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黄緑の手記

作者: 久田ふえ

湿気に弱い。

湿度が高い季節になると身体が冷えやすくなるようで、おなかが痛くなったりする。


田宮光輝にその話をすると、「ふーん」と言って少し不思議そうな顔をしてから、ゆっくりと、幼い子供に向けるような笑顔を見せた。目尻に少しできる皺が表情をやわらかくする。少し間をおいて、「そういえば」と話し出したことから、湿気の話にはまったく興味がないことがわかるが、その一連の反応が想像していた通りだったので、特に感想は持たなかった。


興味がないことがわかっても、「全然興味ないよね」などと言ったりはしない。そんなふうに、小さいことにすぐ拗ねるようなキャラクターの女は、今必要がない。


向かい合って、口角を少し上げたまま、私は黙って田宮の話を聞いている。「失礼いたします」と男性の声が聞こえて、個室の引き戸が静かに開いた。刺身の盛り合わせと、大きめの茶碗蒸しに海鮮のあんがたっぷりかかった料理がテーブルに置かれた。私がゆっくりと自然な所作で小皿に取り分けるのを、田宮が満足そうに見ている。小さな声で「おいしそう」とつぶやくと、うれしそうに同意した。


器や箸の持ち方、動作のスピードや、食べ物を口に運ぶときの首の傾け方まで、用意していた通りの動きをトレースする。今このタイミングで、この場所に必要なキャラクターとしてここに存在している。そんな私を田宮が目を細めて見ている。


田宮は自分自身や自分の話が好きな人間で、相手が黙って聞いているのは、多少なりとも自分に興味があるからだと思っている。だからといって、相手の話を聞けないわけではない。私がなんらか話し出せば、その内容にまったく興味がなくても、薄く笑顔を浮かべたまま耳を傾けるだろう。耳を傾けたまま、頭の中では、どんなことを言えば相手に感心され、次に自分はどんなエピソードを話そうか考えている。そんなふうに基本的に自分について考えている人間だから、私の声を聞いて私と目を合わせているのに、ほんの少し私の頭の後ろあたりを見ているように見える。こういう人間を私は、「目が合っているのに焦点が合っていない」と表現するのだけど、この表現が伝わるひとはどれくらいいるんだろう。


田宮は自分のことを優れた人間だと思っているし、実際にそれなりの学歴があり、それなりの役職で仕事をしているが、親類以外の人間から、深く愛されてはいない。友人も多く、田宮に好感を持っているひとはたくさんいる。ただ、深く愛しているひとはいない。たくさんのひとに囲まれても、深く愛されることのない人間が私の仕事の対象になる。と思っているけど、本当は世の中のすべてのひとがそうなのかもしれないとも思う。どちらが正しいのか私にはわからない。


ふたりで食事をするのは2回目。前回は恵比寿の駅から少し歩いた場所にあるイタリアンだった。テーブル同士が近すぎず程良い広さで、少し高めの価格帯のため、客層は落ち着いていた。静かで(田宮自身が)話しやすいことが、彼の好みに合っている店なのだけど、田宮は自分がそんな基準で店を選んでいることをたぶん知らない。「黄緑さん」と私を呼ぶ回数は、前回の食事のときよりも減っている。初対面で相手の名前を呼ぶ回数を意識的に増やすなど、相手との距離を近づける小さなコツを知っている。


田宮は私の話に興味がない。でも私自身に興味がないわけではない。私が、田宮好みの顔と身体と雰囲気を持っているから、その時点で田宮の興味の対象としては十分なのだった。これからの2週間ほどの期間で少しずつ、田宮は今よりも私に興味を持つようになる。


私は半年ほど前から時間をかけて、気づかれないように、田宮のことを観察していた。

カフェのふたつ隣の席で背を向けたまま、同僚と話をしているのを聞いていたので、彼の上司の娘がもうすぐ留学することも知っている。移動のための地下鉄のホームで、少しイライラしながらスマホゲームに課金していたのは、仕事の打ち合わせで商談がうまくまとまらなかったことが関わっている。田宮が出勤のためにマンションの部屋を出る際、鍵をかけないで出かける日は女性が玄関で彼を見送って、内側から鍵をかけている。部屋に来る女性はふたりいて、その片方は、田宮がほかの女性を部屋に入れていることも知っていたが、そのことも含めて田宮と一緒に過ごす時間を楽しめるタイプだ。田宮はこのふたりに対して、同じくらいの時間と費用をかけている。ふたり以外の女性と会うこともあったが、自分の部屋に入れることはない。


父親は他界していて、田宮のマンションから電車で30分ほどの場所に、母親がひとりで暮らしている。母親は父親の遺産と年金で裕福な暮らしをしているせいか、もともと奔放な性格なのか、もうすぐ40歳になる田宮が独り身であることに対してうるさく言うこともないし、干渉もしない。母親には新しいパートナーがいて、週の半分は一緒に過ごしているので、孤独を感じることはないようだ。


田宮は、約1ヶ月後に、誰にも知らせずに私と伊豆に向かうことになる。そしてもう東京に戻ることはない。


計画は大枠だけが決められて、細部は常に調整され、想定外の事態にも柔軟に対応できるようになっている。


私はクライアントの希望にそった仕事をする。今回のクライアントにとって、仕事を依頼する相手として私が最適なのかどうかについて、3ヶ月、合計6回の話し合いをした。私の仕事の方針は「クライアントに損をさせないこと」という一点だけ。だから、私がその仕事に適さないのであれば、私が請ける必要はなく、より適任な者がいるならそちらに仕事を請け負ってもらう。


今日、この店を出た後は、ここよりも少し静かで薄暗い店で、甘くて強いお酒を少し飲みながら、私は田宮への好意を強めていき、数秒間じっと目を合わせたり、微笑んだりするだろう。次の食事の約束をして、その日までのやりとりをする中で、田宮は私との関係の手応えを感じて、私について考える時間が増えていく。


十分に観察したので、田宮のことはよく知っているのだ。約1ヶ月後に、私が私の仕事を完了し、田宮が東京に戻らなくなる状態になるまで、私たちはゆっくりとお互いを知って、関係を深めていく。連休の中日に私たちは伊豆で待ち合わせをして、用意しておいたレンタカーで移動しながら、景色や食事を楽しむだろう。天気だけはどうなるかまだわからないが、雨が降ったほうが仕事が少しだけしやすくなる。雨が降ると湿度が高くなって、おなかが痛くなることがあるので、それが少し心配ではあるが、仕事を無事に完遂できることのほうが大切。


田宮の視線は私を通り抜けて、私の後頭部あたりに焦点が合っているように見える。田宮が私を見ていないように、私も田宮を見ていない。見る必要も、見られる必要もない。私はそういう仕事をしている。

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