どちらが善い子?
賢介さんに家まで送ってもらっても、出島さんは帰っていなかったし、お夕飯の時間になってもまだ帰って来なくて、お風呂に入っても宿題を片付けても、布団の中で本を読んでいても、やっぱり出島さんは帰って来なかった。
何を期待してるんだろう、あたし。
出島さんは、イブの日に出張が入ったって言っていたのに。 しかも、どこだかは知らないけど、海外だとも言っていたのに。
でも、どうしてかな。 出島さんなら、帰って来てくれるんじゃないかなって思ってしまった。 もしかしたら、もしかしたら、不可能に近いようなことでも、もしかしたら、出島さんなら可能にしちゃうんじゃないかなって。
あたし、出島さんに期待し過ぎているのかもしれない 。それって、迷惑だよね。 出島さんに比べれば、あたしは全然子供で、恋愛が何なのか全く分かっていなくて、自分の気持ちに素直にもなれなくて。 久しぶりに会っても、どうやって接して良いか分からなくて、戸惑うばかりで喜べなくて、冷たいことばかり言ったりして、きっと、お仕事で疲れているだろう出島さんは、表面上よりもずっと悲しんでいるんじゃないだろうか。 ああ、あたしって何でこうなの? どうして、簡単なことが出来ないんだろう。 決めたのに。 決行する機会が少ないなら尚更、その少ない機会で実行しないといけないって分かっているのに。 あたしの頭は、理解していても決断しても、行動には移してくれないみたい。
イブの夜は、全然寝付けなかった。 両親は、よかれと思ってプレゼントをサンタさんからよ、なんてたすくの部屋に置いていくもんだから、妖怪は信じているくせに、サンタクロースは信じていない弟のたすくは、サンタではないということを証明するために、家中から証拠品と思われるものを集めるのに必死になるのだ。 そして、やつの走り回る音はとてもうるさい。
結局、たすくの足音で目を覚ましたあたしは、だるい体を引きずって洗面所へと顔を洗いに行った。
「うわ」
思わず声がこぼれるほど、鏡に映ったあたしの顔は非道いものだった。 目の下の隈はくっきりと青黒く、眉根に寄せられた皺はまるで永久に彫られたように顔の真ん中に鎮座し、口唇はかさかさ、髪もぼさぼさ。
「最悪」
こんな最低最悪な顔を見られるんだったら、出島さんに会わなかったのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。 とさえ思えてくる。 どんだけ追い詰められてるんだ、あたし。
「おはよう」
機嫌の悪さを隠そうともせずに、居間に入っていくと、興奮で頬を上気させたたすくが顔を上げた。
「お、姉ちゃん! どしたの、めちゃめちゃ顔色悪いよ? 何か道端で拾ったもの食べたの?」
「拾わない。 食べない。そ して、失礼」
「じゃーあれだろ、サンタからプレゼントもらえなかったんだろ、姉ちゃん意地悪で陰険で気分屋だから」
「あんたに言われたくない。 ていうか、今何て言った? サンタ?」
「うん。 ほら、見てよこれ! じゃん!」
効果音を自分で言ってから、たすくが手元に置いてあった分厚い辞書みたいな本を掲げる。 きらびやかな黒地の装丁に、金色の文字が大きく光る。 達筆な筆記体で書かれた本のタイトルは、『世界 妖怪図鑑』。 あたしは、げんなりと思い切り呆れた顔をしてみせてから、
「わーお。 おめでと。 たすくは、良い子にしてたからサンタさんからプレゼントもらえたのね。 すごいすごい」
と、可能な限り棒読みで言ってやった。
「おう! 当たり前じゃん! しかもこれ、一番新しい版なんだぜっ。 今まではさ、日本の妖怪図鑑ばっかりで、世界の妖怪図鑑っていうのはなかったわけ。 しかも、世界の妖怪図鑑っていうと、必ず、日本の妖怪は軽視されてたんだけど、今回の図鑑からはきっちり日本の妖怪も入ってるんだぜ。 ほら、ぬらりひょんだろ、あかなめだろ、輪入道だろ、ほら、河童も! しかもさ、しかもさ、ちゃんと猿人種と水棲種の違いまで説明してくれてんの。 すごいだろー」
「すごい、すごい。 全然羨ましくないけど、すごいすごい。 それよりかさ、たすく」
たすくの向かい側に座って、二人で炬燵を囲む。 あたしは、あくびをこらえながら、机の上に置いてある籠の中からみかんを取り出し、皮をむきながら、
「あんた、サンタクロースなんていない、とか言ってなかった?」
「いやー、それがさ。 今年は、ちょっと事情が違うんだよね。 庭にも、境内にも鹿みたいな足跡があるし、サンタのおっさんの髭みたいな白い毛が玄関に落ちてたし、図鑑についてたラッピングの紙も、いつもみたいにデパートのものとかじゃなくて、外国っぽいし。 だから、もしかしたら、これまでのはサンタのおっさんじゃなかったのかもしれないんだけど、今年は確実におっさんだと思う」
「おっさんって、あんた……。 見てもいないのに、何でサンタはおっさんだと思うのよ」
「だって、絵本の挿絵とかだと、いっつもそうじゃん?」
たすくって、大人びたこと言ったりしてるけど、やっぱりまだまだ子供だわ。
「それよかさ、出島さん、災難だったよな」
「何が?」
急に話題が変わるもんだから、あたしは口に入れたみかんでむせそうになった。
「イブの日に出張なんてさ。 周りがお祭りムードのときに、自分だけ働かないといけないって、辛いと思わない? しかも、あんな遠いところに」
「遠いところ? たすく、出島さんの出張先がどこか知ってるの?」
「うん」
「なんで」
「何でって、そりゃあ、聞いたからに決まってるでしょ」
「あ、ああ、そう……」
「姉ちゃんってさあ、全然出島さんに質問とかしないよね。 いっつも出島さんに何か聞かれるの待って、出島さんが自分のことを話すのを待って、それで、出島さんと付き合ってるって言えんの?」
何故だろう。 正論が、家族や自分の近しい人からやってくると、無性に腹が立つのは。 たすくが言っていることは正しいと思いつつも、あたしは腹が立って仕方がなかった。 むかつく! 弟のくせに! たすくのくせに!
「うるさいなあ」
「姉ちゃん、出島さんのこと大事にしてやんないから、サンタのおっさんからプレゼントもらえないんだよ」
「うっさい!」
ああ、もう、最悪の一日の始まりだわ。
「姉ちゃーん。 岡崎が来てるよ」
たすくは、あたしの真似をして岡崎のことを呼び捨てにする。 年下で生意気なたすくに呼び捨てにされてもなお、怒らないでいられる岡崎はつくづく、心が広いんだろうなあと思う。 きっと、カルシウムの摂取量が違うんだわ、あたしとは。
冬は、日が暮れるのが早い。
そこまで遅くはない時間なのに、玄関から見える外の景色はすでに暗く、岡崎の顔は家の灯りに照らされて、いつも以上に健康優良児に見えた。
「どしたの?」
「うん」
言って、岡崎はにこにこと相好を崩す。 そのまま、何も言わないでいる岡崎をいぶかしげに見て、あたしは待ち切れずに、
「なに」
「ちょっとね。 散歩、しない?」
「散歩?」
「そ。 今日、そんなに寒くないから。 お前、今日一日一歩も外に出てないんだろ?」
「何で知ってるのよ、そんなこと」
「たすくくんから聞いたから」
「たすくのやつ」
「おれが聞いたんだよ」
「あっそ」
「聞けば、大抵のことは分かるもんだって。 イブ、どうだった?」
「おかげさまで、最悪だったわ」
「それはそれは」
あたしの皮肉にも、まったく顔色を変えずに、岡崎は未だにこにこしている。 それから、あたしにコートを取ってくるように言う。 何であたしが岡崎と散歩に行かなくちゃいけないのか分からなかったけれど、でもまあ、外に出ていないのも事実だし、誰かと世間話でもすれば気も紛れるかと思ったので、あたしは大人しく岡崎の提案に乗ることにした。
「黄本も難儀な性格だよなあ」
「なんでよ」
「そういうとこが、さ」
「岡崎は、良い性格してるわよね。 たまに思うもの。 あたしが、岡崎の性格だったらなって」
ちょっとしたことでイライラしたり、ぴりぴりしたらい、考えすぎてどつぼに嵌る前に自分で気分転換をしたり、気の利いたことを言ったり出来たりしたら良いのに。
岡崎は、あたしの言葉にぷっと吹き出すと、両手を頭の後ろにやって、
「いーや? そうなったら、出島さんは、泣き出すと思うよ?」
「何で出島さんが泣くのよ」
「よく泣いてるじゃん、出島さん。 あ、違うか。 よく泣かされてるじゃん、出島さん、お前に」
「うるさいなあ」
「ははは」
目の前に冬の田んぼばっかりが広がる、見事な田舎の田園風景の前に来ると、急に岡崎が立ち止った。 それから、ジャケットのポケットをがさがさとまさぐる。
「どうしたの?」
「やべえ、家の鍵落としてきたかも。 ……違う、黄本んちだ。 黄本が玄関に来るのを待ってる間に、鍵を棚の上に置いたんだった。 悪ぃ、ちょっと走って取ってくるからさ、ここで待っててくんない?」
「いいよ、あたしも行くよ」
「いや、いいって。 おれが走っていった方が早いし、言うほど歩いてないじゃん。 じゃ、すぐ戻ってくるから」
有無を言わせず、岡崎が走り去るのを見届けてから、ふうとため息をついて空を見上げた。 さっきまで群青色をしていたはずの空は、暗い闇色と藍色の中間色になっていて、急にあたしは心細くなる。
そのときだった。
ぽつ、と蛍の光のようなものが見えたと思ったら、それは見る間に田んぼ全体に広がって、まるで光のカーペット。 ちかちかと煌めく光もあれば、白っぽく光るものあったり、光のばらつきが逆に、その幻想的な雰囲気を創り出す。
「すごい……」
誰にともなくそう呟いたら、何故か返事が返ってきた。
「気に入っていただけましたか?」
「出島さん!?」
いつの間にそこにいたのか、あたしの背後に出島さんが立っていた。 ダウンベストにフリースのパーカ、ジャージのズボンを長靴に入れた、ネオ農民ルックとも言うべき恰好でで、出島さんが笑みを深める。
「え、いつ、から……」
「思ったよりも、準備に手間がかかってしまいました」
「何の……?」
「これですよ」
言ってから、あたしに一歩近づき、出島さんは両手で目の前に広がる光の田んぼを指した。
「これ、出島さんが?」
「ええ。 もちろん、ひとりではちょーっと大変だったので、岡崎さんに助けてもらいました。そ れから、もちろん、この田んぼは僕のものではないので、田んぼのオーナーさんに許可も頂きましたよ?」
「何で……?」
「メリークリスマース! だからです!」
どこぞのファーストフードのCMのように、不気味に明るく言い放って、出島さんはもう一歩、あたしに近付いてきた。
「イブだけが、クリスマスじゃないでしょう? 別にね、僕はイブなんてどうだっていいんですよ。 でも、いっつも出張ばっかりでそばにいれない僕が、イブすらもそばにいられなかったら、うららさんが寂しがるかと思って、それで、イブは一緒に過ごしたかったんです。 でも、本音の本音を言えば、僕は、うららさんと過ごすことが出来るなら、その日がイベントデーですけどね」
言いながら、出島さんはそっとあたしの手を取った。 ぬる、としているその手が、なんだか妙に懐かしい。
「一応、仕事自体は死ぬ気で終わらして、イブの夜にはこっちに戻って来てたんですけど、イブの日そのものは、うららさんと一緒に過ごせなかったわけですし、もしかしたら、うららさんは怒っていらっしゃるかもしれないじゃないですか。 だから、代わりといってはなんですが、クリスマスを、うららさんと過ごそうと思って」
「それで、この田んぼを?」
「イルミネーションっていうのが、流行っているみたいでしたから、出張先では。 あのきれいな光を、うららさんと一緒に見られなかったのは残念ですが、そんなことでへこたれる僕ではありません。 ないなら、作ってしまえば良いんですよね」
何てことないように言うけれど、これだけの広さを光で埋め尽くす作業は、大変だったに違いない。
「もしかして、岡崎が散歩しようって言いに来たのは」
「ええ。 僕が、岡崎さんに頼みました。 だって、うららさんを驚かせたかったから。 驚いてくれましたか?」
くりくりと輝く瞳で見つめられると、急にあたしは喋れなくなる。 どころか、握られた手を振り切って、この場から走り去りたい衝動に駆られるのだ。
「うららさん?」
でも、そんなんじゃ駄目なんだ。 だって、決めたもの。 あたしの欠点なら、あたしが一番よく分かってる。 そのままじゃ駄目だってことも分かってる。 ここから変わっていきたいとも思ってる。 だから、決めた。 だから。
ぐいと、出島さんの手を引っ張って、つま先立ちになると、そっと出島さんの頬に口唇を触れさせた。 それから、全身の血管という血管が沸騰しそうになるのを感じつつも、やっとの思いで、あたしは出島さんの耳に囁く。
「ありがとうございます。出島さんが帰ってきてくれて、すごく嬉しい」
恋愛なんて、ただのまやかしかもしれない。 あたしの気持ちなんて、微々たるものなのかもしれない。 出島さんが、何であたしみたいなのを好きなのかもなんて、疑い始めたらきりがない。 だったら、それを疑うんじゃなくて、もっと前に進んでいった方が良いのかもしれない。 出島さんは、いつもいつもそばにいるわけじゃないから、いられるわけじゃないから、いてくれる時間を、大事に使いたい。 歩みの遅いあたしだけど、進歩の見えにくいあたしだけど、それでも、少しずつでも変わっていけたらなと願うから。
もっと、素直になりたい。
「出島さん?」
達成感と恥ずかしさにまみれて、呼吸をするのも困難だったあたしは、ようやっと息を落ち着けてから、出島さんの異変に気付く。 かちこーんと固まってしまった出島さんは、さながら蝋人形。
「で、出島さん?え、ちょっと、大丈夫ですか?出島さ……」
心配になって、肩に手を置こうとしたら、出島さんの瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。 出島さんは、よく嘘泣きはするものの、本当に泣いたところは見たことがなかったので、あたしはびっくりしてしまって、ますますかける言葉に困ってしまう。
「なんて……」
ぽろぽろと涙を零しながら、出島さんがあたしに頬笑みかけた。 悲しそうにも見えるその頬笑みは、でも、これまで見たどの笑顔よりもはっとさせられるもので、あたしは出島さんの次の言葉を待った。
「なんて、僕は幸せ者なんでしょう」
それから、ぎゅうとあたしを抱き締める。
「こんなに素敵な目に遭えるなら、クリスマスも捨てたものじゃないですね」
「そうですね」
ふふ、と笑い合えば、お互いの息が首元にかかってくすぐったい。
何もかもの答えを見つけたわけではないけれど、出島さんがいるこの時間を、楽しみたいと思えるのは、確実に進歩。 それから、出島さんに抱き締められて、心があったかくなるのは、きっと何かの答え。
ひとりじゃ実行出来ないっていうのも、いつかは、楽しめるようになると良いな。