光っていた。
「お前……」
(子供だな)と、安由雷が言いかけたとき――
「先輩、早く行きましょうよ」と、悠真が先を急がせた。
「ああ、………だけど、このエレベーター、どれが早く着くのか、分かんねぇな……」
「こうなりゃ、全部押してみるか」と、安由雷がエレベーターのボタンを指さした。
「先輩、バカですか?」
「ん、なに」
悠真は、近くのボタンを一つ押した。
すると五基の高層階用エレベーターの丸ボタンが4つ、一斉に点灯した。
少しして、『チン』と鳴って、一番奥の10号機のエレベーターの上にある、△ランプが点灯した。
「最近のエレベーターは、どこでもいいからボタンを押せば、一番近くにいるエレベーターが自動的に選択されてロックされるんですよ」
悠真は得意げに言い残し、
「知らないんですか? おジンですね~」
と、澄ました顔で10号機の前へ歩いていった。
安由雷は、何か言いたげに唇を結んだまま、悠真の後ろに続いた。
安由雷は、悠真の胸に付いたバッジを横目で見た。
役職欄を見た。………『空白』だった。
自分のを持ち上げて見た。
『警部補』――その肩書きの文字を見て、安由雷はニヤッと笑った。
「ちょっと貸してみな」
「あっ、何するんですか?」
悠真は、胸バッジを取られて慌てて長い手を伸ばしたが、安由雷の動きの方がワンテンポ早かった。
悠真は、体が大きいために動作が少し鈍い。
「こうだろ」
安由雷は、バッジから外した紙を出すと、ホールの壁を下敷きにしてボールペンで何かを書き足している。
「先輩!」 と、取り返したときには、もう遅かった。
役職欄に――
『へなちょこマン』。
「ガッ、ハッハッハッ……!」
安由雷が腹をかかえて大笑いをした。
悠真は、自分のボールペンで『へなちょこマン』の文字を必死に消している。
目は涙目で。一人っ子で、母親に育てられた悠真は、少し泣き虫だった。
「泣くなよ、ごめんよ。冗談だから………なっ」
安由雷が背伸びしながら、長身の悠真の肩に手をやっと回して、10号機の前まで歩いてきた。
しかし、謝っている安由雷の目は、まだ笑っている。
悠真は、きたなくなってしまった紙を胸バッジに戻すと、胸に付けた。
――チィンコン!
エレベーターのチャイムが鳴り、△ランプが点滅して、到着が間近な事を知らせた。
「ん、いま、チンコんって鳴らなかったか。チ・ン・コ・んって」
安由雷が、肩に手を回したまま言った。
悠真は、相手にしたくないといった呆れ顔で、
「キンコンでしょう」と、言った時にエレベーターのドアが開いた。
中には誰も乗ってはいなかった。
「いやいや、絶対チン――」
「もういいですって!」
悠真が、安由雷の言葉を遮りながら、二十階のボタンを押した。
エレベーターは、二人を乗せて、静かに上昇を始めた。




