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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

学生百合

踵で愛を打ち鳴らせ

作者: 遠井音


 好きなものを見つけなさい。

 自分だけの個性を磨きなさい。

 大人はみんな綺麗事を口にする。

 そのくせ私たちが大人になる頃には私たちが十把一絡げの凡人であることを望んで、黒髪ワイシャツ黒スーツ、枠からはみ出ない即戦力を期待するのだ。

 なんて勝手なことだろう。

 好きなものも個性もいずれ抑制されるのだとしたら、それらを持つことに意味はないのだろうか?


 出る杭は打たれるということわざがある。

 昔から人間は変わらない。

 集団から外れる人間を、卓越した人間を、個性ある人間を、打って叩いて然るべきだと思っているのだ。

 なんて美しい世界だろう。

 反吐が出る。


 3年生の始業式の朝、誰もいない教室で歌を歌っていたら先生に注意された。

「皆の迷惑になるでしょう」と。

 私と先生しかいない教室で、私は渋々「気をつけます」と頷いた。

 やってられるか。


   ⚪︎


江田(えだ)さん」


 5月のある日、放課後の3年A組の教室には、もう他の誰もいなかった。

 日直の学級日誌を書いている江田さんと私だけが残っている。

 江田さんは学級日誌の「今日のできごと」という欄を埋めるのに苦戦しているようだった。

 私は江田さんの前の席に座って、江田さんの学級日誌を指差した。

 江田さんは、私を見て戸惑いながらまばたきをする。

 4月にクラス替えをしてから1ヶ月、私と江田さんがまともに喋るのは、これが初めてのことだった。


「ここ、今日は体育で古賀くんが怪我したから、そのこと書けばいいよ」

「そんなのでいいの?」

「なんでもいいんだよ。みんな適当に書いてるし」

「そっか。ありがとう、椎名さん」


 にへ、と江田さんが笑う。

 私は微笑み返した。

 それから椅子に座り直し、真正面から江田さんと向き合った。


「江田さんにお願いがあるんだ」

「わたしに?」

「そう。江田さんって、去年、都の美術展で金賞獲ってたでしょ」

「あ、うん、一応。よく知ってるね」

「全校朝礼で表彰されてたじゃない」

「え、あ、ほんとに覚えてるんだ」

「すごいと思ったから美術館まで観に行ったの。印象に残ってる。すごく上手だった」

「ありがとう。照れるな」

「それで、お願いがあって」

「お願い?」

「私に絵を描いてほしいの」


 私は真剣に江田さんを見つめた。

 江田さんはきょとんとした顔で、またまばたきを繰り返した。


「……似顔絵、とか?」

「違う」

「じゃあ、キャラクターのイラストとか?」

「なんでもいい。サムネ映えして、見る人の目を惹いて、思わず再生せずにはいられないような絵が欲しいの」

「えっと……、椎名さん、その絵は、何かに使うの?」


 当然の疑問だ。

 江田さんの質問に、私は小さく頷いた。

 スマートフォンを取り出して、ユーチューブのアプリ画面を表示する。

 自分のチャンネルのアップロード動画一覧が並んだ。


「これ……?」

「私が歌って動画編集をしたの。聴いて」


 音量を上げて、動画を再生。

 小さな端末から私の歌声が響いた。

 Aメロが始まる。

 Bメロを経て、サビに至る。

 私の手は緊張で震えていた。

 間奏に入ったところで、動画を止めた。


「どう? 私、自分ではかなり良いと思ってるんだけど」

「すっごく素敵……!」


 興奮した様子の江田さんが、嘘をついているようには見えない。

 元より江田さんというのは素直な人だ。

 あまり話したことはないけれど、教室の中は狭いので、一人の人間を観察するのは容易だ。

 江田さんは、素直で不器用で、優しいがゆえに脆いところがある。

 そんな人間、というのが私の所感だった。


「動画、たくさんあるんだね。ぜんぶ椎名さんが歌ってるの?」

「そう」

「すごいなあ……」

「でも、再生数が伸びないの。高評価数とコメント数の割合は悪くないから、単純にサムネが悪いんだと思う」

「このサムネイルは、自分で描いたの?」

「ううん、フリー素材。だから同じサムネの人もいて、埋もれちゃうの」

「なるほど……」


 ふむ、と江田さんが頷く。

 さっとノートを取り出した。

 無地のリングノートだった。

 真っ白なページに、江田さんが四角い枠を描いて、その中に絵を描いていく。


「たとえば今の曲なら、椎名さんの歌の力強さが伝わるような絵がいいと思う」


 さっ、さっ、さっ、と江田さんはなめらかに線を引いていく。

 まるで魔法だった。

 私は少しも絵が描けない。

 モチーフを用意されて、それを描くくらいならなんとかできるけれど、何もないところから想像して絵を描くのは、まったくできないことだった。

 だから、江田さんの指先が、まるで魔法のように見えた。


「力強いけど、でも繊細なところもある……椎名さんの声自体が、透き通るみたいな声だからなのかな。きれいな声で、パワフルな歌い方をしてるんだね」


 江田さんは紙面と対話していた。

 私がさっき流した曲が、江田さんの中でリピート再生されているのがわかる。


「この曲なら、大胆な構図で、でも細部まで細かく描いて、っていうのがいいと思う。こういう感じで……ラフだから、大体なんだけど」


 と言いながら見せてくれた江田さんの絵は、私が想像していた以上のものだった。

 私は思わず江田さんの手を取った。

 興奮しているのは、今度は私のほうだった。


「江田さん、お願い。私のために絵を描いて」


 真剣に、私は告げた。

 江田さんはへにゃりと笑い、「いいよ」と返事をしてくれた。


   ⚪︎


 約束したことは二つある。

 一つは、わたしの動画に江田さんの名前を記載すること。

 本名を記載するわけにはいかないので、江田さんにはハンドルネームを考えてもらった。


「じゃあ、小枝(こえだ)でいいよ」と言うので、私は思わず笑った。

 控えめなで、ちょっと投げやりというか適当なハンドルネームが、江田さんらしい。


 もう一つは、報酬を支払わないこと。

 本当なら、私が依頼した絵を描いてもらうのだから、正当な対価を支払うべきだろう。

 でも私たちは中学生で、私はお金持ちじゃなくて、払うべきお金は持っていなかった。

 「大人になってから払うことにする?」と訊くと、江田さんは首を横に振った。


「江田さん、SNSとかやってる? やってるなら、小枝ちゃんの名前と一緒にアカウント載せるけど」

「やってないから、名前だけでいいよ」

「でも、それじゃ誰も江田さんを見つけられないよ」

「見つからなくていいよ」


 江田さんはそう言って微笑んだ。

 変なの、と思う。

 私はユーチューブだけじゃなくて、各種SNSにもアカウント登録して、宣伝活動をしている。

 ……フォロワーは、残念ながら二桁しかいないけれど。


 見つけてほしい。

 世界に「私」を見つけてもらいたい。

 そうじゃないと、私は私を愛せない。

 個性も、才能も、いずれ大人になったら価値なんてなくなってしまう。


 歌がうまいだけの凡人になりたくない。

 友達に褒められるだけで満足したくない。

 歌がうまいね、だなんて褒められても嬉しくない。

 そんなんじゃ、全然足りない。

 私は私の歌で、世界を変えたい。


 次にアップロードする歌は決まっていた。

 最近流行りのボカロPが作った歌で、歌い手が皆こぞって歌っている歌だった。

 例に漏れず私も歌って、今はミックスをしているところだ。

 江田さんに、コーラスを抜いた状態の音源を送って、絵のラフを描いてもらう。

 一目見ただけで、ぐんっと惹き込まれるような絵だった。

 白黒のラフの状態でも、江田さんの絵の魅力は充分に伝わってきた。


「椎名さんは、世界に見つけてもらいたいの?」

「うん」


 放課後の美術室。

 江田さんはたった一人の美術部員だった。

 先生は職員会議に出ていて、私と江田さんだけが美術室にいた。

 江田さんがカンバスに向かって、私のための絵に、色をつけていく。

 水彩絵の具とアクリルガッシュを組み合わせて塗るらしく、「それって皆やってるの?」と訊けば、「たぶんやってる人は少ないと思う」と返ってきた。

 ふうん、と私は頷き、イヤホンを装着した。

 昨日調整したばかりの自分の歌を聴く。

 サビのコーラスが少し大きすぎる気がした。

 もう少し抑えめでいいだろう。

 手元のノートにメモをしていく。

 足りないところ、足りないところ、足りないところ。

 どうしたら完璧な歌になるのだろう。

 どうしたら、世界に私を見つけてもらえるんだろう。


 曲が終わって、イヤホンを外す。

 江田さんが絵を睨むように見つめながら色を塗っていた。

 私の視線には気づいていないようだ。

 私は、じっと江田さんの斜め後ろから、江田さんと江田さんの絵を見つめた。


 江田さんの絵は、世界に届くのだろうか。

 私の歌は、世界に届くのだろうか。

 途方も無い気持ちになって、私は太腿の上でこぶしを握った。


「椎名さん?」


 筆を止めた江田さんが振り向いた。

 私はいつの間にか俯いていたことに気づく。

 顔を上げ、江田さんを見た。

 江田さんが首をかしげる。


「気分でも悪い?」

「ううん、大丈夫」

「よかった。塗りだけど、金曜日までには終わると思う」

「ありがとう。じゃあ完成したら、スマホで写真撮って、色とか調整してデータ送ってもらっていいかな。その後、私がパソコンで動画編集するから」

「わかった」


 世界。

 世界。

 世界。

 世界って、なんだ?


 江田さんはまた筆に絵の具を載せて、着彩作業に戻っていく。

 私は世界に見つけてほしい。

 世界を変えてみたい。

 ここで終わりたくない。


   ⚪︎


 家でもイヤホンをして、ずっと曲ばかり聴いている。

 テレビはあんまり好きじゃなかった。

 話し言葉を聴くのが苦手で、芸能人の会話で成り立つバラエティ番組もテレビドラマも好きにはなれなかった。

 ボーカルの入った曲を聴くのが好きだった。

 話し言葉でも文章でもうまく響いてこない言葉が、歌として聴くと、驚くほど心になじんだ。

 それがたぶん、音楽の力ってやつなんだろう。


 つらいとき、寂しいとき、苦しいとき、音楽を聴いた。

 音楽は私に寄り添って、私を救ってくれた。

 音楽が好きだ。

 音楽を愛している。

 私も音楽になりたい。

 なってしまいたい。


 中学生になったばかりのとき、有名な音楽事務所の新人発掘オーディションが開かれた。


「行きたいから、同意書にサインしてほしいの」と両親に言うと、首を横に振られた。

「こういうのは、最初から優勝する人が決まってるのよ」と母。

「歌手になんかなってどうするんだ?」と父。


 私の目の前は真っ暗になった。

 個性も才能も、意味がないと言われたようなものだった。


 歌が好きだ。

 歌うことが好きだ。


 結局そのオーディションは、保護者の同意書が得られず、応募すらできなかった。

 悔しくて何度も泣いた。

 歌うことの意味を、歌手になることの意味を何度も自分に訊ねた。

 歌手になれたら、本望だと思った。

 それ以外の望みなんてないと思った。

 歌を歌って、生きて、死にたい。


「ごめん、遅くなっちゃった」


 江田さんの着彩は、土曜日の夕方まで掛かった。

 遅くなることは前日のうちに伝えられていたので問題はない。

 どちらかといえば、江田さんの撮った写真の画質が低いことのほうが問題だった。

 どうやら江田さんのスマホはかなり古い機種のようで、あまりきれいに写真が撮れないとのことだった。

 仕方ないので、私の家まで絵を届けてもらうことにした。

 私の家の玄関で、キャンバスを大きな風呂敷に包んだ江田さんは、ぜえはあと息をしていた。


「大丈夫。私こそ、呼びつけてごめん」

「ううん、全然」


 親は二人とも出掛けていた。

 私の部屋に江田さんを招くと、江田さんは物珍しいものを見るかのように、部屋の中を見渡した。


「汚くてごめんね」


 私の部屋には、ベッドと学習机の他に、デスクトップパソコンを載せるための机がある。

 お年玉で買ったマイクセットも置かれているし、レコードプレイヤーもある。

 本棚には、サブスクで配信されていない曲を集めたレコードやCDが並ぶ。

 どうあがいても、きれいな部屋にはならないのだ。


「わたしの部屋も、同じだよ。画材とかスケッチブックで散らかってる」

「そうなの? ならよかった」


 どうにかスペースを開けて、江田さんの絵を立て掛けるための場所を作った。

 江田さんが風呂敷をほどいて、絵を取り出す。

 それを見て、私は目を見開いた。


 スマホで見るのとは違う、解像度が低くない状態の、生の絵には、生命力や躍動感が宿っていた。

 できることなら、この絵をそのまま他の人にも見てほしい、と思った。

 私は声が出なかった。

 は、とようやく息を吐く。

 江田さんが不安げに私を見た。


「……椎名さん? これじゃだめだったかな」

「違う。そうじゃない。江田さん、これ、すごいよ。絶対に、この絵なら、みんなの目を惹く」


 私は笑っていた。

 勝利を確信していた。

 江田さんの絵は、間違いなく世界中の人々に届く絵だ、と思った。

 この絵と、私の歌があれば。

 私はきっと、間違いなく、世界を。


 スマホで何枚も写真を撮って、一番いいのを選んで、パソコンに送ってから色味を調整した。

 あらかじめ作っていた動画に素材として追加する。

 私が動画編集をする間、江田さんはその作業を見守っていた。

 自分の飛ばした紙飛行機を祈りながら見つめるかのように。


 動画が完成すると、最終確認として、全画面で動画を表示させて、再生した。

 大きなモニターに江田さんの絵が映る。

 短いイントロの後に、私の歌声がスピーカーから響く。


 世界を。


 世界を、

 私は、

 たぶん。


「……江田さん?」


 江田さんは俯いていた。

 何か気に入らないところがあったのだろうか、と危惧して、私は再生を止めようとした。

 江田さんの手が、それを阻む。


「ちがうの」


 江田さんの声は震えていた。

 そこでようやく私は、江田さんが泣いていることに気づく。


「ちがうの、椎名さん。ごめんなさい、わたし、なんか、感情が、たかぶると、涙が出ちゃうの」


 ふるふると江田さんが首を横に振る。

 涙を拭い、モニターをじっと見つめる。

 私の歌と、江田さんの絵はまだそこにあった。

 江田さんは自分の絵を見つめる。

 私の歌に耳を澄ます。

 ラスサビが終わって、アウトロが響く。

 動画は再生を終了する。


「……どうだろう。これでユーチューブにアップするつもりだけど」

「ありがとう、椎名さん」

「問題ない?」

「うん」


 お礼を言うのは私のほうだった。

 どうして江田さんが私にお礼を言うのか、私にはふしぎだった。


   ⚪︎


 世界は、すぐには変わらなかった。

 けれど江田さんに絵を描いてもらった動画は、いつもの100倍の再生数があった。

 私はたくさんの歌を歌い、江田さんにもたくさんの絵を描いてもらった。

 チャンネル登録者数はじわじわと増え、動画の再生数も少しずつ伸びていった。

 目まぐるしく春が過ぎて、中学校生活最後の夏が終わり、秋の短さに気づいたときには、もう冬になっていた。

 江田さんは芸術学科のある高校への推薦入学を決めていた。

 私は一般入試で、都立高校の普通科を受験するつもりだった。

 というか、それしか道はなかった。


「椎名さんは、音楽学校みたいなところには行かないの?」


 美術室で絵を描く江田さんの横で、私は次に歌う曲の練習をしていた。

 歌声を徐々に小さくして、私は「うん」と頷いた。


「うちはそういう家じゃないから」

「そっか。おうちの事情って色々あるよね」


 江田さんを羨まなかったと言えば嘘になる。

 芸術に理解のある家に生まれたかった。

 幼い頃から才能を見いだされたかった。

 暴れそうな心臓を私は必死で抑えた。


「江田さんは、いいね」


 心臓がうるさく鳴っている。

 口から放った言葉はもう戻らない。

 私は慌てて口元を覆った。

 江田さんが絵を描く手を止める。


「……椎名さん?」

「ちが、うの。ごめん、江田さん」


 立ち上がると、椅子ががたんと音を立てた。

 私は一歩後退する。


 江田さんの隣にいる資格など、私にはないのだと気づく。


 才能のある人を妬んだ瞬間、私はただの凡人に成り下がる。

 愚昧な大衆に交じり、あとはもうセリフすらない村人Aとしての人生を終えるだけだ。


「ごめんなさい!」


 叫び、私は美術室を出ていった。

 途中の廊下で、美術の先生とすれ違った。


「廊下は走らないようにねー」というのんきな声が、あまりにも場違いだった。

 私はどこへ行ったらいいのかわからなかった。

 どこにも行けないのに、どこかに行きたかった。

 どこにだろう?

 ここではない、どこかだ。


 階段を降りようとしたら話し声が聞こえてきたので、階段を駆け上がった。

 屋上へ続く階段を。

 下校時刻まで、屋上は開放されている。

 扉を開ければ、冷え切った空気が頬を刺した。


 私はふらふらと屋上を歩いて、フェンスまで近づいた。

 触れれば、かしゃんと音がした。

 飛び降り防止のフェンスは高く、死んではいけないと私に圧をかけているかのようだった。


 死ぬつもりなんてない。

 でもここにはいたくない。

 どこに行ったらいいんだろう?

 どうしたら、私は世界に見つけてもらえるんだろう?


「椎名さん!」


 扉が開いて、江田さんが息を切らしながら私に近づいてくる。

 江田さんは、ぼろぼろ泣いていた。

 泣いたまま、私の手を握って、祈るように俯いた。


「ごめんなさい、椎名さん、わたし、に、力がなくて」

「……え?」


 江田さんの言葉の意味がわからなくて、私はぽかんと口を開けた。


「わたしの絵が、世界に届かないから、世界は、椎名さんを見つけられなくて、だから、江田さんは、音楽科に行けなくて……」


 涙を拭うこともせず、震える声で江田さんが告げる。

 江田さんが肩を上下させながら泣くのを見ていると、私は自分の幼稚さが恥ずかしくてたまらなくなった。


「……江田さんのせいじゃないよ」

「でも……」

「さっきのは、単なる私のひがみ。たとえば、私のチャンネルの登録者が100万人いても、うちの親は私を音楽学校になんて行かせてくれない」


 架空の話だ。

 すべては仮定の話。

 だって。

 私が今、もがいているのは、そうするしか道がないからなのだ。

 私の歌は、世界には届かない。

 その程度の力しかないのだ。

 今の私には。


「でも、歌はどこでも歌えるしね! 高校生になったらバイトして、ボイストレーニングとか通おうかな」


 私がなるべく明るい声でそう言うと、江田さんは、ぎゅっと手に力を入れて、振り絞るように「あのね」と告げた。


「わたし……、教室が、すごくこわかったの」


 江田さんが、静かに言う。

 私は首を傾げた。


「教室?」

「……うん。去年、わたしは教室に通えない時期があって。ずっと美術室にいたの」

「そう、だったんだ。知らなかった……」

「3年生になって、がんばろうと思って、朝一番の教室ならきっとこわくないはずだから、うんと早く教室に行ったの」

「うん」

「そうしたら、歌が聴こえた」


 江田さんが、ゆっくりと顔を上げる。

 ぐしゃぐしゃの顔で微笑んでいた。

 私は目を見開く。


「椎名さんが歌っていたんだ」

「……私を、知ってたの?」


 あの日、放課後の教室で、声を掛ける前から。


「知ってたよ。すごくきれいな歌だった」

「声、掛けてくれればよかったのに」

「わたしは、その歌を聴いて、泣いたの。だから教室に入れなかった」


 始業式の日に歌っていた歌は今も覚えている。

 先生に怒られた歌だ。

 動画にするには、少しマイナーな曲だった。

 でも、私がとっても好きな曲だ。

 流行からは外れていて、一般ウケもあまりしないはずの、その曲が。

 歌が。

 江田さんに届いていたのだ。


 目の奥が痛んだ。

 視界が揺らぐ。

 私の歌は。

 世界には、まだ届かなくて。

 でも、目の前の江田さんには、届いていた。


「わたしを励ましてくれる歌だった。わたしが今、教室に通えているのは、椎名さんのおかげだよ」


 今度は私が泣く番だった。

 私の目からはぼろぼろと涙がこぼれて、私は江田さんの手を握り返して、膝をついた。

 祈るようにその手を掲げた。

 きれいな絵を描く手を、祈るように握りしめて、私は声を上げて泣いた。


 世界。

 世界。

 世界。


 私。


 そして、あなた。


 世界に見つけてほしいという欲望が、誰かに届いてほしいという願いなのだと、私はようやく気がついた。

 強く強く、江田さんの手を握る。

 私の歌は、きちんと届いている。


「大丈夫だよ、椎名さん。あなたの歌は、きっと世界に届く」


 江田さんが、そっと私の手を撫でる。

 冷えきった冬の空の下で、江田さんの指先は、唯一の希望みたいに温かかった。


   ⚪︎


「江田さん、じゃあ、行くよ」

「うん」


 誰かのために歌を歌うのは、初めてのことだった。

 私はずっと世界に見つけてほしくて、自分のことばかり考えて歌を歌っていた。


 江田さんのため、と言えばそれはそれで傲慢な気もするけれど、私は正真正銘の徹頭徹尾、他の誰のことも考えず、江田さんのことだけを考えて歌を歌った。

 そして江田さんが、それに絵を描いてくれた。

 簡素な動画を作って、江田さんに見守られながら、私はその動画をアップロードした。


 たぶん人生というのは、そういうものなんだと思った。


 凝った動画は作らなかった。

 重厚なコーラスも入れなかった。

 そういったものは必要なかった。

 江田さんの絵も同じだった。

 余計なものはすべて削ぎ落とされて、必要な要素だけがそこにあった。


 そしてその動画は、世界中に届いた。

 最初に書かれた英語のコメントが称賛の意だとわかったときは涙が出た。

 見たことのない言語でコメントが届いた。

 再生数はどんどん増えていった。

 誰かがSNSで拡散して、知らない誰かがまた拡散して、そして、私の歌は、私の知らないところまで届いていった。


 あとの話も、もしかしたら蛇足なのかもしれない。

 私は高校在学中に音楽事務所に声を掛けられ、デビューすることが決まった。

 デビュー曲の動画イラストは、江田さんに依頼することができた。

 江田さんもまた、画家・小枝として世界に名を轟かせていた。


 私たちは、私のライブで江田さんがライブペインティングをしたり、江田さんの個展で私の録り下ろし楽曲が流されたり、そうやって私たちは着実に活動の幅を広げていった。

 私は大学に行かずに歌手となり、江田さんは美大へ進学した。

 そうやって、私たちは「大人」と呼ばれる年齢になった。


   ⚪︎


「――では、最後の質問です」


 音楽雑誌のインタビューで、私はいろいろな質問に答えていた。

 私はインタビュアーさんの目を見つめながら、はい、と頷く。


「椎名さんにとって、歌とは、どんなものですか?」


 歌を歌うことによって、私は世界とつながれる。

 そう答えようとして、喉がきゅっと苦しくなった。

 違う。

 私にとっての歌は、もっと。

 もっと身勝手で、

 もっと身近で、

 もっと。


 しばらく考えてから、私は微笑んだ。


「私にとっての歌とは、」


 過去を思い出した。

 教室で歌っていた歌を。

 聴いて涙してくれた江田さんのことを。


「一生の友達と出会えた、すばらしいきっかけです」


 私は今でも、たいせつに想っている。

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